因習村の魚影 9

 洞窟どうくつなんてわたしは入ったことがない。


 メイドであるわたしが入ったことがないんだから、夏子さまも初体験だと思う。もしくはこどものころにでも鍾乳洞しょうにゅうどうに行ったことがあるかもしれないしね。


 中は、ひんやりしていた。


 夜の寒さというよりかは、冷蔵庫の中にいるみたいな寒さだった。長袖だっていうのに、鳥肌が立つくらいには。夏子さまがワンピースではなくジャージ姿でよかった。


「――って、もしかしてこうなるの想定してました?」


「さあて、どうでしょうね」


 と朗らかな笑みを浮かべる夏子さまを見ていると、ありとあらゆることをわかって動いてるんじゃないかって思ってきちゃう。あるいは夏子さまが想定するように、世界が変容するとかね。ってSF小説の読みすぎか。


 閃光せんこうに照らされた洞窟は、思いのほか広い。高速のトンネルくらいの広さだろうか。でも、換気扇なんてないから、少し進むだけで空気がよどんだ。


 最初は、あいつらの拠点じゃないかもしれないって思った。でも、違う。


 先へ進めば進むほどに、魚が腐ったような臭いは強さを増した。今度からはガスマスクを用意したくなるくらいには強烈だ。


 ああ、昔くさやを食べさせられたときのことが思いだす。服に臭いが染みついて洗っても取れないんだ。だから、臭いのきついものを食べる人は着替えを用意しておいた方がいい。わたしは……ダメだったよ。


「ジャージ使えなくなっちゃいますね」


「それは残念。かなり気に入っていますのに」


 夏子さまはお嬢さまだけれども、服装には頓着とんちゃくしない。もちろん、パーティにはドレスを、部屋着はセクシーなネグリジェだ。でも、体育の授業では学校指定のジャージだし、もちろん授業中は制服。これはわたしだって同じだから安心してほしい。


 だから、お嬢さまのことばは嘘偽りないってこと。


「ちょうどいいですから、ももかの服も買い替えましょうか」


「い、いいですよ別に……」


 メイド服なら、替えがごまんとある。今着てるやつもそうだし、ミニスカだったりチャイナ服的なスリットが入ったやつだってある。着てないのは、夏子さまの趣味じゃないってだけで。


 魚人がいるかもしれない洞窟で話すようなことじゃないと思う。でも、そのおかげで、ドキドキが収まった気がする。


 それに会話のキャッチボールを行っていると、洞窟に反響していく足音を意識せずに済むし。


 洞窟の中は今のところは一本道。前から、あるいは後ろから魚人がやってきたら、隠れるところがない。足音で気づかれたら終わりだ。


 気分は秘密基地に潜入中の兵士。ダンボールでもあったら……いやこの場合はむしろ目立つか。


 夏子さまは、ここはブロードウェイのど真ん中とばかりに歩いている。ようするにいつもどおりってこと。


 この人が怖がりそうなものがあるなら、誰かわたしに教えてほしい。少なくとも十年になろうとしてるメイド生活の中ではその糸口も見つからなかったから。


 そんな夏子さまが立ち止まったら、わたしは身構えずにいられない。


 光を追えば、洞窟が二手に分かれていた。どっちも地下へとつづいている。


「どっちに行きます?」


「右へ」


 お嬢さまは某漫画を読んだことはないと思うので、たぶん直感だ。わたしはもちろん、左に行こうかと思ってた。


 しかし、ノータイムでよく決められるなあ。


「どっちも一緒だと思いませんこと?」


 確かに。それでも少しは悩んじゃうものじゃないかな。それともわたしがおかしいのかな……。


 ルンルン気分で夏子さまは下り坂を歩いていく。洞窟内は、岩場よりかは起伏が少なく歩きやすい。なにか生き物でも歩いているかのように石が少ない。


 整備されてるっていうかなんていうか……。いやあ、想像するだけで懐中電灯を持つ手が震えてきちゃうね。寒いからかな?


「うっぷ。臭いがきつくなってきた」


 一歩前へと進むごとに、魚くささは強くなる。今や鼻先で、悪名高きニシンの缶詰を開けられつづけているかのような臭いになっていた。


 あまりの臭いの強さ、こんなのバイオハザードマーク(丸が三つのやつだ)がついててもおかしくない。


 夏子さまのお体にも差しさわりがありそうだ。


「もう戻られた方が――」


 言いながらお嬢さまを見れば、平然としてるじゃないか。この人はどんだけタフなんだ。恐怖とかも感じなければ悪臭にも強いらしい。


「強くないですわよ」


「でも、平然としてるじゃないですかっ」


「わたしくは我慢しているだけですの」


 我慢するだけで、いつだってにこやかにできるなら、それはもう才能だと思うんだ。


 わたしなんか玉ねぎ汁をぶっかけられたみたいに、目から涙がほとばしっているというのにさ。






 刺激物並みの臭いを我慢しながら、奥へ奥へと進んでいく。たぶん、地底旅行に行った十八世紀の考古学者もこんな思いはしていないに違いない。


 そんな未知への探検をしているにもかかわらず、夏子さまはいつもの調子で歩いている。今思うと、ジャージとメイドが洞窟どうくつを歩いているという状況は、奇妙な取り合わせだ。アボカドと醤油みたいにベストマッチだったらいいんだけど。


 洞窟そのものは、いくつか分岐をしながらもまっすぐ伸びている。わたしたちが歩いてるのがダイコンそのものだとしたら、分岐はヒゲ根だと思えばわかりやすいと思う。細くて短いんだ、脇道は。


 それがお嬢さま特有の直感でわかるんだろう。……たぶんおそらくきっと。


「――じゃないと、こんな自信満々に歩けるわけないよ」


「いえ、わたくしはただ臭いのもとへと向かっているだけです」


 ようするに、くさい方へ向かってるってわけですか。お嬢さまとしてはどうなんでしょうね、それは。


 なーんて言ったら、オカルトハンターお嬢さまですから、と返ってきそうだ。


 なんで言わないのかって? そりゃあ、悪臭がひどすぎて口を開くのもためらわれるくらいなんだよ、察してください。


 いやもう本当に臭いがキツイのなんの。今はもう、どこからやってきているとかいう次元じゃなくて、わたし自身からプーンと臭っているかのようにさえ感じちゃうんだから。


「でも、今のところは魚人なんて――」


 言ってて気がついたんだけどさ……これって、ステーキやパインサラダ並みの特大のフラグじゃないだろうか。


 震えていたわたしをよそに、夏子さまはちいさく咳ばらいをして。


「水音が近づいてきましたから、そろそろだとは思うのですけれども」


 耳をすませてみれば、たしかに聞こえる。チャプンチャプンなにかが滴る音がしてる。


 ま、まだなにかがいると決まったわけじゃないし……!


 ぎゅっと棍棒みたいな懐中電灯を握りしめる。この冬子さま印の頑丈そうなコレだけが、頼りだ。


 その強烈なレーザービームが、下り坂の先を照らしている。


「なんだか道が広くなってるような」


「ええ、注意していきましょう」


 わたしは夏子さまに頷いて、おそるおそる先へと進んでいく。


 長い下り坂が終わる。その先の空間は開けていた。


 魚人はいなかった。だが、それと同じくらい幻想的な光景が広がっていたんだ。

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