因習村の魚影 11

 正直、わたしは目を疑った。


 もしかして、この魚臭さの中にはわたしたちの知らない物質があって、それがわたしの頭をおかしくしてしまったんじゃないか。あるいは酸素欠乏症でどーにかなっちゃったんじゃなかろうか、と。


 何度も瞬きし、ほっぺもつねってみたけれど、目の前の光景がかすみのように消えていくことはなかった。


「現実……?」


 むしろ、白昼夢とか幻覚の方がよかったかもしれない。


 七輪しちりんのすぐ目の前には、ヒトがひざまずいている。手足は壁から伸びる鎖によって拘束され、短距離走の選手がゴールへ(この場合は七輪へ)突っ込むみたいな体勢を無理やり取らされている。


 彼の顔は、七輪から上がる黒煙と悪臭と熱で赤く歪んでいた。


木耳きがみさま……っ」


「本当ですわね」


 ひょいっとわたしと同じように顔を出した夏子さまが言った。


 ということはさ、同じ幻覚を見ているんでなければ、わたしが見ているものはやっぱりこの世で起きていることらしいね。信じたくないんだけど。


 魚人が七輪の前に胡坐あぐらをかいているっていうのも衝撃的だ。でも、その上で焼かれているのは干物――それもくさやだ。


 あのゲキレツににおう発酵食品は、あぶって食べるとおいしいよね。でも、こんな空気の逃げ場のない閉鎖空間でやるもんじゃない。


 どちらにせよ、木耳さまはくさやの臭いを浴びせられ続けて、おえつを上げている。つるやかな地面に残る無数のシミは、すっぱいに違いない。


「うわあ……なにやってるんでしょ」


拷問ごうもんとかでしょうか」


 思ったけどさ。よく平然と口に出せるよ、うちのお嬢さまは。


「しかし、どのような意図でやっているのかがわかりませんわね」


「意図……?」


「映画とかでもあるではないですか、スパイから情報を聞き出すためとかです。これそのものが目的という可能性もありますけれども」


「ご、拷問がっ!? じゃあ木耳さまを助けないと」


「もちろんです」


 夏子さまが立ち上がり、歩きだす。


 あ、ちょっと待って――わたしが冬子さまに持たされた秘密兵器を取りだす暇もない。


 お嬢さまは影へと近づいていって。


「なにをやっていますの貴方」


 と朗々とした声で、魚人へと話しかける。


 わたしは思わず、両手で顔を覆った。どうせなら不意打ちでもバックスタブでもすればよかったのに。冬子さまだったら絶対そうする。


 でも、そういう七面倒なことを夏子さまはしない。深謀遠慮しんぼうえんりょという四字熟語は、彼女の辞書には存在しないんだ。


「人を拷問するだなんて、いけませんわ。いますぐおやめなさい」


 くさやの焼ける臭いを浴びせつづけるという拷問もおかしなものだけれども、魚人に良い悪いを説く夏子さまも、ヒトによってはおかしく思われるかもしれない。


 わたしもおかしいと思う。でもこれがお嬢さまがお嬢さまたる所以なんじゃないかなって。


 魚人の飛び出た真ん丸お目目が、ぎょろりと夏子さまと、通路の影に隠れていたわたしをにらんだ。


 ……やっぱり、不意打ちしてもらったほうがよかったかも。


 なんて今更後悔したってもう遅い。


 魚人は明確な敵意をわたしたちへと向けてきていた。もう次の瞬間にはヒャッハーって叫びながら飛びあがってきそうだ。


 むき出しの殺意ってこういうことなのかもしれない。心の中がぞくぞくして、体が震えてくる。いますぐ回れ右して逃げ出したいんだけど、心と体の接続が解除されちゃったみたいに、ピクリとも動かせない……。


 逃げて。


 そんな言葉さえも、かすれて満足に発することができない。


 でも、夏子さまはわたしの言葉が耳に届いたかのように振り返り、


「任せて頂戴ちょうだいな」


 と、いつもの調子で言った。


 次の瞬間、魚人が飛びあがる。空中で弓のようにからだをしならせたかと思えば、鋭いかぎづめを振り下ろした――。






 お嬢さま、絶体絶命――。


 そんなあおりが脳裏をよぎった。いかに頭脳明晰ずのうめいせき文武両道を地で行く夏子さまといえども、バケモノとは戦ったことがないだろう。というか、お嬢さまは誰かと戦いなんかしない。せいぜい、椅子の上に座って、あらあらうふふと放課後以外もティータイムするくらいだ。


 でも、戦えないとはひとことも言ってない。


 夏子さまが左足を引いて、体をひねった。


 細身の体が宙を舞い、回転する。


 元殺し屋ばりのキレのいい回し蹴りが、飛んできた魚人のアゴにクリーンヒットする。


 メキャバキグシャッと、骨と骨とが合体事故を起こしたような音。


 綺麗な放物線を描いて吹き飛ばされていく魚人。べちゃりと落ちたバケモノをバックにお嬢さまが着地する。


 この間、60フレームいっしゅんのこと。


「ふう……がらもなく、はしゃいでしまいましたの」


 ごめんあそばせ、と夏子さまがエビぞり状態の魚人に言ったけれど、返事はない。ぴくぴくと痙攣けいれんするばかりだった。


 そういえば、あの映画の主人公もジャージを着てたっけ。お嬢さまは剣を背負ってはないけれども。


 そんなことを漠然と考えてるうちに、夏子さまが目の前までやってくる。


「大丈夫かしら」


「あ、えっとわたしは平気です」


 それよりも心配なのは……。


 わたしはぐったりと宙に身を投げ出している格好の木耳さまを見る。心臓は動いてはいるみたいだから生きてはいるんだろうけど、よくないことは間違いない。


「そうだね。わたくしも木耳さまのことが心配です」


 夏子さまは魚人には一瞥いちべつもくれず、木耳さまへと近づいていく。さっきまでは興味津々という風だったのに。まさか、格闘漫画の登場人物みたいにこぶしを交えるだけで、実力がわかっちゃったとかそんな感じなのかな。


 とにかく、わたしも木耳さまに近づいていく。


 彼を拘束こうそくするくさりは、わたしの腕ほどもあって、リュックサックの中のチェーンカッターじゃどうにもならなそう。


 鎖は手首足首に回された枷につながっている。鍵穴があるから、どこかにカギがありそうだけれども。


 わたしと夏子さまは部屋を見まわし、


「あったよ」


 と夏子さまが、魚人そばから見つけてくれた。


 それを差し込み、木耳さまを開放する。


 宙ぶらりん状態となった依頼人を抱える。その体は木の葉のように軽く、顔は見るも無残なほどにげっそりとしている。くさやの臭いをかがされるだけで人はこうなってしまうのか……おそろしい。


「わたしがかつぎましょうか」


「懐中電灯も持ってもらっているのにいいの?」


 わたしは頷く。まだ余裕はあるし、こんなに軽いヒトくらいなら簡単に抱えられそうだ。


「ありがとうね」


「いえ、これがわたしの仕事ですから」


 と――言ったところで、背後で物音。


 わたしと夏子さまはほぼ同時に振り返った。


 見れば魚人が腕を動かしている。その手にはボタンのようなものが握られていた。真っ赤で押したらぽちっと音がなりそうなテンプレート的ボタンだ。


 押し込まれたら最後、潜水艦から核ミサイルが打ちあがる、基地の自爆がはじまる、人生がリセットされる……等々のことが起きそうだ。


「ちょ、ちょっと!」


 わたしは止めようとした。そうするしかないじゃない。「いいや押すぜ!」とでも叫ばれるのがわかっていてもさ。


 でも、魚人はそんなこと言わなかった。いや、言ったのかもしれないけれども、わたしたちにはわからない奇怪な言語だったってだけ。


 ポチッ。


 そんな擬音が聞こえてきそうなほど繊細に、魚人はスイッチを押し込んだ。ダメ押しとばかりにぐりぐりしてる。


 次の瞬間、洞窟内が真っ赤に染まった。


 どうやら、スイッチは警報を鳴らすためのものだったみたいだ。

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