因習村の魚影 7
「ももか」
と
それまで夏子さまはスイートルームに引きこもって、
『考える人』のようだったから話しかけなかったんだけどね。お嬢さまはおしとやかな人だから、思考を邪魔されたって銃を乱射したりしないけども、申し訳ないじゃん?
でも、呼びかけられるとやっぱりうれしい。今のわたしにしっぽが生えていたら、
「どうかしました、お嬢さま」
「外に行きましょう」
「へ? い、今からですか?」
「ええ、今からよ」
わたしは窓の外へと目を向ける。
イン湯村は橙色にそまっている。その色もじきに彩度を失っていって、黒くなるだろう。夜になるまであとわずかって感じなんだけれども、それでも出ていくんだろうか……。
魚人に誘拐されたのかもしれないっていうのに、不用心というかなんというか。
あ、ちなみになぜかある交番に相談してみたんだけれども、ほとんど信じてもらえなかった。まるで、TRPGの警察官みたいにあしらわれちゃった。そうじゃないと物語にならないっていうけどさ、当人の身にもなってほしいよ。
夏子さまは、わたしの
「調査しに行きましょう。なにせわたくしはオカルトハンターですからね」
……開いた口が
「そちらの方がいいと思いませんこと?」
「ぜんっぜん!」
メイドとして、わたしはそう言った。
もちろん
この時の格好についてお伝えしておきたい。
夏子さまは、いつもとは違って学校指定のジャージに身を包んでいた。体育の授業くらいでしか使わないやつをどうして着てるんだろう。様にはなってるんだけどさ、その姿でスイートルームを出るものだから、従業員の人ビックリしてたよ。
下は運動靴。これはわたしも一緒。でも、わたしの服装はいつもと変わんない。ようするに白黒のメイド服ってやつだ。しかもクラシカルなやつね。
わたしも夏子さまと同じようにジャージ姿になろうとしたんだけど、
「ダメですわ、メイドはメイドらしい格好をしていなくては!」
と力説されてしまった。
メイドらしくってなんだ……?
とにかく押し切られちゃったわたしはメイド服を着て、ジャージお嬢さまの隣に立ってるというわけ。ま、なぜか用意されていたジャージは夏子さまの分しかなかったから、どうすることもできないんだけど。
「ううっ視線が痛い……」
「気にしない気にしない。それよりも行くよ」
「行くってどちらへ?」
夏子さまは、海の方を指さす。
まさか、この不条理な世の中を
「そんなことは考えていません」
「あ、そうですか」
「しかし、海に入る、というのは当たらずも遠からず、です」
よしよし、と頭を
残念なことに、頭ナデナデは一瞬にして終わり、夏子さまは海へと歩きはじめている。
その背中は、高校生活最後の大会に臨む運動部のエースといった
「どうして運動部に入らなかったんでしたっけ?」
「お嬢さまは必要がなければ走らないものなのですよ」
だ、そう。その必要なときっていうのがほとんどないから、わたしたちメイドは困っちゃうんだ。書かれていることは強いのに発動条件が厳しすぎるカードみたいに、走ることはほとんどないんだからさ。
夏子さまのお父さまが過労で倒れられたときとか……。あ、先日長女の春子さまが異世界から帰ってきた時にはダッシュしてましたっけ。
とにかく。
銃を突き付けられたって走ろうとしないお嬢さまが、わたしは心配で心配でなりません。
だからこそ、魚人なんかに興味を示してるんだろうけど。
「もしかしてですけど、魚人を探そうとしてます?」
「ええそうですわよ」
「…………」
信じられないという表情をわたしはした。少なくともそのつもりなんだけれども、その返事としてやってきたのは、せせらぎのような甘い笑い声だった。
「それでですねお嬢さま、何かあてはあるんでしょうか」
「ないですわ」
やっぱり。
ちょっと前から思ってたんだ、夏子さまはあてどなく歩いてるんだもん。あっちへフラフラこっちへフラフラ。これとくらべたら終末世界のゾンビだってしっかりしてるね。
「一応海の近くを歩いているつもりなのだけれども」
なんて言いながら、夏子さまの視線はわたしではなく(まあ当然か)闇と同化している海へと向けられている。
この湯村は、入江の最奥に存在している。しかも両側は山になっているせいで、外の人工的な光が入ってこない。
あるのは、イン湯村とその系列の建物が発する
空にはこぼれんばかりの星々が
闇がざぶんざぶんと音を立てているのかも――なんて思っちゃうくらいには真っ暗だった。
「何か見えるとも思えませんけど」
「そんなことはないと思いますの」
と言いつつ夏子さまの足は砂浜へとつづく階段へと向かっている。昨日、魚人を見た場所だ。
そんなとこにはあんまり行きたくないなあ。
でも、お嬢さまが行くのであれば、たとえ火の中水の中森の中ってやつだ。スカートの中には、コンプライアンス的に入らないけどね。
それはさておき。
降りたった砂浜は、昼間の
「ちょ、ちょっと待ってください」
わたしはリュックサックを下して、中から懐中電灯を取りだす。ぶん殴ったら頭かち割れそうなやつだ。これもやっぱり冬子さまからいただいたもの。それにしても、こんな火かき棒みたいな懐中電灯どこに売ってるんだろ?
とにかく、その棍棒みたいなそれを持って、スイッチオーン。
車のハイビームみたいな光がスッと伸びていく。障害物がないから、どこまでも光線がのびていっているように見えた。
「よくそんな重たいものを持てますわね」
「慣れです」
確かに重たいんだけど、おしりの方を肩にかついだらいい感じ。ほら、ちょっと昔の警備員みたいにね。
でもさ、夏子さまもこれくらいなら持てるんじゃないかな。いつもは
ま、こんな無骨なものは、お嬢さまには似合わないよ。
バカみたいに強い光で波打ち際を照らしてみる。キラキラと天の川のようにきらめくのは、プランクトンかガラスか貝殻か。
「いませんね」
「もしかして、スイートルームの方に行ってしまったのかしら」
「なんですか、それ」
わたしたちが泊まっている部屋に、突然転がり込んでくる魚人たち。そこからカンフー映画ばりの肉弾戦が始まっちゃったりして――。
うわあ、そんなのイヤだなあ。
なんて考えているうちに、夏子さまは腕を組んで何事かを思考しているらしい。
「今なら、魚人様たちのお住まいは手薄に?」
「あの、絶対行きませんからね。というか、場所がわからないじゃないですかっ」
「わたくしのことがよくわかりますのね」
にっこりと笑ってきたけれども、だまされないぞ。わたしはどれだけ夏子さまといっしょにいたと思ってるんだ。今この状況でお嬢さまが何をするのかなんて、ヌルっとツルっとお見通しってね。
このお嬢さま、魚人たちのアジト的なやつに乗りこむつもりだ……! そうに違いない。
「しかし、ももかは気になりません?」
「それは気になりますけれど」
いなくなった木耳さまが魚人たちにどうされてしまうのか。
もしかして食べられちゃったんじゃ――。
「魚人たちがどのようなことをしているのでしょうか」
「…………」
もしかして、夏子さまったら依頼人のこと忘れていませんよね?
「もちろん」
太陽のような笑顔が返ってきた。これじゃあ、
もちろん、お嬢さまに限って他人のことを忘れるなんてことはないとは思うんだけどね、ちょっと心配になっちゃうよね。
そんな夏子さまは光を追いかけるように、視線をキョロキョロさせていた。
わたしも探してみるが、何も見えない。海の遠くの方を泳ぐ影でもないかなあって照らしてみても、やっぱり何もない。ここはネス湖じゃないし池田湖でもないしね。
やっぱり魚人なんかいなくて、イマーシブなあれそれなんだ。いなくなった木耳さまもグルなんだ。
「おや」
「な、なにか見つけちゃったんですか……」
わたし個人としては、何も見つけてほしくないし見つけられたくもない。というか、これ以上超自然的なものよ、やってこないでくれ。
なんて祈りは神様には届かなかったらしい。
夏子さまは波打ち際へと歩いていって、しゃがみ込む。
そこには足跡があった。
昼間見た、化け物の足跡が。
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