因習村の魚影 8

 その細長い足跡は波打ち際にあった。


 足跡は――仮に鋭い方が指先だとして――砂浜と平行に進んでいる。太陽があっちに沈んでたから……たぶん南へ向かっているんじゃないかな。


 足跡を追うように光を照らせば、砂浜を伸びる足跡がいくつも見えた。


「行進の練習でもしてたんですかね……?」


「だとしたら、魚人の社会というのは案外、秩序だったものなのかもしれないわね」


 あの、ジョークにマジレスされるとなんて返せばいいのかわからなくなるんですけど。


 というか、あの悪臭を漂わせたやつらがわたしたちと同じ生活をしてるとは思えない。もっとこう、原始的でなんというかおぞましいことでもやってんじゃないの――ってこれは偏見へんけんですね。


 夏子さまは、足跡がやっていている方へ歩きはじめる。


「もしかしなくてですけど、魚人がやってきたところへ行くつもりじゃないでしょうね、お嬢さま」


「最初からそのつもりだけれども」


 メイドらしからぬため息が盛大に出ていくのを、わたしは止められないよ。


 なんでわざわざ魚人がたむろしてるであろう場所に行かなきゃならんのか。わたしたちは勇者ってわけではなく政府お抱えの秘密組織というわけでもない。まして、ハンターってわけではない。


 ただの動画を投稿してるだけの、一般お嬢さまとメイドなんだけどなあ。


「さあて行きましょう! 魚人たちが待っていますわよ」


 いや、待っていてほしくないね。そんなのわたしたちを三枚おろしにするために、爪を研いでたってことじゃないか。


 なんて思いつつも、わたしは夏子さまについていくしかないんだ。お嬢さまが行くなら、わたしもついていく。一心同体だ。


 もちろん頭の中じゃあ、足跡消えてないかな、とか思ってるんだけどね。一番いいのはやっぱりこれがリゾート地側の『おもてなし』の一つだってこと。やらせだったら、どれだけいいことか……。


 でもなーんかそうじゃないような気がしてならない。この数年間、夏子さまといっしょになってスーパーナチュラルなあれそれにかかわってきたわたしのかんがそう叫んでいる。


 んなもん叫ばなくていいし、どうか外れていてくれ……!


 わたしは祈るように懐中電灯を握りしめる。きつく握りしめているものだから、もう汗でべちょべちょだよ。


 波打ち際の足跡を追いかけていくと、砂浜が終わりをむかえた。


 ちょうど入江の両側の山にぶつかった感じだ。見上げれば、確かに山はあるんだけど闇に同化してよくわからない。ただ、押しつぶしてくるかのような圧迫感はヒシヒシ感じた。


 その手前から海に沿って岩礁がんしょうが伸びている。ほら、いそっていうか釣りしてるおじちゃんがいそうな岩場っていうのかな。


「昔、こういう岩場でカニとか捕まえていましたわよね」


「ですね」


 わたしは夏子さまとともに過ごしたある夏のことを思いだした。クマのように魚を捕まえようとしてたっけ。


 そんな昔話はさておくとして、その岩礁は闇に包まれている。時折、ざぶんと波がかかるくらいで、どこまで続いているのか皆目見当もつかない。


 ライトで照らしてみても、


「起伏があって、奥まで照らせませんね」


「あ、あそこを照らしてちょうだい」


 夏子さまの白い指がさす方へライトを向ける。そこにはヌラヌラとしたものがべっとりと付着していた。それがなにかなんて言うまでもないし、鼻を近づけるまでもなかった。


「ありがとう……やはり魚人様の体液ですね」


 待ち望んでいた本命チョコがやってきたみたいに言うものだから困っちゃう。せめて「うわっ出たっ」くらいの反応はしてほしいよ。


 だってさ、今まではチョロチョロしかなかったんだよ。でもここにあるのは、ローション相撲でもやったんかってくらい量の粘液だ。


 しおだまりかと思ったものは、ほとんどが魚人のものだったんだ。


 思わずひょえって声が出ちゃった。


 わたしの声に、夏子さまの笑い声が続く。


「なんで笑うんですかあ! めっちゃ怖いのにっ」


「いや失礼。ももかの反応が面白くてつい笑ってしまいましたの」


「…………」


 笑ってもらえてハッピーな気はしないでもない。なんか、複雑な気分だ。


 いやそれよりも。


「本当に行くつもりなんですか」


「あら、怖いのでしたら、無理についてこなくてもいいのですのよ」


 なんて夏子さまが言う。その口元の笑みには、わたしに発破をかけてやろうとか皮肉を浴びせようとかそういう魂胆こんたん微塵みじんもなかった。


 本気でわたしの心配をしているし、わたしがいーかないって言ったら一人で行くつもりだ。


 だから、わたしがとる選択肢はいつも一つなんだよ。


「わ、わかりました。わたしもついていきますから」


 お嬢さま一人で行かせられるわけないじゃん。


 わたしが言えば、夏子さまが顔を覗きこんでくる。その顔はやっぱり笑っている。


「いつもわたしについてきてくれてありがとう」


「……メイドですから」


 わたしは言って、歩き出す。


 だって、頬が熱かったんだ。相手がお嬢さまだからって、そんなところ見られたくないでしょ?






 海にせりだした岩場をわたしたちは歩いていく。


 夏子さまは最初からこれが目的だったに違いない。ジャージならいくら濡れてもいいし、怪獣のキバみたいな岩で切れたって気にならないから。


 運動靴だって、滑りやすい足場でみっともなく転ばないようにって配慮はいりょだろうしね。


 わたしの肩からレーザーのようにまっすぐ伸びる光線は、デコボコした岩を照らす。影が不気味に伸びて、なんだか落ちつかない。


「こういうときに限って新月なんだから……」


 そう。


 空にはお月様の姿がない。星々は元気に輝いているけれども、地球を照らすには足りない。だから、海も森ものっぺりとした闇におおわれていた。


「こんな静謐せいひつな夜には、なにかが起きそうな気がしませんこと?」


 わたしは首をぶるんぶるんと横に振る。なにも起きないでほしい。妙ちくりんな儀式とか、悪魔たちのサバトとかは即刻やめて。いややめなくてもいい。わたしたちの前では決してしなければ。


 いやマジで、わたしのお嬢さまが来るんだ。……それが知っててやるってんならいいよ。


 どうなっても知らないからな。


 なんて、わたしは闇のなかに身をやつしているかもしれない存在に念を送ってみたり。わたしはサイコキネシストでも念動力者でもないんだけど。


 と。


 ポンポンと肩を叩かれ、わたしは飛びあがる。誰――って思ったら夏子さまだった。


「ビックリしたじゃないですかっ」


「ごめんあそばせ。あそこを照らしてほしいのですよ」


 夏子さまが声を上げるたび、びっくりしちゃうね。なにか見ちゃいけないものを発見しちゃったに違いないんだから。


 今回もどうやらそうらしい。


 光を向けた先には、山と同化したようなかっこうの洞窟があった。いかにもなにかが棲んでますよって感じの洞穴ほらあなが、真っ暗なお口をこっちへ向けていたんだ。


 わたしは思わず後ろを振り替えちゃった。見たくないってのもあるし、なんで気がつかないんだろうってね。


 そうしたら、イン湯村の明かりがほとんど見えなかった。起伏のあるせいで、あっちからこの洞窟はいい塩梅あんばいに隠れているらしい。


「まさか、ここが」


「なんだか意味ありげな洞窟どうくつですわねえ」


 確かに、魚人が寝床にしているとしたら、お似合いの住処すみかだと思う。なかなか見つからないだろうし、見るからにジメジメしてて、海の中の次くらいにはよさそう。


 だからこそ入りたくないんだけどなー。だれだって見えてる地雷は踏みたくないと思うんだ。


 でもうちの御城夏子さまは違う。むしろ地雷って珍しいって踏みに行って、無事助かるようなスーパーウルトラお嬢さまなんだ。


 もっとも、その隣にいるわたしは一般メイドに過ぎないからいつも大変っていうね。


 はあ……。


「あのー朝になってから入るというのはどうでしょう」


「いいえ、それはいけませんわ」


 夏子さまがわたしのことをじっと見つめてくる。成績の悪い生徒に対して、微分のやりかたを教えてくる先生みたいだ。凝視ごうしされるのはそりゃ心がおどってしょうがないんだけどさあ。


「今でなくては。魚人が少ない今が好機なのです」


 と、夏子さまはわたしに顔を近づけてくる。うわっ、すっごい美人だ。ドキドキする。


「わ、わかりましたから離れてくださいっ」


 このままじゃ、心臓が張り裂けちゃいそうだから、じろじろ見ないで。


 わたしはヨタヨタ夏子さまから離れて、大きく深呼吸。興奮状態では、磯くささもほとんど感じなかった。


「この中に入って、いったい何をするつもりなんですか」


 わたしにはもう夏子さまを止めることはできなさそうなので、理由を聞くことにした。


 お嬢さまは間髪入れずに口を開く。すでに決まってることを、天下に知らしめる女王様のように。


「魚人たちがどのようなことをしているのかを知るためですわ。あとは、依頼人の方を助けるために決まっているではありませんか」


 ……そういうことにしておこう。どっちのウェイトが大きいのかとか聞きたいことはあるけれども。

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