因習村の魚影 6
お嬢さまの家とくらべたらなんだって狭いと思われるかもしれないけれども、夏子さまが住んでいるのは変なデザイナーズマンションで――ってこれはどうでもいいか。
とにかく玄関はわたしと夏子さまだけでぎゅうぎゅう。そんな極小空間に異様な臭いが
「ひどい臭いですわね」
「ちょ、ちょっとお待ちを」
わたしはリュックサックから消臭スプレーを取りだして、プシュッと散布。……効果なしと。あまりにも臭いが強すぎて、ペパーミント程度じゃかき消されちゃう。
壁のスイッチを叩いて電気をつける。換気扇はないよねそりゃ。
「げ、玄関を開けておきましょう」
「おねがいするわ」
というわけで、玄関は開けっ放しにする。誰かがやってくる可能性はあるけれどもしょうがない。鼻がひん曲がって死ぬだなんて、ご先祖さまになんて話せばいいのかわかんないし、絶対笑われる。
さて。
魚が腐ったような臭いが薄らいできたところで、わたしたちは先へ進む。
今回はわたしが先頭。いつぞやとちがって、今回の相手は肉体を持っている。なら、たとえバケモノであっても何とかなりそうじゃないか。
手には、念のため用意しておいたナイフ。
「ももかは、そんな物騒なものをいつも持ち歩いているのですの?」
わたしは頷く。ちなみに、ナイフとノコギリと缶切りがついてる赤いやつだよ。
「わたくし、ももかが逮捕されるところを見たくありません」
「没収されるだけですから」
それに、冬子さまからお墨付きをいただいたものだ。しかも「警官にとられそうになったらあたしの名前を出せばいい」ってね。……なんでそれで許されるのかは、わたしにもわかんない。
冒険野郎じゃあるまいし、こんなものは使わないに越したことはないわけで、刃は出さない。受験生が手にするお守りみたいにぎゅっと握りしめているだけだ。
わたしたちは、男物のスニーカーをまたいで廊下へ。
ホコリひとつない廊下を先へ進むごとに、悪臭は強くなった。
フローリングには、ぽたりぽたりと
「うわっくっさ」
「ふむ」
いささかも顔をしかめずに、夏子さまは液体を見つめていた。そういえば夏子さまってパクチー好きだしドリアンとかも平気で食べてたっけ……。
「なんだろこれ」
「ウナギなどはヌメヌメしていると思いませんこと?」
「確かに? じゃ、これってウナギのあれ?」
「ウナギのものかはわかりませんが、魚類が出す
今イヤーな想像が頭を駆け抜けたんだけど、言っていいかな。
もちろん、このフローリングの上をウナギたちがかけっこした、なんていうわけじゃないよ。
じゃなくて、あの魚人がヌメヌメしてるってところを想像しちゃったんだ。ヌチャヌチャの液体をポタポタ垂らしながら、暗い廊下を歩いていく。
そして、カリカリとドアノブに手をかけたんだ――。
わたしは妄想をやめて、現実のドアを見る。
金属製のドアノブはヌルヌルだった。鼻を近づけるまでもなく、魚人の体液であることは間違いなかった。
「夏子さま、この先にいるかもしれません」
「うん」
気を付けて。もっといえば、ここから出ませんか――そう目線で必死に訴えたつもりなんだけれども、お嬢さまはにっこりと笑うばかり。
……行くしかないらしいね。
わたしはばっちいノブにハンカチをかぶせて、回した。
扉の先はワンルーム。
真っ暗というわけではなく、半ば開いたカーテンの隙間から日が差しこめていてそれなりに明るい。
明るいから、そこに誰もいないことはすぐに分かった。ワンルームだしね、どこにも隠れられるような場所はないよ。
いやまあ一つだけあるんだけどさ。クローゼットってやつがね。
そいつの前に夏子さまは立って。
「ごきげんようですわ」
シーン。
返事がなくてこれほどうれしいことが未だかつてあっただろうか、いやない。
「お嬢さまっ。そんなに大きな声を上げないでください」
「失敬。もしかしたら、と思っただけですのよ」
なんて笑って言ってるけれども、本当に出てきたらどうするんだろう?
不思議だけれども、今はそんなことを考えている余裕はない。
部屋の主である
普通に考えたら、カギをかけ忘れた間に、体液を垂れ流すはた迷惑な魚人がのっしのっし歩きまわって出ていったってことなんだろうけれども。
「いいえ、違いますわね」
「ですよねー」
点と線を、そのまま点と線って思いたいんだけどなあ。
魚人が木耳さまを
夏子さまといったら、謎を解明した名探偵みたいに腕を組んでいる。堂々としていて、この場にいい感じにミスリードしてくれる刑事なんかいたら、さながらミステリだね。
お嬢さまだったら、さて――ってお決まりのセリフも様になるだろうなあ。
なんて現実逃避してるうちに、夏子さまは窓へと近づいていく。
誰もいないことにびっくりしていて気がつかなかったんだけれども、カーテンがそよそよ動いていた。風が吹いている。
ってことはさ、窓が開いてるってことだよね。
夏子さまはカーテンに近づき、そっと開いていく。
ご想像の通り、窓は半開きとなっていた。取っては透明な汁にまみれているし、その先のコンクリートには足跡がペタペタ残っている。
それは、人間のものに似てるんだけども、指が異様に長かった。あるいは爪なのかもしれないけれども、どっちにしてもバケモノには違いなさそうだ。
「どこへ連れていかれたんでしょうか」
「さあね。ただ――」
「ただ?」
「向こうの方から来てくれるのではないかしら」
そんな声が、アパート裏の寂れた空間によく響いた。
まるで隠れて聞いているだれかへ向けてメッセージを送るかのように、夏子さまの声は
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