第4話 ストレスの限界値

「有給ぅ? ……って、来月にかよ!」


 昼休み。それとなく誘い出した定食屋にてその件を切り出すと、案の定狩谷は顔面の筋肉をこれでもかという程に歪めてみせた。

「来月っつったらお前、例のモールがオープンするタイミングだぞ。滅多にない稼ぎ時だってのに、その時期に有給? ったくふざけてるな沢田の奴!」

「いや、ごもっとも……」

 拓実は苦笑いしつつ、狩谷から見えないように胃を摩る。上司が怒っている姿を見ると、その対象が自分でなくとも精神が削られるのだ。お陰で一層、胃の痛みが強くなる。


「つぅかその有給って、遊びの為じゃねぇだろうな? ここで業績上げりゃ、今度こそ一班を追い抜けるかもしれねぇんだ。その大事な時期に遊びで休むなんて許されねぇだろ! 俺はこの機会に掛けてるってのに!」

 狩谷は苛立ちに任せ、手羽先に思い切り食らい付いた。勢い余って骨まで嚙み砕いてしまったのだろう、その口の中からバリバリという恐ろしい音が聞えてくる。


 彼の言う一班とは、豊島区内の第一地区を担当する班である。拓実達二班は、一班に業績で負け続けている。これが狩谷としては物凄く気に入らないのだ。何がなんでも一班を追い抜かそうと、二班班長に就任して以来、彼は日々闘志を燃やし続けてきた。


 と、そこへ大チャンス。来月、第二区域内に巨大なショッピングモールがオープンするのだ。新店舗は何やかんやと物入りになる。そこへ積極的に営業を掛ければ、受注数が大幅に増加するに違いない……!


 これに狩谷は意気込んで、部下たちにも気合を入れろと発破を掛けた。だというのに、その時期に合わせての部下の有給申請である。これに狩谷が怒らないはずがない。


「あー……詳しくは聞いてないですけど、かなり必死な様子だったし、結婚式とかじゃないですかね……?」


 拓実はそう言うのだが、方便だ。沢田が休みたい理由とはフェスである。

 拓実としては、有給は社員の権利だと認識している為、その取得については特に何も思わないが、よりによってこの繁忙期にフェスなんか行かんでも、と頭を抱えた。だが沢田としては、これは絶対に外せない用事らしい。彼の追いかけているバンドが初めて出演する大型フェスであるらしく、何が何でも参加したいのだとか。


 しかしそんな事を正直に話せば狩谷の機嫌が最悪になる事は明白なので、拓実は適当に誤魔化すのだが、「ホントかぁ~?」という疑わし気な声が返された。

「大体にして、若い奴らは仕事ってのを舐めてんだ。繁忙期でも平気で休みを取ろうとするし、定時になったら当然の顔して帰りやがる。会社の為に尽くそうって頭もねぇ、飲みにだって付き合わねぇ……俺が二十代の頃にはそんなの考えられなかったぞ。そんなんで社会人名乗るなんて甘いだろうが!」

「いやー、時代でしょうかねぇ……」

 拓実は狩谷に同調するように、顔を顰めて相槌を打つ。


 若き後輩達は、仕事を人生の全てにはしていない。生きる為、稼ぐ為の手段として最低限の事はこなすが、あくまでも人生の中心にあるのは私生活だ。バンドやアイドルを追い掛けたり、ジム通いに精を出したり、気の合う仲間と飲みに行ったり……

 その姿は狩谷の理想とする勤め人の在り方とは対極で、なんと言うか、実に自由だ。皆、定時が来るのを待ちわびて、チャイムが鳴れば晴れやかな顔で帰っていく――居残る狩谷や拓実には目もくれず、だ。

 狩谷がそれを咎めても、「でも、今日やる事は終わってますし」と取り付く島もないのである。その態度には、拓実も頭が痛い思いである。


 全く、彼らは仕事をなんだと思っているのだろう。勤め人になったというのに、あんなにものびのびしていていいわけがない。いつまでも学生気分を引き摺っているのかもしれないが、全くなんと羨ましい――……って、“羨ましい”⁉


 浮かんだ言葉に拓実は驚き、そして慌てて打ち消した。いやいやいや、ないないない。羨ましいなんて、一体何を考えているのだろう。別に後輩達のように振る舞いたいわけじゃないのに……というか狩谷の流儀に対し、なんの不満もないというのに。


 思い掛けない自らの思考に拓実は混乱していたが、そんな事など露知らず、狩谷は乱暴な溜息を吐き出した。

「あー……まぁいいわ。ここで有給取ろうなんつぅ軟弱な奴、どうせ戦力にならねぇからな。下の奴らはやる気がねぇし、信用もできねぇ……まぁろくに教育のできない奴が面倒見てんじゃ、仕方ねぇかもしれねぇけどよ」

「っ! も、申し訳ありません……!」

 急にこちらに矛先が向き、拓実は即座に頭を下げる。後輩達の教育は拓実が任されているのである。


 が、謝ったところで説教の回避はできなかった。今や狩谷の怒りは、完全にこちらに向けられてしまった。

「お前、本当にわかってんのか? 下の奴らがああなのは、お前が舐められてるからなんだよ。もう九年目だってのに、お前には威厳ってモンが全くねぇ。褒めるばっかでビシッと言えねぇ。そんなんで下が育つわけねぇだろうが。本っ当にお前って、何一つろくにできねぇんだからよ!」

「はい、申し訳ありません……」


――嗚呼、やはりこうなるのか。


 拓実は縮こまりながら胃を摩る。後輩達と狩谷の調整役を担う時、狩谷の怒りは最後にはいつも拓実に向くのだ。全ては拓実がしっかりしていないからだと、長く厳しい糾弾がある。いや、後輩達が絡まずとも、狩谷は何かというと拓実に対して駄目出しをするのだが、中でも後輩教育の至らなさについては一層厳しく指導が入る。


 それと言うのも、拓実は昔から感激屋なのだ。

 何かを良いと思ったら、言葉を尽くして賞賛せずにはいられない。だが反対に、悪いところを指摘するのは酷く苦手だ。故に後輩達の事も、褒めてばかりとなってしまう。たまに何かを注意しても、迫力のようなものは全くない。それが後輩達を付け上がらせるのだと、狩谷には酷く苛立たしいらしい。


 そして今回は、大事な時期の後輩の有給申請とあって、狩谷の説教はいつもよりも長引いた。「これはお前が招いた結果だ」「お前は馬鹿で使えない」「ろくな部下がいなくて本当に参る」……そんな言葉が降り注ぐのを拓実はじっと耐え忍ぶが、言われる内、自己肯定感が下がっていくのは止められなかった。


 本当に、自分はいつになった成長できるんだろう。九年も会社勤めをしているというのに、こんなにも至らない。早起きも満員電車にも慣れたが、しかし、それだけ。肝心な仕事に於いては、まだまだ半人前なのだ……自己嫌悪に肩が落ちる。職場に居る間は常に明るくと心掛けているのだが、この駄目出しの嵐の中では明るくいられるはずもない。


 そうしてすっかり落ち込み切った頃、狩谷も言う事がなくなってきたのだろう、ようやく空気を弛緩させ。

「まぁーそうは言っても、お前くらいしか本気で働こうって奴がいねぇからな。砂川、ここはしっかりやれよ。沢田が休む分、お前がきっちりカバーしろ! ほら、使えねぇ分スタミナくらいはしっかり付けとけ、きっちり食わねぇと仕事にもならねぇだろ!」

「は、はい!」


 促され、拓実はアジフライに齧りつく。が、サクサクの衣とふわふわの身の、さっきまでは美味かったアジフライが、今はなんの感慨も及ぼさなくなっていた。


 胃の辺りが、とにかくしんどい。

 しんどくて、食欲が全く刺激されない。

 嚥下えんかするのにも抵抗を感じる……と、なれば。


――騙し騙しでなんとかなるかと思ったけど、限界か……


 拓実は別に、仕事が嫌いなわけではない。狩谷の厳しい指導だって、自分の成長に必要な、有難いものだと思っている。

 だが、やはりストレスというものはどうしたって蓄積した。怒られたり駄目出しされたり、人と人との間に入ったりする事は精神に負荷が掛かるのだ。

 そうしてストレスが一定値まで達すると、身体に出る。拓実の場合、胃が痛み出すのである。こうなるとうまく食べられず、顔色も悪くなる。今、拓実の心身の疲労の蓄積具合は間違いなくレッドゾーンだ。


 この状態を放置するのはよろしくない。ストレスの溜めすぎで身体を壊す人間は少なくないのだ。自律神経失調症、神経性胃炎、免疫低下による諸々……ストレス由来の体調不良は実に多い。


――そうなる前に、一度ガス抜きに行かないと……


 拓実はそう考えながら、苦労してアジフライを飲み込んだ。

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