因習村の魚影 4

「そう言えば、お風呂に入っていませんでしたわね」


 そんな夏子さまのつるの一声によって、わたしたちは大浴場へと向かうこととなった。


 今の今まで忘れていたけど、本当は旅行でやってきたんだ。夏子さまはどうだか知らないけどね、わたしは少なくともそのつもり。


 だから、夏子さまのトランクケースには、水着とかも入っている。……使う暇はちょっとなさそうなのが悲しいところだけど。


 でも、いざ大浴場につくと、そんな陰鬱いんうつな気分は爆破されたみたいに木っ端みじんとなった。


 もうもうとした湯気に満たされた広い空間。サラサラと温泉が注がれては流れていく水音のほかには、なにも音はしない。


 どうやら、わたしたち以外に人の姿はないらしい。ま、今の時刻は午後9時。温泉に浸かるにしてはちょっと遅めかもだしね。


「どうかした?」


 そうやって、大浴場の入り口で息を飲んでいたら、背後から声がする。


 振り返ったら、女神がいた。


 思わず、わたしは見惚みとれてしまった。動けないというよりかは動きたくない。別に、夏子さまはメデゥーサみたいな石化能力はないはずなんだけど。


 傷一つないプルンとしたタマゴ肌、手足はほっそりとしているのに出ているところは出ている。どこが出ているかは、コメントを差し控えさせてもらう。わたしの尊厳のためにも。


 人間を超越したような整ったプロポーションの夏子さまは、でも、そんなことをかさに着ることはせず、ペタペタわたしの隣までやってくる。


「すばらしい浴場ですわね」


 わたしはなんとかガクガク頷いた。正直最もすばらしいのは夏子さまだと思う。でも、口にはしないしできなかった。


 でもまあ、あとから思いかえすと、イン湯村の大浴場は確かにすごかった。広い浴場があるのは当然として、お湯が滝みたいに降ってくる打たせ湯。泡が出てくるジャグジーに、ビリビリしびれる電気風呂、水風呂サウナは当然のようにあった。


「スーパーいやハイパー銭湯せんとうって感じだ」


「源泉かけ流しのものが、露天風呂にあるそうですよ」


 というわけで、夏子さまとともに外へ。もちろんかけ湯はとっくに終わってる。


 地球が焼けるんじゃないかって暑さも、大自然に囲まれたここ湯村ではちっとも感じない。むしろ寒いくらい。


 外に出ると、竹か何かを編んだ柵が壁のように立っている。そのガードの中心に、温泉はあった。岩に仕切られていて、さいの河原みたいに積みあがった岩と岩の間から、湯がこんこんと湧き出てる……。


 今にも鹿威ししおどしがカポーンと音を立てそうな和風で古風な感じ。


 わたしたちはそんな温泉に体を沈める。


 湯に浸れば、我知らず声が出る。あっつい湯につかるとあるよね。アレがお嬢さまのそれとシンクロしちゃって、思わず笑っちゃう。


 夏子さまを見れば、同じように笑みを浮かべていた。


「ひさびさにゆっくりしてる気がします……」


 ここ数か月のことを思いかえしてみる。幽霊調査とかUMA捜索とか、その他オカルトじみたことを何度もやった。その中でも一番きつかったのは、この前の幽霊屋敷だよ。あのピンポイント地震を思いだすたび、からだがブルブル震えてきちゃう。


 いけないいけないっ、リラックスしたいのに仕事のことを考えちゃうなんて。


「最近、ずっと調査に出ていましたものね」


「そうですよ。だからこそ、今回こそは休めると思ってたのに」


「それは申しわけございませんの」


「あ、いえ。お嬢さまを責めたわけじゃなくて」


 わたしは夏子さまに雇われてる。そりゃ、幼なじみであるけれども、メイドとして雇われてお給金をもらってる以上は、お嬢さまが言うことは絶対だ。


 ちょっと、悲しいからって言いすぎちゃったよね。


「わ、わたしの方こそすみません」


「いやいや、わたくしの方こそ」


 そんな終わりのない謝罪合戦をしていたとき、かすかに悪臭が漂ってきた。






 最初は悪臭の存在にさえ気がつかなかった。


 泉のように湧き出てくる温泉の臭いは結構強い。臭いの強いものを鼻先に突きつけられているみたいだ。今なら大っ嫌いなパクチーだって食べられそうに思えるくらいなんだからすっごい。


 それに、夏子さまのしなやかな御姿おすがたがすぐそばにあって、どっちみち考えられなかったと思うけど。


「あれ――」


 先に気がついたのは夏子さまだった。


 指さす先には、竹の柵がある。それの上部が、外側にたわんでいた。


 なにかがぶら下がっているみたいに。


 夏子さまは、それを食い入るように見ていたかと思うと、


「どちら様ですの?」


 お嬢さまの通る声が、その竹の壁へ突き刺さる。


 風もないのに、細長い壁がガサガサ揺れた。


 何かいる。


 何かが竹の壁にぶら下がっている。


 その時になって恐怖がこみあげてきた。


 もしかして覗かれてた……?


 その情報が脳の中でパッと浮かんだ次の瞬間には、全身に怒りパワーがみなぎっていった。


 ――なにお嬢さまの裸を見てくれてんじゃ!


 なーんて思ってこぶしを握りしめたんだけれども、叫ぶことはできなかったんだ。声が声にならない、心臓がドックンドクンと打って、痛かった。


 不意に、夏子さまが動きだす。


 きょろきょろとしたかと思えば、桶を手に取り、熱めの湯を汲む。


 それを両手で持って、覗き魔へとぶっかけた。


 その洗練されたフォームに見惚れるまもなく、絶叫がとどろいた。


「やったか!?」


 なんてフラグめいたことを言っちゃったのも、やむなしだと思う。女性の――それもお嬢さまのものを見るだなんて、天罰が落ちたって文句が言えないんだからさ。


 ガサリ。


 竹の壁とともに、何かが倒れてくる。


 わたしは人だと思った。


 でも違う。


 硫黄の香りでも隠し切れない陰気な雰囲気をただよわせたそいつは、まさしく魚人だったんだ。


 建物からこぼれてくる光に照らされて、キラキラと輝いているのはうろこ。その色は、どことなく赤っぽい。茹で上がったカニが頭をよぎった。ちょうどホカホカ湯気が上がってるところだけ赤くなってる。


 立ち上がったそいつは、トゲトゲしていた。なんていうんだろう、世紀末にいそうな肩の人を想像してほしい、あんなトゲが体全身に生えてるんだ。


 しかもヌルヌルテカテカ!


 ハリセンボン人かと思ったけれど、よくよくヒレとか見るとカサゴ人間だし、ラバーみたいなテラテラ感は、ゴンズイとかウナギとかを彷彿ほうふつとさせた。


 なにより、そいつはわたしたちが想像する魚人とは違い、魚の頭もなければ左右に揺れる尾びれもなかった。


 ワープ装置で魚と人が合体したみたいな――。


 そいつは、グッと飛び出た魚眼で、わたしたちのことをねめつけてくる。


 思わず、ウッと声が出た。


 でも夏子さまは、じっとそいつのことを見つめ返していた。


 魚人にじろじろ見つめられてるっていうのに、実に堂々としている。背筋はピンと伸ばし、腰に手を当てた姿は、現代のアマゾネスだ。


 わたしといったら、びくびくとからだを縮めさせてるんだから。ヘビににらまれたカエルみたいにね。


「ここは女湯ですわよ」


 と口元には笑みを浮かべている夏子さまだが、その目はちっとも笑っていない。刺すような視線に貫かれたら、誰しもがおのれの罪をいあらためずにはいられないような、そんな視線。


 魚人も夏子さまのことをじっと見つめていたが、


 くるりと背をむけたかと思えば、ぴょんとジャンプした。


 あまりに軽い動きで何が起きたのかわからなかった。でも、その一回の跳躍で魚人は竹の柵を飛び越えたかと思えば、脱兎だっとのごとく走り去っていった。


「こらっ、待て!」


 すがたが消えてワンテンポ遅れて、わたしは追いかけようとした。


 竹の柵を壊れたところから抜けようとして、ハタと気がついた。


 今のわたしはすっぽんぽん。ここは温泉で、外国みたいに水着を着ているわけでも、テレビ撮影みたいにタオルを巻いているわけでもない。


 飛び出していっちゃえば、公然わいせつ罪でお縄にかけられちゃう。そうじゃなくても、恥をかくことは明らか。古代ギリシャの科学者みたいに、裸で走りまわったことを後世に伝えられるなんてゴメンだよ。


 それよりも――。


「夏子さま」


「うん、どうかした?」


 振り返れば、返事がやってくる。


 その声はいつものお嬢さまのものなんだけれども、こころなしか楽しんでいるように聞こえたのはわたしだけなんだろうか。少なくとも、魚人にメンタル削られてるわけじゃないらしい。嬉しいようななんというか、複雑な気分になるね。

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