第24話 あの人には恩がある

 学生時代、拓実はダンスに人生を捧げていた。バトルでは絶対王者と呼ばれる程に実力を付け、界隈での知名度もぐんぐん上がる。ついにはプロとしてやらないかというお声も掛かり、拓実はダンサーとして生きていくのだとすっかり気持ちを固めていた。


 だが、そこへ悲劇が起きる。大学を卒業する少しばかり前、過剰な練習量のせいで膝が壊れてしまったのだ。リハビリをすれば日常生活への支障はなくなるが、プロとしてやっていくには絶望的。そこで拓実は、人よりもかなり遅れて就職活動を開始した。


 だがこれが妙な時期の就活となった為、募集は実に少なかった。それだけでも不利なのだが、就活市場において、拓実の経歴は見事なまでに不評だった。プロダンサーを目指していた為に就活が遅れたという事実が、地に足の付いていない浮ついた若者だという評価に繋がってしまったのだ。


 面接の度に懐疑的な視線を向けられ、呆れたように溜息を吐かれ。不採用の通知が届く度、拓実の心はどんどんと荒んでいく。

 いや、就活なんてものは苦労するのが一般的だ。優秀な者以外は何度だって断られ、その辛酸を舐めた上で何処かの会社で内定をもらう。簡単にはうまくいかないという事を覚悟した上で臨むものだ。

 だが拓実は、何社も何社も断られると、異様なまでに落ち込んでしまった。この時は余りにも精神状態が悪かったのだ。


 だってそうだろう。大好きな事を仕事にして生きていけるのだと、思い付く限りの夢を描いてしまっていた。もっともっと技術を磨き、もっともっと素晴らしいダンサーになるのだと。様々な舞台に立ち、観客を笑顔にして……

 そんな夢が、突然描けなくなったのだ。その喪失がどれ程心を蝕むか。そんなところへ「君はうちにはいらないよ」と連続して言われれば、とことんまで気持ちが落ちて当然だ。


 もしやダンスという武器を失った自分は、なんの価値もないのでは。

 誰にも必要とされず、何処にも居場所を作れない……


 そんな思考に陥ってしまう程に自己肯定感は痩せ細り、世間で自分だけが周回遅れになっているような気持ちになって。そうなるともう、人に会うのも恥ずかしくて。

 いっその事ずっと何処かに隠れていたいような気にもなるが、それでも職を見付けない事にはどうしようもない。拓実は重たい心と身体を引き摺り、無理やり面接に通い続け――そんなどん底の日々の中で出会ったのこそ、狩谷であった。

 若くして班長の座に着いていた狩谷は、この通販会社の面接に立ち会っていた。募集をかけていたのは彼の部下になる人員だった為だ。


 数人の面接官の内、ほとんどがやはり拓実に対し良い印象を抱かなかった。芸能に没頭していたような人間が、果たしてフルタイム勤務なんて勤まるのか。協調性はあるのか、ビジネスマナーはどうなのか……

 いつも通り厳しい視線に晒されながらも、拓実は懸命に笑顔を作り、「根性ならあります! なんでもやります!」と繰り返した。こんな台詞は面接では何の役にも立たないと聞いた事もあるが、資格も何もない拓実にはそれくらいしか売りがない。なので只管、根性というワードを繰り返す。

 今思い出すと稚拙過ぎる自己アピールだが、それに唯一頷いてくれたのが狩谷だった。

 彼はじっと拓実を見据えて言ったのだ。


「根性か……結局のところ、俺が一番求めてるのはそこかもな。何せ最近の奴らは根性がねぇ。折角採用してやっても一年も経たねぇ辞めちまう……なぁ、お前は辞めねぇか? そう簡単に辞めねぇなら、採ってもいいぞ」


 多少横柄にも聞こえるその言葉。だが拓実には、雲間に射す一筋の光のように感じられた。


 こんな自分でも働かせてもらえるのか。

 なんの武器も持たない自分でも?

 根性さえあれば、辞めるとさえ言わなければ、居場所を与えてもらえるのか――……



「……とまぁそんなわけで、今の俺があるのは狩谷さんのお陰なんだ。狩谷さんはやる気のある人間にはチャンスをくれる、懐の深い人なんだよ」

 と、拓実は自らの過去を語ったが、ダンスについては伏せていた。今の自分とプロを目指していた頃の自分は乖離し過ぎていて、今更ダンスをしていた事を人に話すのが恥ずかしいのだ。まぁなんにせよ、これで沢田も狩谷を見る目を変えてくれたらと思ったが。

「いやー、それもどうなんスかぁ?」

 沢田は眉間に皺を寄せ、非難がましい声を出した。


「辞めなければ取ってやるって……実際働いてみない事には、その会社が合ってるかどうかなんてわかんないじゃないスか。それなのに続けろって最初に約束させんのって、なんか……何ハラっつぅのかわかんねぇスけど、なんらかのハラを感じます!」

 この批判に拓実は天を仰いでしまった。今の話は拓実にとっては美談なのに。こうもあっさり否定され、あまつさえ「ハラ」認定されるとは。


「まぁ……沢田の言う事も一理あるかもしれないけど、でもやっぱり俺にとっては、本当に有難い話だったんだよ。誰も彼もに要らないって言われる中で、狩谷さんは受け入れてくれたんだから。そういう人が居てくれたのは、間違いなく救いだったんだ」

「だからって、その面接だけでいつまでも狩谷さんに尽くし続けるってのもなぁー」

 沢田はどうにも納得がいかない様子だった。


 全く困ったものである。彼は後輩達の中でも最も狩谷との相性が悪く、何かと言うと狩谷を悪者にしたがるのだ。

「全くお前、狩谷さんについてだけは本当に頑固だな。お前はいつもチャラチャラしてるし、社会人らしからぬところも多い。けど要領はいいし愛嬌もある。お前から歩み寄ってみれば、狩谷さんもきっと気に入って――」

「って、評価してくれんのは嬉しいッスけど、狩谷さんとうまくやるのは絶対無理っス! 俺はあの人って生理的に無理なんで、うまくいかなくていいっスわ!」

「あぁーもうー……」

 ままならない後輩に、拓実はどうにも頭痛を覚えた。


 二班の溝はどうしようもないのだろうか。なんだってこう、上と下がいがみ合うのか……板挟みとなっている身としては、また胃の辺りがしくしく痛み出してくる。この状況、一体どうすれば良いものかと拓実は悩み出すのだが……


――いや、今日は止めよう。


 拓実は思考を断ち切って、無理やりに脇へ避けた。班の現状は気に掛かるし、いつかなんとかしなければとは思うものの、この複雑な問題に今日は取り組む余裕がない。

 何しろ今夜は、あの春親と清史と、初めて一緒にスタジオ練習する予定なのだ。

 何事も最初が肝心と言うし、十個も歳の離れた若者達と友好的な関係を築く為にも、できれば遅刻はしたくない。その為に今日は、定時までに仕事を終わらせる事だけに集中したい……!


 そうして拓実は午後の業務を必死に片付け、定時とまではいかなかったが、それでもとても優秀な事に、十五分残業するのみでタイムカードを打刻した。事務所を出ると、まだ世界は淡い光の中にあり、それが物凄く新鮮だ。いつも会社を出る時には、すっかり暗くなっているから。


――こんな時間に退社なんて、なんか悪い事してるみたいだな。


 一瞬そんな事を考えたが、しかし駅へと歩き出すと、罪悪感はあっという間に霧散した。これから自分は踊りに行く――その事実が拓実を高揚させるのだ。

 ストレス解消の為に踊るのとは趣が全く違う。大会に向けて己を高める、そんな目的があるだけでモチベーションが跳ね上がる。それも一人で練習するのではなく、チームメイトと一緒だなんて……まるで遥か昔の青春の日々が舞い戻ったようじゃないか。

 考えると胸が高鳴り、今だけは仕事の悩みの入り込む余地がない。こんな感覚はどれくらいぶりだろう。頭の中がダンスでいっぱいになるなんて!

 気持ちが逸る余りに歩調も速まり、しかし走ったらまた膝を痛めてしまう為、妥協案の早歩きで駅へと向かう。少しでも早く練習がしたいと、これ以上なく前のめりで――だが。


 いざスタジオ入りした拓実は、急いで来た事を後悔した。


 何故って、そこで待ち受けていたのは、想像以上に厳しい清史のスパルタストレッチだったからだ。

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