第二章 竦んだ身体

第22話 想定外の展開

 五月というのは、一年の内で最も良い気候だと拓実は思う。陽射しは麗らかで温かく、吹く風だって爽やかだ。駅から会社までの道を行くのも、この時期が一番気分が良い――が、今日の拓実はそんな季節の恩恵を感じている余裕がなかった。

 何しろ今日から、狩谷が不在なのである。


 彼が出社できない間、二班をまとめるのは拓実の役目。が、しかし、そこには大きな不安があった。

 狩谷は誰かがミスをすれば厳しく指導し、そのミスも彼ならではの力技で、強引に軌道修正を図ってしまう。班の空気が弛んでいれば、大声で一喝する事だってできる。実に上司らしい上司である。


 だが、そんな狩谷をもってしても、二班の後輩達は御し切れなかった。彼らは狩谷の言う事よりも、自らのペースを優先する自由人なのだ。

 そんな若者達が、果たして自分の言う事を聞いてくれるのか……昨日はやれると信じたが、一晩経つと冷静になる。己が如何に困難な状況に置かれたか、理解が追い付いてきてしまう。


 狩谷が不在なのを良い事に、後輩達が仕事をしてくれなかったらどうしよう。

 気が緩んでミスを連発なんて事になったら?

 その結果、業績が地の底まで落ちたりしたら……

 それどころか、二班が崩壊でもしたら……


 悪い想像が膨らんで押し潰されそうになってきたが、拓実は「えぇい」と頭を振った。

 ネガティブになっても仕方がない。そも仕事には困難が付き物なのだ。そしてその困難を突破してこそ、成長できるというものだ。

 そう気合を入れ直し、背筋を伸ばして会社へ向かう。しっかりしろ、砂川拓実。此処で踏ん張らなくてどうするのだ。それにダンスとの両立も考えなければいけない以上、仕事だけで手いっぱいになってもいられない。


 その為に――そうだ。今この時間にもできる事があるはず……そう考え、拓実は頭の中で配送区域の地図を広げた。狩谷の不在で配達員が減ってしまう分、新しい配送ルートの割り振りを考えなければいけないが、その草案くらいなら歩きながらでも練れるかも。

 そうして拓実はああでもないこうでもないと唸りながら、会社へ到着したのだが。


「あ、砂川さん。狩谷さん不在時の配送ルート、こんな感じでどうでしょう?」

「へ?」


 拓実の顔を見るなり、二班の配達要員である小森こもりがタブレット片手にそう声を掛けてきた。表示されているのは二班が担当する配達区域のマップ。そこに数色のマーカーで、これまでとは異なる配送ルートが書き加えられている。これまでは配送員の人数に合わせて四つのルートとなっていたのを、見事三つに振り分け直して。


「え――え、これ、考えてくれたのか⁉ いつの間に⁉」

 拓実は大きく目を見開く。それは正しく、出社までの道すがら拓実がやろうとしていた事だ。だがなかなかに条件が複雑で、これはデスクにて本腰を入れて考えなければと思っていたのに……それをまさか、依頼をしていたわけでもないのに、自ら考えてくれる奴がいたなんて。


 驚いて見詰める拓実に、少しクールなその社員は、表情を変えないままに言う。

「いつの間にって言うか、実は前から考えてたんですよね。誰か一人が休んだ時、これまでは早く配達終わった人がその分もカバーしてたじゃないですか。でもこうして、最初から三ルートで分担した方が効率いいんじゃないかって……ともかく確認お願いします」

「あ、ああ!」

 促され、改めて地図に目を落としてみると、その采配は完璧と言えるものだった。配達先がほぼ均等に割り振られ、コース設定にも無理がない。拓実が苦心していたのは、配達量の多い客先が何処かのルートに偏ってしまわないようにという点なのだが、そこもカバーされている。

「えぇ、すごいなコレ……確かに人数が少ない時はこのコースで回るのが最適だ! うわー考えてくれてありがとう、めちゃくちゃ助かる! 特にこの辺りの分担なんて、全然考え付かなかった!」

 拓実は地図を指し示しながら、目を輝かせて感嘆する。と、普段は表情の乏しい小森も、心なしか少し誇らしげな顔になる。


 それにしても意外だった。この後輩が、言われてもいない事を自らやるなんて思わなかったのだ。何しろ彼は狩谷には、二班で最も無気力な社員だと言われている。指示された事しかやらないし、自ら仕事を探そうという意欲もない……そんな評価を受ける社員が、何故こんな?


「あのさ、ちょっと聞いてもいいかな」

 どうにも気になり、そう切り出す。

「なんで前から考えてたのに、このアイディア、今の今まで言わなかったんだ? これ、狩谷さんに言ってたらすぐ採用されたと思うんだけど……」

 そう口にした途端、小森の顔が瞬時に変わった。誇らしげな色が消え失せ、皮肉っぽい笑みが浮かぶ。

「や、狩谷さんに言ったところで聞いてもらえないですよ。あの人は自分の判断だけが絶対で、人の……しかも下の意見なんて絶対取り入れないんだから」

「えっ――いや、狩谷さんだって有効なアイディアには耳を傾けてくれると思うぞ⁉ 現にこれ、すごく良くできてるし……」

「無駄ですよ。あの人は、部下が何か意見を出すと、自分のやり方にケチ付けられたって捉えちゃうから。それに砂川さんみたいに褒めたり感謝したりって絶対しない、むしろ粗探しして否定するだけ……なのにわざわざ提案したいとか思えないんですよね」

「う、うーん……」


 拓実はなんと返していいやら困ってしまった。

 確かに狩谷は手放しに部下を褒めるようなタイプではない。拓実も入社してからの九年で、彼に褒められた記憶なんて無いに等しい。が、それは狩谷の求めるレベルが高いから、そして拓実が至らないからに他ならない。

 だが小森の案については、非の打ちどころが全くないのだ。この案があれば業務効率だって絶対に上がる。効率が上がれば業績も上がるのだから、一班を追い抜きたい狩谷なら否定なんてしないだろう。ましてや粗探しなんて……

 そう考えていると、始業のチャイムが響き渡った。これに小森は「じゃ、その案よろしくお願いします」とさっさと席に着いてしまう。

 本当は彼を追い掛け、もう少し狩谷について話したかったが、しかし拓実はグッと堪えた。何せ今のチャイムをもって、いよいよ狩谷の代理業務が始まってしまうのだ。

 小森が配送ルートを考えてくれたお陰で今日のタスクはグッと軽くはなるのだが、自由人達をまとめ上げねばならない以上、油断はできない。余計な事に気を取られてはいられない。後輩達がちゃんと仕事をしてくれるよう目を光らせ、なけなしの威厳を発揮していなければ……そう考えて気合を入れたが。


 いざ業務が始まると、なんだか様子がおかしかった。


 息を詰め身構えている自分が滑稽に思える程、業務が円滑に進むのだ。

 いつもより後輩達の雑談は増えているし、狩谷が居る時に比べて空気も緩い……が、その分業務上のコミュニケーションが滑らかというか、とにかく進みが早いのである。

 誰かがミスをしてもすぐに誰かがリカバリーに入り、進捗の遅れを助け合う。諸々の報告だっていつもよりも迅速だし、電話応対も、いつもは押し付け合いのような空気が流れるが、誰もが率先して受話器へと手を伸ばす。拓実が口を出すまでもなく、スムーズに仕事が回っていく。


――あれ、なんか……思ってたのと違うぞ……?


 トラブルがないのは助かるが、なんというか拍子抜けだ。二班の後輩達というのは、もっとマイペースで自由人で、やる気に乏しかったはずでは……?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る