第15話 苦過ぎる過去

――好きな事、なぁ……


 段ボールを乗せたカートを配送車へと押しながら、その言葉を拓実は何度も反芻した。

 沢田という後輩は、好きな事に正直に生きている。勤務時間内に最低限のやる事を終わらせると、定時には意気揚々帰って行く。タイムカードの打刻と共に勤め人という立場を脱ぎ捨て、自らの人生へと突っ走っていくのだ。他の後輩達も同様である。


――もし、それが俺にも許されるなら……


 拓実はつい、そんな事を夢想する。昨夜きっぱりと断ったのに、どうしても、思考のどこかに付き纏うのだ。再びバトルフィールドに立てたらと……それもアワジの主催するような大規模な大会となれば、どれだけわくわくするだろう。


 重低音に横隔膜を震わせながら、大音量の音楽と同化して踊る事ができたなら……熱狂の奔流に身を任せ、思うまま、感じるまま、感性を自由に解き放って……

 考えていると、身体の内に衝動が生まれた。あの若者達の熱意ある誘いが手を引いて、沢田の言葉が背中を押す。やりたいならばやるべきだ、と。


 だってこれは、膝を怪我した自分が挑戦できる貴重過ぎる大会だ。それなのに、みすみす逃していいものか。昔の事を思い出すのも、それだけ未練があるからじゃないのか。もう一度踊りたいという気持ちが、今も確かにあるからじゃないのか――……


 だがそこで、襟の後ろをクン、と引かれるような感覚があった。制止するのは他でもない、もう一人の拓実自身だ。自分まで私生活を優先すれば、二班はとんでもない事になるぞと厳しい現実を突き付ける。


 そこには一つ、苦過ぎる前例があった。


 それはまだ新人の頃、拓実は狩谷の飲みの誘いを断った。その日はどうしても観たいダンスの特番があった為、放映時間に間に合うように帰りたかったのだ。するとそれから一週間、狩谷の機嫌は頗る悪くなったのである。


 いや、拓実も「病院に行くから」とか「家族が風邪で」とか、適当な理由を付ければ良かったのだ。そうすれば狩谷も怒らなかっただろうと思う。が、まだ若かった拓実は馬鹿正直に、「ちょっと観たいテレビがあって」と告げてしまった。それが狩谷の逆鱗に触れた。上司の誘いよりもテレビを優先するとは何事か、と。


 狩谷の不機嫌は拓実に対してだけでなく、班員にまでも飛び火した。声を掛けても睨んだり溜息を吐いたり無視したり……上司からそんな態度を取られれば、皆萎縮してしまう。


 お陰で業務は滞るわ、有り得ないミスが連発するわ、以前から狩谷に不満を持っていた者なんかはこれをきっかけに辞めてしまうわで大変な事になったのだ。自分が齎したあの暗黒の一週間を思い出すと、今でも胃がキリキリする。


 因みに当時の班員達は、拓実以外はもう誰も残っていない。二班は人が定着しないのだ。そうして班員はどんどんと入れ替わり――

 この数年で入ってきた後輩達は、もう上を立てるなんて考えは微塵も持っていなかった。時代というものは移り変わる。今の若者達にとっては仕事より自らの人生を最優先にするのが当然なのだ。彼らは狩谷の不機嫌もなんのその、飲みに誘われても「あ、自分そういうのパスなんです~」と断ってのけるのだから恐れ入る。


 そういう部下に対しては狩谷も諦めているようだが、拓実に対してはそうじゃない。拓実には昔ながらの流儀に従い、上を立て、仕事に人生を捧げるよう求めている。

 だというのにダンスの為にと残業や飲みを断るような事があれば、どれだけ狩谷が機嫌を損ねる事になるか……その結果、また誰か辞めてしまったら……嗚呼、考えるだけで恐ろしい。


 だから、そう。

 結局は考えるだけ無駄なのだ。


 拓実は今一度、ダンスへの衝動を封じ込めた。

 今の自分は勤め人となったのだ。そして自分が置かれた環境は、好き勝手に人生を謳歌できるようなものではない。言わば自分はバランサーなのだ。上と下がぶつかり合わないようバランスを取り、二班の平穏を守らねば。


 拓実は自らに言い聞かせ、ダンスへの未練を断ち切った――……いや、断ち切ったと思ったのだが。

 夕方、その日の配達を終えて事務所に帰ると、状況が一変した。

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