頭痛の記憶

思い出した。

そう、わたしのおとうさんは、いない。

正確に言えば、おかあさんとおとうさんは離婚したのだ。つまり、元々わたしの名前は「 」。今、わたしの家族は二人である。

それは覚えていた。だけど、なんで離婚したのか、この脳にしっかり焼き付いていたのに、先輩たちにおとうさんの名前を呼ばれるまで、忘れていた。

“藍梨、これ、なんだかわかるかな〜?”

“んーと、とらんぺっと!”

おとうさんの幸せそうな声が幼いころのわたしを通して脳内にひびく。

おとうさんは、わたしがうまれる前から、トランペット奏者で、大きな会場でコンサートを開いてお金をかせぐほどの、その界隈ではとっても有名な人だったんだ。トランペットが大好きすぎて、わたしがうまれて最初に言った言葉を「トランペット」にしようと奮闘してたって、おかあさんに笑われてたっけ。はじめておとうさんのコンサートに行ったのは小学一年生のころ。最初の一音をきいて、わたしは子どもながらにとってもびっくりした。記憶を取り戻した今、この思い出は鮮明だ。

――普段は感情のきふくがあまりない穏やかなおとうさんさんが。他人の感情をこんなにも荒々しく、悲しく、あたたかく、朗々と表現していたこと。

このとき、はじめてちゃんとおとうさんのトランペットの音色をきいて、かっこいい!ってなったわたしは、毎日毎日おかあさんに「トランペットやりたい!」って頼みこんだんだよね。おかあさんが困り果てているところに、おとうさんが、

“小学校に、『金管バンド』っていうのがあるんだって!三年生のおねえさんになったら入れるみたいだから、それまでがまんできる?おとうさんも教えてあげる!”

と言って、わたしの駄々をおさめたんだって。

それから、ちゃんとわたしはその言いつけを守って、小三になって、やっと金管バンドに入った。さっちゃんみたいに、習い事でトランペットを習うことはなかったけど、おとうさんが、どうやったらきれいな音がなるかのコツとか、大きな音の出しかたとか、ていねいに教えてくれた。たぶん、それを無意識にやっていたから、わたしはトランペットパートになったんじゃないかな、と今は思う。

そして、おとうさんが決まって言っていた言葉があった。

“なんてったって音楽は――……”

続きは思い出せないけど、すごく素敵な言葉だったと思う。

……と、そんな生活をしていたある日の夜。

その日も、コンサート、だったのかな。おとうさんは、夜おそくに帰ってきた。ガチャンと、普段優しいおとうさんでは想像つかない、ドアを荒々しくしめる音がきこえて、なにごとかとおかあさんは玄関にかけよっていった。少しのあいだ、ぽつり、ぽつりと会話していた二人の声がだんだん口論になっていた。ろうかをのぞいてみると、おとうさん――いやもう、あれは。おかあさんをするどくにらみつけて、おとうさんの大事なトランペットが入ったケースをけりとばして、おかあさんにひどい言葉を投げつける、言ってしまえばバケモノのようになったおとうさんが、そこにはいた。そのまま見ていると、おとうさんとバチッと目が合ってしまった。遠くから、おとうさんが耳がこわれるほど叫んだ。

“おまえも、楽器なんてやめてしまえ!”

それを言われた瞬間、わたしは色を失った。

なんで?ひどいよ。

おとうさんは、音楽が、トランペットが大好きなんじゃないの?今日も、トランペットが入ったケースを大事に持って、笑顔で「行ってきます」って言ってコンサートに行ったじゃん。

なんでそんなふうに家族みたいに愛してるトランペットを踏みつけちゃうの?かわいそうだよ、トランペットが……。

“音楽なんて、なんにもならない、何にも残らない”

わたしは大声で泣いた。もう泣くしかなかった。


次の日の朝。なんで自分の部屋まで行って、ちゃんとベットの上で寝れたのかは分からない。泣きはらしたひどい顔で、パジャマ姿のままダイニングに行くと、落ちついた表情でダイニングテーブルのイスに座っているおかあさんがいた。そのとき、おかあさんが放った言葉は、わたしが気絶して、前日の記憶を忘れるには充分なほどしょうげき的だった。

その日から、おとうさんはいない。そして、わたしはおとうさんのせいで、金管バンドをやめざるを得なかった。

今日まで、おとうさんが何者だったのか、金管バンドをやめた理由を忘れていたのは、たぶん、おかあさんや先生たちのとりはからいによるものなんだと思う。前までは、「おとうさん」という単語が出るだけで忘れているはずの記憶がフラッシュバックして、大絶叫の日々だったはず。そのときは、わたしの意識はないから、おかあさんが電話口で誰かと話してるときにぐうぜん耳が拾ったものだ。

でも、音楽は好きで、フラッシュバックはしなかったから、トランペットも、なんでもきいていた記憶はある。だから、すこし落ちついてきたころに、おかあさんがまた、金管バンドの再所属をすすめてくれたんだけど、入るなと誰かに言われている気がして、入らなかったんだ。ああ、金管バンドに入らなかったから、おかあさんは「音楽団は危ないんだ」と思ったのかも。それが、きっと春川先生にも伝わってたんだ。ようやく理解がいった。




目が覚めた。真っ白い天井。ここはどこなんだろ……?起きあがって周りを見わたすと、「保健室」だってことがわかった。保健室の先生は、いないみたい。時計を見ると、五時半だった。あ、あと三十分で、部活終わっちゃう……。

ベットからおりようとするとガラガラっと、保健室のドアが開いた。保健室の先生か、顧問の先生、もしかしたらマリンかなぁなんて思ってたら。

「さっちゃん!?」

二つの三つ編みに、気まずそうな顔。自分を保健室の中に入れると、ガラララっとドアをしめた。そして、わたしが寝てたベットまで近づいていき、その近くのイスにどかっと座った。

「あっ、えと、さっちゃん、あのっ」

ごめん、と言おうとしたら、彼女はわたしの口を、ペッと白い手でふさいだ。

「んむっ?」

「ごめんなんて、きかない」

はー……とため息をついて頭をかきむしる。

「私はな、怒ってる」

「やっぱり怒ってるんじゃん!」

さっちゃんの手をはらいのけて叫ぶ。

「違うよ。私、自分に怒ってんだ」

キッとただまっすぐにらみつけた彼女。

「お前を、こえられなかった自分がにくいんだ」

「ほ、ほう……」

「ちなみに、ホルンはきらいだ」

「言うと思った」

「でも、輪はみだしちゃいけない。私は音楽は好きだからな、それはいくらホルンがきらいだって、絶対守るよ。お前のためにもな」

「……え?わたしのため?」

「お前も好きだろ、ペット」

「あ……うん」

散々な過去を思い出した手前、ちょっと迷ってからうなずいた。……あれ、わたしまた記憶なくなっちゃうかなって思ったけど、ある。さっちゃんはにっと笑った。

「あ、言うの忘れてた。あいり、体調は大丈夫か?」

急に心配そうにこちらを見つめるもんだから、おかしくて笑っちゃった。

「な、なんかヘンだった!?」

あわてるさっちゃん。ますますおもしろい。

「……ううん。きいてくれて、うれしかったの。もう、大丈夫だよ、そしてこれからも。」

「なんだそれ。あいりのほうが絶対おかしいじゃん」

「んー……そうかな。わたしとしては、もうホントスッキリしたよ」

「そうか。なら、良かった、かな」

「……うん!」

「じゃあそろそろ部活戻るな。…と言ってももうミーティングの時間だが……。」

「ふふっ。わかった」

さっき来た道を戻るさっちゃん。ドアをガラッとあけてすこしふり向いた。


――部活、頑張ろう。


さっちゃんの優しい笑顔が、保健室に残っていた。

わたしは、もう大丈夫だ。

夕日が、ほうせきみたいに輝いている。

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エスプレッシーヴォ! 中原 ももか @momoka_nakahara_13

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