その先は
おとといはどうやって帰ったかまったく覚えていない。ただ、記憶にあるのは、そこにさっちゃんはいなかったということ。でも、さっちゃんはともかくあんなふうになってしまって、一体どうするのかと思ったら、案外大丈夫なようだ。それは、朝、いつも一緒に登校する、マリンによって気づかされた。
“おっはよー!”
なんて、彼女は笑顔でドアの前にいるんだからちょっとおどろいちゃった。
わたしが口を開けたりとじたり無意味なことをしていると、マリンがああ〜……と眉じりをさげて笑った。なんでも、「この二日、フルートパートになれなかったことについて考えたけど、あんなにいい先生と先輩たちが決めてくれたならゼッタイ上手になれる」と思い直したみたい。パーカッションをやりたかったらしいけど、トロンボーンを吹くことになった佳凪ちゃんにもきいてみたら、同じような言葉が返ってきた。だから、わたしも確かに!ってなって、トランペットをやる気になったんだけど……。
今は五時間目の英語。龍雅舞中は、月曜日だけ五時間だから、もうすぐ部活だ。
さっちゃん、大丈夫かなぁ……。逃げだしたくなるくらい、ショックだったんだもんね……。
そんなことを考えながら、先生の板書をノートに書き写す。
「――ここの英文を坂口さん、読んでください」
「あっ、はい!」
ガタッと席を立つ。考えごとしてたの、バレたかな。
「……はいオッケーです、ありがとうございます」
わからない単語もなく、すらすらと読めたので安心。いすに座って、その英文の解説をきいたら、キーンコーンカーンコーン……とチャイムがなった。
「きりーつ、れい!」
「ありがとうございましたー……」
そろそろ慣れてきて、小さくなってきた号令。
今日は掃除がない日だから、帰りのホームルームの時間まで待つだけだ。
マリンと佳凪ちゃんの何はともあれ部活が楽しみなようすを見て、わたしはふふっと笑った。わたしも、トランペット、がんばろ。
「はーい、ホームルームはじめるよー」
春川先生が教室に入ってくると、みんなはいっせいに席につく。
「明日提出の締め切りの書類についてなんだけど――」
教卓に手をついてさっそく話しだす先生。それをてきとうに聞き流して、時間が来るのを待っていた。
「あい〜、佳凪ちゃん!部活行こっ」
「「うん!」」
マリンの荷物まとめが終わって、三人いっしょに部室へと向かう。
「今日なにやるんだろうね〜!」
マリンがワクワクといった声でスキップする。
「楽器別で基本的な情報を教わるんじゃない?」
佳凪ちゃんがうーんと考えて答える。
「確かに!あ、でも昨日の楽典の続きは?」
「ああ、そういえば音符の長さの話とか、まだだったね」
なんて、話していると部室に着いた。
「「「こんにちは」」」
先に来て楽器を準備してた先輩にあいさつする。
「……こんにちは」
バスクラリネット――バスクラの先輩がめんどくさそうにあいさつを返してくれる。そのあともあっちこっちから「こんにちは!」の大合唱が。
いつも予定が書かれている黒板を見ると、「パート練」その下に「ミーティング」の文字。そして、そのとなりに、「二、三年は、同じパートの一年生がいたら、楽器の場所や練習のしかたなどを教えてください!」とつけたしたものなのか、吹き出しの中に書かれていた。
「坂口さんだよね?」
黒板を見ていると、背後から名前を呼ばれた。はい、と返事をして、ふりかえると、トランペットを持った先輩がこちらを見ている。すこしつり目の先輩で、思わずおじけついた。
「こんにちはっ」
わたしがあいさつすると、その先輩は優しくにっこり笑って、「こんにちは」と言ってくれる。良かった、てっきり怒られるのかと思っちゃったよ。
「私、トランペットパートリーダーの、
「はい!よろしくお願いします!」
ペコッと頭を下げる。
「ちなみに自分の楽器って持ってる?」
「いや、持っていないです!」
「オッケー。じゃあそこの棚にトランペットあるから、持ってこよっか」
「はい!」
部室の棚まで、萩原先輩についていくと、棚の上のほうにトランペットの楽器ケースが三つほど並んであった。
「一番いい音がなるペットは……」
先輩はそう言って、一番左の楽器ケースを取り出した。黒いケースに、白い文字で「Tp.2」と書いてある。
「はい、これを使ってね」
「ありがとうございます!」
受け取ると、思ったよりかるくて、ケースはかたくてしかくい。
「じゃあそこら辺のいすを近づけて、パート練しよう」
「はい!」
「ペットの二年生ー?」
わたしがうなずくと、部室のドア付近にいたらしいトランペットの二年生二人を、先輩は呼んだ。
「「はいっ」」
「準備できたらこっち来て!パート練するよー!」
「「はい!」」
「あ、自分の譜面台、まだ買ってないよね。っていうか、まだ吹部に必要なもの一覧とかもらってないのか」
折りたたみ式らしい譜面台を広げながら、萩原先輩は言う。
「あっ、はいっ」
「じゃあ、さっきの棚の近くに、音楽の授業で使う折りたためない譜面台あるから、買うまでそれ使ってね」
「承知しました!」
楽器ケースをいったんおいて、四つのいすを萩原先輩と協力して近づけたあと、譜面台を取りに行った。思いなぁと思いつつ戻ってくると、二年生の先輩たちも、もうこっちに来てたみたい。
「あっこんにちは!」
急いで言うと、二人とも、にこっと笑って、
「「こんにちは〜!」」
と、言ってくれた。
「あたしは
「俺は
「「よろしくね!」」
「よろしくお願いします!」
「じゃあまずこれね」
萩原先輩が譜面台にのっけてくれたのは、基礎練習用の楽譜たち!
「これは全調スケールのプリントだよ。」
すごい、CdurとかB♭durとか、Dmollとか、左のすみのほうに書いてあって、そのとなりの五線に、ト音記号と♯や♭がついてたり、ついてなかったりの音符がおどっている。
「全調スケールっていうのは、まず全調が長調と短調のことで、明るい音楽と暗い音楽。全調スケールは、はじまる音をかえて、♯や♭をつけて、『ドレミファソラシド』みたいにきこえる音階のこと。♯とか♭がついてないと、トランペットの楽譜はB♭durになるよ。たぶんよくきく基本の音階だね」
「なるほど……!」
うなずくと、新澤先輩が、トランペットをかまえて、ドレミファソラシド、と吹く。
「これは、B♭durですか?」
「あたり。じゃあこの調は?」
おおっ、なんか音がちょっと高くなったドレミファソラシド……だけどちょっと悲しくなる音階だなぁ。ってことは……
「うーん……mollなのはわかるんですけど……」
「あはは、
内藤先輩が、新澤先輩をこづく。
「ごめんね、なんかわかりそうだったから」
ちっちゃく笑った新澤先輩。代わりに、内藤先輩が、
「この音階は短調の、Emollだよ!」
と、教えてくれた。
「先輩たち、よくわかりますね……!」
尊敬の眼差しで各先輩方を見ると、全員が苦笑いした。
「いやぁ、歴代の先輩たちに覚えさせられたからね……」
「六月中に覚えろ!なんて、超厳しい先輩ばっかでしたもん……」
「それにしたっても努力の結晶ですよ……」
「「「ありがとう……」」」
なんだかその一言に報われました、みたいな顔をして先輩たちはわたしをじいっと見つめた。今度はわたしが苦笑いして、「じゃあわたしも覚えなくてはならないんですね、このハンパのない量を……」なんて言うと、萩原先輩はふはっと笑った。
「まあ、全部覚えるにこしたことはないけど、合奏とかパート練で全部練習するわけじゃないし。そのときやってる曲の調が出来ればいいよ!」
先輩の言葉に、うんうん、とうなずく二年生の先輩たち。
「えっ、あっ、そうなんですか!じゃあ、先輩方みたいにできるだけ覚えられるように努力しますが、できなかったらできなかったで目をつぶってほしいですっ」
わたしがそう言うと、三人の先輩はあははっと大声で笑った。
「大丈夫だよ、私らそんなことじゃ絶対怒らないし」
「良かったです……」
「さて、全調スケールを個人練やパート練、合奏でいくつやるって言ったよね。練習法を教えるね。」
「はい!」
「楽典……で音符の長さの話、できなかったんだっけ」
「あ、はい、思いのほか会議が早く終わったので」
内藤先輩が答える。
「じゃあ、……そうだね。まずその話から行こうか」
渡された三枚のプリントのうち、二枚目のプリントを萩原先輩が抜き取った。そして、「突然だけど問題です」と言って、てきとうなところの「♩」という音符をさす。
「この音符は何音符?」
「えっと、四分音符です!」
「そう、正解。曲で使われる拍子は四分の四拍子が多いだから、この音符の長さが『一』になるんだよね」
「はいっ」
「じゃあ、八分音符は四分音符何個ぶんかな?」
「二分の一個です!」
「正解。こういう感じで、全音符は四分音符の四個ぶん、二分音符は四分音符の二個ぶん、十六分音符は四分音符の四分の一個ぶん、になるよね。じゃ、この四分音符のたまの右どなりについてる点は?」
「付点です!付点がついてる音符の長さの半分が元の音符の長さにプラスされます!」
「そう、よく知ってるね!」
「ありがとうございます……!」
ニッと笑って萩原先輩は続ける。
「これを踏まえて練習法を教えるね」
「はいっ」
「まず、チューナーでチューニングする。B♭→下のF→C→A→B♭→F→B♭の順で、真ん中にピッタリあうといいね。今はないから、三人のうち毎回誰かに言って貸してもらって」
「はい!」
「隼斗くん、お手本見せてくれる?」
「承知しました!」
新澤先輩がマウスピースに口をつけて、萩原先輩が言った音を吹き始める。
これがチューナーを見ながらきくとほんとにすごい。なんてったって最初からきれいに真ん中に針がきてるんだもん!しかもさっきから思ってたけどめちゃめちゃ音がきれいなの。
「すごい……!」
「うちのペットパートでは一番隼斗くんが音程安定してるんだ」
「いやいやぁ、マホ先輩のほうが音程いいし音もとってもキレイじゃないですか!」
「そうですよ!」
「ちょっと!
「ほんとのことだし、自分で言ってたじゃん!」
二年生の先輩がわちゃわちゃしているのを見てオロオロしている萩原先輩。わたしはクスッて笑っちゃったよ。
「先輩方、萩原先輩、困ってますよ……?」
遠慮がちに二年生の先輩たちに言うと、はっと動きを止めた。
「あああごめんなさいっ」
「すみませんっ」
席を立って二人は萩原先輩にペコペコ頭を下げる。
「いや、大丈夫だから……。」
困ったように笑う萩原先輩。
「とりあえず、坂口さんに説明させて?」
先輩がそう言うと、ようやく謝罪のあらしはおさまった。
「チューニングしたあと、チューナーのメトロノーム機能で、テンポを六十にして、B♭durの半音階の上り下りを、B♭から一音ずつ、八拍伸ばして四拍休んで、八拍伸ばして四拍休んで……って繰り返す。あ、半音階ってのは♯と♭も含めた音階のことね」
「はいっ」
「これがいわゆるロングトーンってやつ。で、次にテンポ六十のまま、さっき教えた全調スケールの中からB♭durとそのときの曲の調を選んで、二分音符、四分音符、八分音符、十六分音符の順で吹く。」
「はい!」
「で、最後、リップスラーってやつがあるんだけど」
「指で音をかえないでくちびるだけでかえるっていうあれですか?」
「おっ、リップスラー知ってるんだ。それをね、この三枚目に渡したプリントで書いてある音符の長さで、自由なテンポで練習してほしいんだ。あ、下のほうにハーモニーも載ってるから忘れずに見てね。パート練や合奏でやるからさ。とりあえず、そこに書いてある音程通りに吹いてね」
「はい!説明ありがとうございました!」
「いえいえ。わかんなくなったらきいてね。運指は……」
「はい、知ってます!」
「オッケー、じゃあ実際にトランペット出して吹いてみよっか」
「はいっ!」
先輩に返事をして、しゃがみこんで楽器のケースをあける。開くとちゅう、すき間からまばゆい光がキラリともれでた。楽器をとりだせるくらいにあけたケースから銀色のトランペットが見える。
「おお……。」
思わず感嘆する。六つのにっこりした目がわたしをかこんで、くすぐったかった。楽器をいすの上に置いて、それから楽器ケースをとじ、元の状態に戻す。
「まず、マウスピースだけで拭いてから、楽器をつけて吹いてね」
「わかりました!」
いすにすわりながらうなずいて、楽器をひざにおく。マウスピースだけをくちびるにあてた。
〜……。
「体験のときから思ってたけど、マウスピースだけでもめっちゃいい音出るね」
「そうですか?ありがとうございます!」
萩原先輩は満足気に笑って、マウスピースだけで吹き続けていたわたしに、「もう楽器つけていいよ」と言った。
「はい!」
パイプみたいな部分の管に、マウスピースをとりつける。また、トランペットは目をさすほどギラりと輝き、わたしは反射的に目をぎゅっとつぶった。右手の人差し指、中指、薬指を押すボタンの上におき、管についている指を引っかけるためのふたつの突起に親指と小指をひっかけた。左手はボタンに繋がってる管を、握るような感じで、指輪のような管の突起に、親指と薬指をはめる。
「チューナー貸すね!」
「ありがとうございます!」
内藤先輩が譜面台に、チューナーをのっけてくれる。そして、音を拾う洗濯ばさみみたいなチューナーマイクで音が出るところ、ベルをはさんでくれた。
パー……。
「うん、やっぱりきれい。体験のとき、一番坂口さんの音がきれいだったんだよね」
「えっ……そうだったんですか?」
うんうんと三人とも首を縦にふった。……さっちゃんのほうが、ずっと練習してたのに?さっちゃんのほうが、音、きれいなはずなのに?
とうとつに顔をくもらせたわたしを見て先輩たちはほめたはずなのに……?と顔を見合わせている。そして、もう一度、B♭を吹くと、それを見た新澤先輩が場の雰囲気を変えようと、わざとらしいほどに明るい声を出した。
「あれっ、ペット吹いてないときは気づかなかったけど、吹いてる姿を見たら坂口さんって、なんか誰かに似てるような気がしてきたなぁ〜!……あ、思い出した!三年前くらいに急に舞台から姿を消したオーケストラで有名だった、俺の憧れの人!」
……え?
わたしに似てる人……?
新澤先輩のその話にああ、内藤先輩がこたえる。
「前に隼斗が言ってた人ね。その人のコンサートに小学生で連れていかれたときに、まんまとその人の音色に惚れちゃって、そこからトランペットを習い事ではじめたってやつ」
ドキン、ドキン、と心臓が強く脈打ちはじめる。頭が、これ以上は思い出しちゃダメって警報をならすようにどんどん痛みを増していく。
「あー」
萩原先輩が口を開く。
「その人、私も好きだったなぁ。あの人でしょ?」
「そうですそうです!『森山
楽しそうにうなずいて、新澤先輩がその名を口にする。
その瞬間、ガツンと殴られたようなここ最近で一番強い頭痛がして、わたしの視界は真っ黒に塗りつぶされた。
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