第22話 愚問
何が起こった? 否、何が起こったかは理解できる。何故起こったかが理解できない。
私の前に立つ、私より頭一つ分小さな背中。見間違える筈がない。アイツだ。
「……なんで」
チラッ、と血色の瞳が私を見る。その奥には瞋恚の炎が燃え盛っている。一方で、小さな桜色の唇は、安心させるような、優しい笑みを作る。
直後、アローの体が反転し、回し蹴りがコボルトエンペラーを吹き飛ばした。
三〇メルト先の壁に、コボルトエンペラーが突き刺さる。が、何事も無かったように立ち上がり、咆哮を上げる。
あれだけの蹴りを喰らいながら、大したダメージは無い。ふざけた
アローの姿が消える。瞬きの間に三〇メルトの距離を〇にした。瞬間移動と錯覚するスピード。あれだけの闘気を完全に制御している。
そこから先は、魔術師の私には立ち入る事の許されない、戦士の領域。辛うじて、何が起こっているのかを把握する。それが、今の私にできる精一杯だ。
アローが優勢——とは言い難い。リーチが違い過ぎる。武器もない。このままでは、アローの拳が先に壊れる。
愛する者が戦っているというのに、私は何もできないのか。
否、そんな事はない。まだ、魔力は残っている。後衛の本来の役割は、高火力による敵の殲滅。そして、前衛のサポートだ。
私の最後の魔法。ありったけの魔力を込める。
「【ディアルディスコルドス・ソルース】!」
上級氷魔法で生み出した氷剣。残った全魔力を込めた。これならきっと。
「アロー!」
氷剣を投げる。が、全く届かない。小さな弧を描く氷剣が地面に突き刺さる前に、アローが両手で受け止めた。
軽く剣を振り具合を確かめたアローは、こちらに背を向けたまま氷剣を掲げる。
「受け取ったぞ」
地面が爆発する。雷の速度で肉薄し、氷のように冷徹な一振り。届く筈の無いコボルトエンペラーの胸に、真一文字の紅が刻まれる。
純黒の暴威を、流水のように受け流す。
あれは、アローの剣ではない。
流麗な剣技は、一つ、また一つと、コボルトエンペラーの体に紅を刻んでいく。
しかし、コボルトエンペラーもまた、技術では劣りながらも、リーチ差による絶対的な優位と、闘気を完全に制御したアローすら上回る膂力で、アローの命に迫る。
決め手に欠けるアローと、必殺が当たらないコボルトエンペラー。優位なのは後者だ。
一撃。コボルトエンペラーは一撃当てるだけで良い。対して、アローは一手のミスも許されない。
神速の剣戟。極限の集中の中、アローは完璧を崩さない。しかし、現実は無情である。
修復を終えようとしていた天井から小石が落ちる。ほんの一瞬。コンマ一秒に満たない刹那。小石がアローの視界を塞いだ。趨勢を決するには十分だった。
アローの死角から黒剣が迫る。回避は間に合わない。防御は不可能。
死。
させない。そんな事は絶対にさせない。絞り出せ! 魔力は使い果たした? それがどうした! 命を燃やせ! 世界でたった一人、私を愛してくれた人を、絶対に死なせはしない!
アローと黒剣の間に障壁を張る。その数一〇。
砕ける。砕ける。砕ける。砕ける。砕ける。砕ける。砕ける。砕ける。砕ける。砕——ける。
横薙ぎの一振りが、アローを天高く吹き飛ばした。
意識が遠のく。美しい紅のきらめきが脳に焼き付く。
ああ、私は無力だ。馬鹿で、愚かな、道化だ。下らない正義感で死地へ赴き、そのせいで愛する者を失う。私はなんて無力なのだろう。
コボルトエンペラー、せめてもの罰として、惨たらしく私を殺してくれ。
絶望が心を支配する。灰が視界を染める。色を失った世界で、コボルトエンペラーに刻まれた紅だけが、鮮明に映る。
紅。視界の端に映る、紅。標的を見据える鮮やかな紅が、黄金の輝きを放つ。
天井に足を突き、氷剣の切っ先をコボルトエンペラーに向ける、あの姿は。決して挫ける事のない闘志、折れる事のない意志。あの、魂の輝きは。
「勇者……!」
絶望を希望が討ち払う。世界に色が戻る。
白き流星がダンジョンの空を駆けた。漆黒の尾が希望を描く。
白と黒が交差し、地面が爆ぜた。あまりの衝撃に顔を腕で覆う。衝撃が収まり顔を上げると。
首を失った皇帝と、悠然と立つ、純白の
アローの、私達の勝利だ。
僅かな静寂。カラン、とアローが氷剣を取りこぼした。その音で我に返ったのか、アローがふらふらとした足取りでこちらに向かってくる。黄金の輝きは、鮮やかな鮮血の色に戻っている。
「アロー……」
私に動く力は残っていない。だから、アローが来るのを待つしかない。
永遠にも感じられる、数秒。
アローが手の届く距離まで来た。抱きしめたい。匂いを、感触を、体温を、その存在を確かめたい。
両腕を広げアローを迎える。アローは——私の胸倉を掴んだ。そのまま後ろに倒れる。
馬乗りになったアローは、両手で胸倉を掴む。その表情は、天使のような顔を涙でぐちゃぐちゃにしていた。
「馬鹿者! 愚か者! クソ戯け! 貴様! 何を考えている! こんな所迄一人で! もし、間に合わなかったら! もし、貴様を失っていたら……ワタシは……」
私の胸に顔を埋め、アローは大粒の涙を流し続ける。
アローがこんなにも怒っているのに、こんなにも涙を流しているのに、こんなにも嬉しいのはどうしてだろう。胸が温かいのはどうしてだろう。
そんな事、もうわかっている。
「悪かった。悪かったよ、アロー」
血の付いた漆黒の髪を撫でる。確かに感じる。アローの匂い。アローの感触。アローの体温。アローの存在が、ここにある。ここにアローが生きている。私にはそれだけで良い。
ズズッ、と鼻をすすり、アローが顔を上げた。その瞳には、未だ怒りが燃えている。
「許さん! 絶対に許さん! あの時の約束を覚えているな!」
私がアローと交わした約束は一つだけだ。
「ああ、勿論だ」
前世で交わした約束。命令を一つ聞く、というもの。
「命令だ! もう二度と、ワタシを置いて行くな!」
涙に濡れた血色の瞳。皺の刻まれた眉間。何かを堪えるように引き結ばれた桜色の唇。その表情は、今まで見たどの表情よりも、美しかった。
「命令なら、仕方ないな。もう二度と、傍を離れないよ、アロー」
「絶対だぞ! ミア!」
約束で思い出した。そういえば、あの時の問いの答えを聞きそびれていた。もはや、聞くまでもないかもしれないが、アローの口から聞きたい。
「アロー、一つ聞かせてくれ」
「なんだ?」
「お前は、私の事をどう思っているんだ?」
一瞬呆けたような顔をして、直ぐに口の端を吊り上げる。
「愚問だな。ワタシは貴様を」
アローはそこで言葉を切る。悪戯っぽい笑みを浮かべ、私の目を覆う。真っ暗な視界の中、アローの息遣いだけを感じる。
唇に柔らかい物が触れた。
少しして視界が開けると、顔を真っ赤にした天使が目の前に居た。
「愛している」
その表情は、今まで見たどの表情よりも、可憐だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます