第17話 不謹慎なチャンス
その声は思っていたよりも威勢が良く、拓実は一気に安堵した。どうやら心まで弱るような酷い状態ではないらしい……と思ったが、狩谷自身はこれでもかと腹を立てている様子だった。
『ったく冗談じゃねぇ、こんな事になっちまってよ! カート押してたら、足元にガキの投げたボールが転がってきたんだよ。それに足取られて、ほんの二十センチくらいの段差落ちたらそれだけで足首骨折だ』
「骨折ですか⁈ それは災難な……あの、痛みはどうですか?」
『どうもこうもねぇ、馬鹿みてぇに痛ぇわ! けど身体がどうこうより、この時期にってのが痛ぇ……ツイてねぇにも程がある』
狩谷は忌々し気に舌打ちする。
曰く、完治までは凡そ二カ月掛かるそうだが、入院自体は四週間。だから退院したらすぐに出社すると支店長に伝えたが、敢え無く却下されたらしい。支店長は狩谷の無茶をする性格を知っている為、強制的に休息を取らせようとしているのだ。退院から完治まではリモートワークをするようにとのお達しが出たという事である。それが狩谷にはこの上なくもどかしい、と。
『まぁ、支店長の決定には逆らえねぇし、どうしようもねぇ……そういうわけで俺は暫く出社できねぇ。だから砂川、その間の事は任せたからな』
狩谷は声の圧をぐんと強めてそう言った。
『俺の代わりに、下の奴らの手綱しっかり握っとけよ。まぁお前に俺の代わりが務まるとは思えねぇけど、こうなった以上は仕方ねぇ……それに業績もきっちり伸ばせよ、何がなんでもこの夏に一班を追い抜くんだ、いいな!』
「っ、わかりました、善処します……!」
拓実はプレッシャーに身を引き締め、相手に見えるわけでもないのにペコペコと頭を下げながら電話を切った。そうして大きく息を吐くと、同時に。
「なぁんだ骨折かぁー!」
じっと聞き耳を立てていた沢田が、脱力するようにそう言った。
「てっきりもっとヤバイ怪我かと思ってビビったじゃないッスか! 命に別状ないんなら何よりッスわ!」
「ああ、本当に……って、骨折だって大事には変わりないけど」
だが拓実も、そこについてはホッとしていた。救急車で運ばれる程の怪我と聞いて、もし内臓や脳に損傷があったらと思っていたのだ。それに比べれば、完治するような骨折ならばまだ、と考えてしまう。他の班員達も皆、もっとずっと悪い想像をしていたのだろう。一気に空気を弛緩させる。
そんな面々に向け、改めて拓実は状況を説明した。まずはそれが、班長代理として最初の仕事だ。
「そういうわけで、狩谷さん復帰までは少し業務がキツくなると思う。配達の人員が少なくなるし、何より支柱となる人がいないわけだから……けど、俺も精一杯サポートするので、ここは皆で頑張ろう!」
これに班員達は真摯な顔で頷いて――……だが、なんだろう。
拓実は少し違和感を覚えた。上司が怪我で二ヶ月も不在になるというのに、班員達からは心配や不安というよりも、もっと別の気配を感じるような……と、そこへ答え合わせをするかのように。
「って事はこれから二ヶ月、狩谷さんから解放される……?」
沢田がぽつりと呟いて、他の社員たちが「馬鹿っ!」と険しい声を上げた。
「いくらなんでも不謹慎!」
「そうだよ、狩谷さん怪我してんだよ⁉」
「や、わかってますけどさぁー」
四方から諌められ、沢田は自分でもまずかったと思ったのか弱ったような顔をするが、それでも更に言葉を続けた。
「俺だって治らないような怪我だったらもっと真剣に心配するわ。つか今だってちゃんと心配はしてるけど……骨折っしょ? 聴いた感じ、ちゃんと治る奴なんでしょ? なら悪いけど、解放感の方がデカいスわ。この先二ヶ月はしつこい説教聞かなくて済むんだから」
そんな沢田の発言にまた皆は咎めに掛かるが、しかし拓実は気付いてしまった。
沢田の言葉は、後輩全員の総意なのだと。
口では心配だ、不謹慎だと言っていても、彼らの顔にはそれ以上の安堵が見えるのだ。
その様子に、拓実は初めて認識した。彼らにとっても狩谷という存在は、かなりのプレッシャーだったのだと。後輩達は狩谷の事等恐れていないと思っていたが、実際は重圧を感じていた。それでも自らの自由を守る為、重圧を必死に跳ね除けていたに過ぎないのかも……
そう考えていると、四方八方から糾弾されて味方が欲しくなったのか、沢田がこちらを振り向いた。
「ねぇ! 砂川さんだってこの状況、ちょっとチャンスだなって思わないスか? つか砂川さんが一番得でしょ、狩谷さんが出社復帰するまでは残業の強要も飲みの付き合いもないんスから! この二ヶ月は好きな事できるじゃないスか!」
「こら、まだ言うのか!」
一層厳しく攻め立てられ、沢田はついに「わかったよもう黙ります!」と観念した。拓実も、「そうだぞ、この状況をいい事みたいに言うんじゃない」と釘を刺し、それから努めて厳格な顔で仕事を再開したのだが――……しかし。
沢田の言葉により、次第次第に速まっていく胸の鼓動を抑える事ができなかった。
だって確かにこの状況は、またとない好機だ。狩谷が二ヶ月も出社しないとなれば、沢田の言う通り、自分の時間を持つ事ができる。そして……そして確か、例のダンスバトルの大会も、二ヶ月後──
「……っ」
そこまで思い至ると、いよいよ心臓が走り出した。
今の状況ならば、挑戦できる。できてしまう。二度と立てないと思っていたバトルフィールドに戻れてしまう。それも、過去に経験したものよりもずっと大規模な大会で――嗚呼駄目だ、考えるのを止められない。衝動が心臓を痛いくらいに蹴りつける。
無論、不謹慎だとはわかっている、薄情だとも理解している。狩谷を酷く落胆させる行為だろうとも……それに抵抗がないはずない。
だが、こうなった以上、やりたいと。
どうしても、どうしてもやりたい、と。
その衝動は徐々に拓実の中、揺るぎないものとなっていった。班長代理として気を引き締めなければいけないというのに、心が逸って仕方がない。九年間押さえ付けていた情熱が、熱い奔流となって全身を駆け巡る。
――狩谷さん、ごめんなさい……!
拓実は胸の内でそう叫んだ。
――仕事は必ずきっちりやります。手を抜くつもりはありません。だからどうか今だけは、我儘を許してください。これが終わったら絶対に、仕事に一途になりますから。今まで以上に頑張って、狩谷さんに認めてもらえるような部下になります。だからどうか、どうか今だけ……!
本人を前にしては到底言えるはずもないが、せめて胸中で強く誓う。必ずや仕事とダンスを両立させる事を。
うん、そうだ、きっとできる。
拓実は腹の底に力を入れ、ぐっと己を奮い立たせる。
自分は根性だけはある。やろうと思えば、できない事はきっとない。集中して、工夫して、効率を考え抜けばきっと……と、考えたところで。
「ん?……あ、あぁっ!」
拓実は思わず声を上げた。突如の事に二班のメンバーのみならずフロア中の人間が何事かと一斉に振り返る。その光景で我に返り、拓実は「あ、すみません、なんでもないです」と頭を下げつつ小さくなるが。
しかし叫びたくなるのも無理はなかった。
ダンスジャンクに出るとなると、まずは昨日の若者達に連絡を取らなければいけないが、今更になって思い出す。自分は彼らの連絡先なんて知らないじゃないかと。
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