楽器決めと波乱
五月の最初の金曜日に、マリンと二人で東音楽室に行くと、またも東音楽室の前で一年生を案内している安間先輩が。持っていた名簿でわたしたちの名前を確認して、中にあるいすに座って待っててね、と言ってくれた。どうやら、一年生は十三人入部したみたい。ちなみに、二組はわたしとマリン、そしてもう一人、園田
まず、学校内で、吹奏楽部の先輩や、学校の先生に会ったら、必ずあいさつすること。部活で使う教室は、出入りする度にしっかり「失礼します」「失礼しました」と言うこと。先輩に「敬語を使わなくてもいい」と、言われても必ず敬語を使うこと。アドバイスは先生、先輩、後輩、同級生、誰からのものでも素直に受け入れること。先輩や先生に何か言われたら、「はい!」と大きな返事をすること。最後に、年齢関係なく、助けあって楽しく活動すること!
吹奏楽部は、場所によってはすごくきびしいところと、ゆるいところがあるらしいけど、ここの部活はちょうど真ん中くらいなんだ。……まあ、この日、あいさつと返事をのどがかれそうになるほど練習させられたけどね……。
そして、今日は土曜日。とりあえず楽器決めのための楽器体験をしなきゃ楽器の練習も何もできないから、時間のあるこの日に、それをやることとなったんだ。でも、自分で楽器を決められると思ってたから、なんだかちょっとかなしい。そう思いつつ、おかあさんにいってきまーす、と言って玄関のドアを開ける。
「あい!おはよ」
「うん、おはよう〜」
「じゃあ、ののん家行こ!」
「だね!」
そう。同じ小学校出身の子は、マリンとさっちゃんしかいなかったんだ。だから、家もそれぞれ近いし、部活行くときは三人で一緒に行こうって、さっちゃんを誘った。さっちゃん家は、わたしたちの家よりちょっと中学校側なので、わたしたちが彼女の家に向かう。
そして、青い屋根の家を見つけ、ぴんぽーん、とインターホンののんびりした音を鳴らした。
「あっ、二人か。今行く」
スピーカーからノイズまじりの声がすぐ聞こえてきて、その数秒後、ガチャ、とドアが開く音がした。
「おはよ、二人とも」
「おはよっ、のの!」「おはよー!」
「じゃ、行くか」
さっちゃんがぼそっとつぶやき、わたしたちは歩き始める。
「ねね、二人とも。あたし、フルートパートなりたいんだけど、なれるかなぁ、なれるかなぁ!?」
そんなことを言っているのに、なんだかもうフルートパートに決まってます、みたいな言いかたのマリン。思わずさっちゃんもわたしも笑っちゃう。
「一応、楽器希望調査と自分の簡単な情報を伝えるための用紙が配られるみたいだけど……」
「まあ、希望通りに行くかどうかなんて自分の身体と楽器の相性次第だけどな」
わたしとさっちゃんが交互にマリンをおちつかせるように言う。
「でもビビッときたから!きっと大丈夫!」
彼女はフルートの美しくてはかない音色のとりこになってしまったようだ。これじゃ何言ってもきいてくれないよぉ……。ちらりととなりのさっちゃんを見たら。やれやれ、とでも言うように肩をすくめた。
「さっちゃんは、すっごくコルネット上手だったからさ、多分トランペットだよね!」
気を取り直してさっちゃんに話しかける。すると、今まで穏やかな空気をまとっていた彼女の空気が急にピシッとひきしまったのを感じた。
「「……?」」
わたしたちがきょとんとしてさっちゃんを見つめると、ただまっすぐ歩く方向を見つめて口を開く。
「……私は」
「う、うん」
うわついた気分でいたマリンがごくっとつばを飲みこんで相づちをうった。
「私は、吹部に、トランペットをやるためだけに入部した」
「えっそうなのっ?」
よくわかってないマリンが目を点にする。
「小学校では、コルネットで、トランペットが出来なかったから、中学校では絶対……絶対やりたいんだ」
決意に満ちた彼女の真ん前を刺すような視線に、わたしたちはたじろいた。でも――、
「うん……!わたし、ちょっとしか金管バンドにいなかったけど、その期間きいてたさっちゃんのコルネットの音、とってもかっこよくてトランペットみたいで、好きだったよ。だから、絶対トランペットパート入れるよ!!」
わたしがそう言いきると、彼女の雰囲気がふっと和らいだ。
「そう言ってくれると、嬉しい」
にっこり笑ってわたしを見るさっちゃん。その横で、「なんでののにはそう断言するのに、あたしにはあいまいにしか答えてくれなかったのー!」ってマリンがほざいてる。
……うん?
そこでまた、小さな引っかかりを感じた。わたし、小学生のころ、まともにトランペットの音なんて聞いたことなかったはずなのに、なんで前から音色を知ってたみたいな言いかたしたんだろ……?ズキッとした痛みが頭をさす。思わず顔をしかめた。
「ん?……あいり、大丈夫か?」
「あれ、前もこんなことあったよね?大丈夫っ?」
となりからの二人の目線が、心配そうにわたしをつつく。
「あっ、ううん、大丈夫だよ!」
そんなにひどい痛みじゃないから、またごまかして、二人を安心させるようにニッと笑った。
「それならいいけど……」
まだなんか心配そうなさっちゃんの背中をぱんっとたたく。
「だいじょーぶ!それよりほら、もう学校だよ!」
うん、もう痛みも引いてる。多分中学校の新しい生活に、まだ慣れてないだけだ。
「ののの背中をたたけるくらい元気なら大丈夫だよっ」
「マリちゃん、いつもそうやってあいりを無理させてないよな……?」
「……う」
「ほら!あいりの優しさにつけこんで!あいり、マリちゃんのためにもなんか言えよ……?」
ぎゃあぎゃあにぎやかさを取り戻したわたしたち。さっちゃんの気づかいに、うん、とうなずいて、二人にバレないようにふふっと笑った。
「「「おはようございます」」」
「おはようございます!」「おはようございます〜」
部室のカギ開け係でもある部長と副部長は、誰よりもはやく部室に来る。わたしたちは二番目だったみたいだ。
「三人ともはやいね〜」
「まだ三十分前だよ?」
日色先輩、安間先輩が口々に言う。
「いやぁ、あたしたちよりも先輩方の方がはやいじゃないですか〜」
マリンはそう言って、荷物も置かないで先輩たちと談笑しはじめた。入部してからの先輩って、怖いってよくきくけど、この学校の吹奏楽部の先輩方はそんなことはなく、とっても優しい。昨日の放課後一緒にすごして感じたけど、普通に話しかけてくれるし、部活のことでも、学校のことでも、わからないことがあったら教えてくれる素敵な人たちばかりだ。
「おはよー」「おはようございますっ」「おはようございます!」――
そんな部員の声が音楽室のとびらの方からどんどん聞こえるようになってくる。そして、部員全員がそろったのは、集合時間の八時半の十分前。なんなら、担当楽器がすでに決まっている先輩たちは楽器を出して練習してるくらいだ。すごいなぁって思いながら、先輩たちが座っているいすの一列うしろのいすに一年生みんなで座りながら、顧問の先生たちを待っていると、二十五分ごろに中野先生と宮里先生が部室に到着した。
「おはようございます!」
部員全員で先生たちに大音量のあいさつをすると、もう慣れているのか、当たり前のような顔をして、二人は「おはようございます」と言った。
「ではミーティングをはじめます!」
「はい!」
「お願いします!」
「お願いしますっ」
いつの間にかみんなの前に来ていた部長と副部長がミーティング開始を告げる。
「出席確認します!」
「はいっ」
「一年生全員います!」
まだまとめる役が決まってないから、一組の一番出席番号がはやい男子が答える。
「二年生全員いますっ」
続いて二年生の先輩が。
「三年生も全員います!」
最後に部長の安間先輩がそうしめくくる。
「今日の予定は、一年生の楽器決めです」
「一年生が体験したあと、パートリーダーと部長、副部長、先生でどの楽器パートに入ってもらうか会議するので、そのあいだ一年生と会議に参加しない人たちは一年生に楽典を教えて待っていてください!」
「はいっ」
「あ、あと一年生には、ミーティングが終わったら楽器希望調査の用紙とか配るので前に集まってください!」
「はい!」
「書き終わったら中野先生まで提出お願いします!」
「はいっ!」
「続いて、中野先生お願いします!」
「はい。皆さんおはようございます!」
「おはようございます!」
「部長と副部長の補足です。楽器体験は、パートに二人以上いる楽器パートは、一年生二人ずつ体験させていってください。一年生は、体験して、時間が来たらローテーションで一個ずつ楽器パートをずれていってください。木管の体験場所は空き教室、金管とパーカッションは東音楽室でお願いします」
「はい!」
「宮里先生お願いします!」
「はい、おはようございます」
「おはようございますっ」
「僕からは、なぜ自分で楽器を選べないのか疑問に思っている一年生も多いでしょうから、その話をします。例えば、みんな好き勝手を楽器を選んだとします。楽器はぜんぶ平等に人気なわけがありませんから、当然人数のかたよりができてきてしまいますよね。それだと、そもそもきれいな合奏ができなくなってしまうんです。もし一人だけで楽器を演奏するなら、好きな楽器を選んでもらってかまいません。ですが、吹部は団体です。みんなできれいな音を響かせるための部活なんです。ですから、楽器決めは必要なんですよ」
「はい!」
メガネをクイッとおしあげながら話す宮里先生はなんだか不思議な先生だなぁ。
「これでミーティングを終わりにします!」
「はいっ」
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
「じゃあ一年生集まってー!」
ミーティングが終わるとすぐ安間先輩が一年生を呼ぶ声がきこえる。
「はいっ」
一年生みんなで前へかけよると、日色先輩から「楽器希望調査」の用紙が配られる。「楽器希望調査」は、クラス、自分の名前、これまで楽器をやってきたかどうか、やってた人はその楽器の名前、身長、楽器の希望(第三希望まで)、その楽器をやりたい理由とたくさんのことを書く欄がある。
「十分くらい時間あげるので、申し訳ないけど部室のすみの方で書いてくださーい!」
「はいっ!」
「二、三年はいすを丸く並べて、楽器の準備してー!」
「はい!」
それぞれが動き出し、なんだか騒がしくなってきた。
えーっと、二組、坂口 藍梨、楽器やってた、コルネット……何も考えなくていいところはすらすらうめられていく。
「……希望楽器かぁ…」
なんか、サックスだったら、どれでもいいかなって思っちゃう。まあとりあえず、音の高さ順にうめればいっか。あ、でも、バリトンサックスはちょっと重そうだから希望から外そうかな。
『第一希望:アルトサックス』
『第二希望:テナーサックス』
第三希望、どうしよう……。
ほんとはだめだけど、ちらりと真剣な眼差しで書いてたさっちゃんの用紙をのぞき見ると……。
『第一希望:トランペット』
『第二希望:なし』
『第三希望:なし』
おお……。さすがトランペット一筋…。
さっちゃんは参考にならなかったので、脳内で自分がフルートを美しい音色を奏でているのを想像しているのか、顔がニヤケまくってるマリンの用紙もちらっと見る。ごめん、マリン……。
『第一希望:フルート』
『第二希望:トランペット』
『第三希望:アルトサックス』
第一〜三希望が見事なまでの花形楽器。マリンって、やっぱり目立ちたがり屋なんだな。
……まあでも……。
コルネット、やってたもんね。別に、さっちゃんほどやりたいわけじゃないけど……。
『第三希望:トランペット』
よし、これでオッケー。理由もいい感じに書けたし、あとは中野先生に提出するだけだ。床で書いてたから、脚がちょっとしびれたなぁ。立ち上がると、さっちゃんもマリンも同じタイミングで立った。
「あ、二人も、書き終わったんだ」
「うんっ!」「そんなむずかしいことを問われてるわけじゃないしな」
「じゃあ提出しに行こっか」
「「「中野先生、お願いします!」」」
「おお、三人とも同じタイミングで書き上げるなんて、仲良しだねぇ」
「あはは……」
わたしは苦笑いした。ほか二人は目をきらきらさせていたけど。
すこし経って、安間先輩がぱんぱんぱんっと手をたたいた。この合図は、どうやら話が始まるから、聞いてほしいって意味らしい。とたんにしん、と静まりかえる。
「はいっ、じゃあ一年生も用紙提出し終わって、二、三年も楽器の準備終わったので楽器体験はじめまーす!」
「はい!」
さっきの説明から考えると、わたしが最初に体験する楽器はクラリネットだ。マリンも一緒で、クラリネット。さっちゃんは三組だから、最初にアルトサックスを体験するみたい。マリンは同じクラスの佳凪ちゃんと、わたしはさっちゃんと音楽室のとなりの空き教室へ向かった。仮入部のときは、テナーサックスしか体験してないから、全部の楽器を体験できるのは楽しみだなぁ……!
「――一通り一年生の楽器体験が終わったので、会議するメンバーは空き教室に集まってください!それ以外の人は音楽室で楽典をお願いします!」
「はい!」
みんな、全部の楽器体験が終わった。
なんだか楽器をとっかえひっかえしすぎて、いつ自分が体験を終えたのかもわからないくらいだ。そして、音楽室に丸く並べたいすたちも元通り。
体験内容は管楽器はどの楽器も全部一緒で、まずはマウスピース、という取り外せる楽器の吹き口だけで音が出るか、続いて楽器にマウスピースをつけて、押さえるボタンを教えてもらいながら高さも低さもどこまで出るか、音色はどうか、音程はいいかなどを見られたみたい。
音程って、例えばドって音が出ればそれは音程がいいってことにはならなくて、ちゃんとピッタリ、きれいに合うところがあって、そこに合わせなきゃ音程が良いとはいえないんだって。それを耳だけじゃあまり正確ではないから、目で確認できる手のひらくらいの大きさの、しかくい「チューナー」って機械があるらしいんだ。それは、吹いた音を拾って低いか高いかピッタリか、画面の中で細かく針をさしてくれるし、出そうとしてる音の正しい音程も鳴らすことができるし、メトロノームっていうテンポ(はやさ)を鳴らしたり光ってたりして教えてくれる機能もあるんだよ。はじめて見たときは、「ゲーム!?」ってびっくりしちゃった。そんなわたしに、笑いながら、説明できるくらい丁寧に教えてくれたあのチューバの先輩、優しかったなぁ。
打楽器は、ドラムとかをたたくためのバチや鍵盤楽器などをたたくためのマレットの持ちかたを教えてもらって、たたいたときの音色をみていたみたい。
「じゃあ、一年生集まって!」
出席確認のとき、「二年生全員います!」って大声を出してたテナーサックスの
「はい!」
全員集まったことを確認すると、吉村先輩は口を開いた。
「安間先輩が言ってた通り、一年生には、楽典を教えようと思います」
「はいっ」
開始一秒で手をあげた同級生。その場にいた全員がどっと笑った。でも確かに、わたしもちゃんとわかってなかったから、きいてくれてよかった。
「どうしたの?」
「さっきから疑問だったのですが、その、『楽典』ってなんですか?」
吉村先輩はふふっと笑ってまた口を開いた。
「音楽ってさ、楽譜を読んで演奏するということにすると、この音符はどのくらいの長さなのか、とか高さはどのくらいなのか、とかわかってないとどうしたってもできないでしょ?そういうみんなで音楽を奏でる上でわかってなきゃいけないことを楽典っていうの。……でも楽器によって、楽譜の読みかたが変わることもあるから、大変なんだけどね……」
「なるほど……!ありがとうございます!」
「いえいえ。ほかのみんなも、
そう言って、先輩はにこっと笑った。
「さて、本題に入るんだけど、みんなピアノの楽譜は読めるかな?」
先輩がそうわたしたちにきくと、
「はい!」
って言ったわたしたちと、
「うーん……」
って首をかしげるマリンたちの二種類のタイプが。
「こういうふうな五線にこんな感じで、音符が乗ってるのね」
先輩は、近くにあった元々五線が書いてあるホワイトボードに、ト音記号を書いて、第一線の下、下第一線にささったまるを書く。そして、下第一線と第一線のあいだ、下第一間にまた同じようなまるを。そうやって、どんどんまるを書き上げる先輩。第三間までまるを書くと、先輩はペンのキャップをしめ、そのペンで一番最初に書いた音符をさす。
「ト音記号で、これはピアノでいう『ド』だね。ここからじゅんに、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド……」
先輩は、またペンのキャップを外して、それぞれの音符の下に、ドレミファソラシドを書く。
「ただね。吹奏楽の世界では、ドレミファソラシドは楽器によって指す音がちがって、ややこしくなってしまうから、あんまり使わないんだ。」
へぇ〜……。吉村先輩の教えで、やっと理解出来たマリンたちと、何らかで経験してきて元々知ってるわたしたちの声が重なる。
「ドレミファソラシドはイタリア音名で、はにほへといろはは日本語の音名だってことは知ってる?」
うんうん、とうなずくわたしたち。
「で、吹奏楽で使う音名はドイツ音名や、アメリカ音名。実音ともいうね。その二つどっちかの音名を使えば、ドレミファソラシドみたいに楽器のちがいで音階が通じない〜、なんてことはなくなるんだよ!」
イタリア音名や日本音名が、楽器のちがいで通じなくなるなんて知らなかった。
そんなことを考えていると、イタリアとして紹介されたドレミファソラシドの下に、何やらC、D、E、F、G、A、Hとアルファベットを書き連ねていく先輩。
「これがドイツ音名。ピアノでのドレミファソラシドは、左からじゅんに、ツェー、デー、エー、エフ、ゲー、アー、ハーって読むよ」
なるほど〜、そうなんだ〜、など色々な一年生の声が飛び交う。それをきいて、先輩はうれしそうにほおをゆるませた。
「アメリカ音名は、普通に、シー、ディー、イー、エフ、ジー、エー、Hだけ変わって普通にB《ビー》って読むんだ」
ひとつずつ、ペンで音をさしながら、先輩は伝えてくれる。
「半音あげたりさげたりする記号、♯や♭はアメリカ音名ではそのまま、シーシャープ、シーフラットなどと読むんだ。ドイツ音名は元の音名に♯をつけるとisがつき、♭をつけるとesがついて読むよ。例外もあるんだけどね。あと、例えばド♯とレ♭は、同じ音なんだけどちがう言葉でいえるっていうのを、『異名同音』っていうよ。もちろん、ドイツ音名でも、アメリカ音名でも同じように使うよ」
うう……。なんだか頭がゴチャゴチャしてきた……。わけがわからなくなってきたわたしだったけど、どうやら数名をのぞくほかの一年生もそうみたい。それを見て吉村先輩はははっと笑った。
「ごめんね、急にこんなにたくさん覚えられないよね、でもこれからいう音だけは覚えてほしいなぁ」
先輩は、そう言うと、ホワイトボードにでっかく「B♭」と書いた。
頭の上にクエスチョンマークをとばしまくるわたしたち。それでもめげずに説明してくれる先輩。
「これはね、吹奏楽において基準の音。この音を鳴らして音程を合わせるんだ。これはよくドイツ音名でべーって読まれちゃうんだけど、ほんとはアメリカ音名でビーフラットって読むの。ただ、だからと言って『B』ってしるしちゃうとピアノでいうアメリカ音名での『シ』とまちがえやすくなっちゃうから、だいたいはB♭ってしるすよ。あとはビーフラットって読むと、ちょっと長いからべーって読んじゃうんだよねぇ」
B♭。
これが超大事な音だってことはわかった。
「音階の話は次で最後ね。」
吉村先輩のその一言に、よかった……と安堵する一年生もチラホラ。
「さっき、わたし、『ドレミファソラシドは楽器によって指す音がちがって、ややこしくなっちゃう』って言ったよね?それについてできるだけカンタンに説明するね」
一呼吸おいて、また吉村先輩は話し出す。ずっと話しっぱだけど、疲れないのかな。ほかの先輩たちを見ると、何か言いたいけど、説明がむずかしくて口をはさめない、といったところだ。
「『移調楽器』といってね。例えばとある楽器が出す『ド』とされてる音は、実はピアノが出す『ド』とちがう可能性があるんだ。まあ、名前の通り言うと、ドレミファソラシドを出すと、ピアノと出る調がちがうってことだね」
「あ、じゃあ、コルネットやトランペットのドって、ピアノの何の音なんですか?」
無意識にわたしの口から出た質問。はっとあわてて口をふさぐ。でも、吉村先輩はますますにっこり笑って、そんな質問に答えてくれた。
「お〜、良い質問だね!コルネットやトランペットはB♭管の楽器だから、ドはピアノのシ♭になるよ!」
へぇ〜、そうなんだ!
「ありがとうございます!」
「いえいえ。ピアノはC管で、さっき出た通常のコルネットやトランペットはB♭管、ホルンはF管などなど……さまざまな調の移調楽器があるんだ!詳しくは、楽器が決まったらその先輩にきいてみてね!」
「はい!」
「じゃあ次は音の長さについて……って」
吉村先輩は話をやめる。
がちゃんと音楽室のドアがあいたからだ。
「一年生の楽器が決まったので発表します!みんな席についてください!」
そう、安間先輩が叫ぶと、ぞろぞろと日色先輩、パートリーダー、先生たちが音楽室に入ってくる。そして、わたしたちも、ミーティングのとき座ってた場所のいすにすわる。
「では、一年生の楽器発表のあと、そのまま帰りのミーティングに移ります!」
「フルートから発表します。」
フルートパートリーダー兼副部長の日色先輩が口を開く。
なんだか急にどきどきしてきた……!
そしてとなりを見るとフルートパートを熱望する大親友のかたくにぎりあわせた両手――。
「フルートパートは、
ぱちぱちぱちぱち……。
拍手が遠くで聞こえる。
となりのマリンは……顔面真っ青で目を大きく見開いていた。わたしのほうは、かけてやる言葉も見つからず、あ、とかう、とか言葉にもなってないただの音を発する。そしてクラリネットパートリーダーが彼女の名前を笑顔で告げる声が水の中できいているような音で聞こえた。
「バスクラパートは残念ながら今年は入りませーん」
テキトーに一大発表をするバスクラリネットの先輩の声で、わたしは気を取り直した。
「アルトサックスパートは……」
あっ、次……!わたし、かなぁ……!?
すこしの期待を胸に、きゅっと両手をからめる。
「松本さんでーす!」
あ……。さっき、わたしの前に、「楽典」を質問してたコ、だ。
で、でもっ。まだ、テナーサックスが残ってるし、バリトンサックスでもいい……!
「テナーサックスパートは、
あああぁ……最後、バリトンサックス、なれるかな…!?
「バリトンサックスパートは、
あの、一番出席番号はやいからって、とりあえずまとめ役にされた子だ。……と、なると、わたし、何の楽器パートになったんだろう?やっぱり、金管かな。
「トランペットパートは……!」
あっ、さっちゃん……!!意気消沈ってようすのマリンの横でただトランペットパートリーダーの先輩を見つめるさっちゃん。うん、大丈夫、わたし、さっちゃんの音、好きだもん。だからっ、できるはずっ……!
にっこり笑ったトランペットパートリーダーの口から出た名前は、わたしからあらゆる世界の音を消した。
さっちゃんは、これ以上ないほど目を見開いて、顔を真っ赤にして、今にこぼれそうな涙を、必死にこらえて、落とさないように、落とさないようにしている。
「ホルンパートはーっ」
無情にも楽器発表は続いていく。
「皐月さんです!」
楽しげな声が、今となっては、一年生には苦しくて苦しくて。ほかの何人かの一年生も希望楽器になれなかったのか、うつむいていたり、ぐすっと鼻水をすする音が聞こえたりする。
――こんなの、楽しく、ない。
そう思ったとき、さっちゃんがダッとかけだした。
えっ?とか、どういうこと?とか、楽器発表が思わず中断されるくらいざわめきが強くなる。
失礼しました、も言わないまま、さっちゃんは音楽室を出ていって、ろうかに足音を響かせながら、どこかへと消えていく。
「ちょ、ちょっと、皐月さん!?」
中野先生のあわてる声に、「先生っ、わたしが行きますっ」と日色先輩の大声。失礼しました、の声が聞こえ、ダッダッダッと走る音が残されていく。
「ええと……。とりあえず、続けないわけにはいかないので、発表を再開します」
安間先輩の一声で、トロンボーンパートリーダーが口をあわてて開ける。
「えっと、トロンボーンパートは、園田さんと
さっきよりも弱い拍手。先輩たちも、自分の希望の楽器パートになれなかったことを思い出しているのかもしれない。心なしか、顔がくもっている。
「ユーフォニアムパートは、
……ん?ユーフォの人の拍手は、ちょっと大きくなった。高橋くんは、わたしのとなりにすわっている子だった。目をきらきらさせて、白い肌をバラ色に染めて、嬉しそうにしてる。彼はきっと、ユーフォパートになりたかったんだね。高橋くんを見て、臨機応変に拍手の対応した先輩たちは本当に優しい。
「チューバパートは、バスクラと一緒で、残念ながら今年はいません」
「最後に、パーカッションパート!
無理やり雰囲気を明るくしようとしたのか、パーカッションパートリーダーが笑顔でしめくくる。
「以上、楽器発表でした。……一年生の皆さん。希望した楽器パートになれなかった人も、なれた人もいたでしょうが、どっちでも大丈夫なんですよ。練習してるうちに、その楽器のこと、好きになれますから。あたしもそうだったしね。」
目を左右に動かしながら、それでも、伝えた方がいいと思って、安心させるように安間先輩は話してくれる。
でも、数十秒間、安間先輩はあたりを見回して、もう空気が戻らないということをさとると、重たげに口を開いた。
「……ミーティングを、始めます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます