6
かのじょの姿は、ほんの数百メートル先にある。帰る方向も同じなのに、今日はお互い1人で帰りたい気分だったのか、一緒に帰ることはなかった。
ただ、さっきからかのじょではない誰かの視線を感じるのは、気のせいだろうか。誰かに後をつかれているような気がするのだ。
僕の歩くスピードの方が速かったのか、2人の距離は50メートルもなくなってしまった。ただ、この曲がり角を曲がると、一瞬の間だけかのじょの姿が見えなくなる。そんな角にかのじょが曲った。
――ねえ。
その時、かのじょが曲がったとほぼ同時に、そんな声が耳に入った。かのじょの声ではない。太い声を持つ男の声だった。嫌な予感がして、僕は思わず足を速めた。
「お嬢ちゃん、遊ぼうよ」
「そうだよ、なんか奢ってあげるから」
――嫌な予感が的中した。確か、今日、先生が女子高生を狙ったナンパが多発していることを忠告していた。2人組の背が高く、体格のいい男の人がかのじょを囲んでナンパしてる。遊びに誘おうとしているのだ。そして、一人の男にかのじょは腕を組まれている。彼女は身動きをうまく取ることができない。
僕の姿はかのじょとかなり近い距離にいるけれど、男たちはかのじょに視線がいってるため、僕の存在は気づかれていないようだった。
ただ、かのじょを助けられるのはこの空間に僕しかいない。でも、相手は2人。しかも、僕よりも背が高く、体格もいい。漫画で見たような状況に、怖さで足が震え、手汗が止まらない。
でも、僕の大切な人を守るため、体を動かす。
「――あの、僕の彼女に手を出さないでください」
僕はそう言いながら、かのじょの腕を組んでいる男の手を強引に振り払った。知らない力が出たのだ。
「何だよ」
「……あの、僕の彼女なんです、渡しません」
――ちっ。
男たちは耳に響く舌打ちをして、邪魔が入ったとぶつぶつ言いながら、諦めたのか、足早にその場を去っていった。
男が去った後、恐怖が遅れて襲いかかってきた。汗がぽたりと垂れ落ちる。だが、とりあえずは安心だ。
「墨興……ありがとう」
男らの姿が見えなくなると、かのじょは僕に抱きついてきた。その手はどこか冷たく震えていた。よっぽど怖かったのだろう。僕だって怖かったのに、かのじょはなおさら怖いだろう。
「よかったよ、無事で」
ただ、無事で良かった。それが今は何よりだ。それ以上でも、それ以下でもない。求めているものは無事なことだけ。
「――本当に、無事なのかな?」
その声が耳に届いた瞬間、誰かが近づいてくる気配を感じた。あの人たちの仲間だろうかと思ったが、そうではなかった。ただ、その視線はさっき感じていたものと同じだった。
「険くん」
険くんだった。授業中に服装問題で停学処分を受けた子をバカにしたり、お昼に僕に変なことを言い残して去っていったことがある。僕は彼に良い印象を持っていない。
「無事なのかってどういうことだ……?」
気づけば僕とかのじょはさっきまで抱き合っていたけれど、いつの間にかその手は外れていた。
「僕はちゃんと一部始終を見ていたよ。君たちって付き合ってないんでしょ? さっき墨興くんは玄音ちゃんのことまだ完全には認めていなかった。それなのに今、君は『僕の彼女』って表現したよね。これ、矛盾してない?」
そうか、わかった。何が言いたいのか。険くんが。つまりそういうわけだ。
「俺ははっきり言うけど、君のことが嫌いなんだよね。俺は君がいるせいで、あと少しのところでテストの成績が学年1位にはなれない。君のことを嫌っているからこそ、何か仕返しをしたいとずっとずっと思ってたんだよね。退学するようなことをしないかなって。でも、今、やっとしてくれたね。黒玄高校の校則は家に帰るまで適用される。この意味分かるだろ? 映像も捕獲済みだよ。逃げられない」
険くんは僕を睨みつけ、次々と攻撃してきた。僕は言葉を失い、ただ彼を見つめるしかなかった。どうやらかのじょもこの状況を悟っているようだった。
「そう、君は今、嘘をついた――つまり、君は、退学だ」
そう言われて、冷や汗が流れ落ちた。
そうだ、こういつの言うとおりだ。僕の彼女ではないのに彼女と表現した。つまり嘘をついたのだ。校則には、たとえ状況がどうであれ、嘘をつけば退学になると書かれている。つまり、あの状況下であったとしても、僕はこのことが学校に知られたら即退学なのだ。そんなこと考える余裕もなかった。
「でもさ、あの状況だったんだ。守るためだったんだ。しかたなくないか? もし僕が守らなかったらただじゃすまなかったかもしれないんだぞ。言っていい嘘だってあるんじゃないか?」
僕は無駄かもしれないとは思ってはいるけれど、険くんを説得し始める。険くんさえ説得できれば僕の退学は免れる。そのために僕は必死になって険くんを説得する。
「そうだよ。墨興は私を守るために嘘をついてくれたんだよ。私のためだったんだよ。そんなのおかしすぎる。人を守るための嘘が許されないなんて。だったら私を退学にしてよ」
気づけばかのじょも僕のことを必死に声を上げていた。ここまで玄音が声を上げてくれたのは初めてかもしれない。だけど、険くんは表情一つ変えなかった。
「ここは法治国家。今日の授業でも言ってたよね……? 忘れたの?」
「そうだけど……」
僕はもう言い返せなかった。何を言おうと無駄だと思った。ここは法治国家、国では憲法が、学校では校則が絶対的な力を持つ。背くことはできない。
「でも、法律でも例外はあるでしょ? 正当防衛とか、緊急避難とか」
諦めていた僕とは裏腹に、かのじょはまだ抵抗を続けていた。必死な声で、あらゆる手段を尽くそうとして。
「まあな、ただこれは俺だけでは判断できない。つまりはどっちにしろ学校には提出させてもらう。判断はあくまで学校だ。俺ではない」
険くんの表情は一向に緩まない。ここで負けるのは僕だけだ。かのじょは僕を守るために戦っているのに、僕はもう諦めてしまった。そんな自分が悔しかった。
「じゃあな……あっ――」
険くんがこの場から立ち去ろうとした瞬間、険くんの右ポケットから何か紙のようなものが落ち、僕らの方へ飛んできた。
……誰かの、写真?
目の前に来たその写真をキャッチすると、そこには男の人が写っていた。高校の制服を着た彼は、おそらくこの高校の学生だろう。しかし、誰だろうか。この人の顔は、どこか険くんの顔に似ているようだった。ただ、この人の鼻の下にはほくろがついているのに、険くんにはそれがない。
「返してくれないか。それ、実はさ、俺の兄なんだ……」
「お兄さん……?」
僕がそう問いかけると、険くんはゆっくりと語り出した。先ほどの怖い目つきが、今はどこか弱々しく見える。
「俺の兄さんは、高校3年生の3月、大学も決まって、あとは卒業だけってときにこの校則によって退学となり、人生を滅茶苦茶にされた。兄さんは、兄さんは……、お前と同じように誰かを守るために嘘をついたのに。人のためだったのに……。さっき、お前にテストで勝ちたいとか言ったかもしれない。たしかに、それも理由の1つだ。でも、それよりも兄さんの敵を打ちたかった。誰か、兄さんみたいに不幸になればいいと思った。兄さんだけがあんな目にあうなんて、許せなかった……」
険くんはその場に崩れるように倒れ込んだ。僕は彼にどう言葉をかければいいか分からなかった。高校3年生の3月、大学が決まり、卒業を待つだけだったのに、退学されてしまう事実がどれほど残酷か、想像ができるから。
憎らしかった――険くんではない、この校則が。
「あのさ、険くん……」
倒れ込んでいる険くんに対して、かのじょが近寄った。そして、校則のとあるページを見せた。
「そうだったんなら、もっとこういう思いをする人、増やしちゃだめだよ。一緒に変えようよ、ほら」
かのじょのそんな言葉に、険くんがゆっくりと顔を上げる。
「『校則改正には、有権者の5分の3以上の署名を必要とする。また、有権者は本学校の生徒全員とする』この意味、分かる?」
玄音が開いていたページは改正についてのページだった。僕も玄音に近づいて見てみたが、確かに小さな字ではあったが、そう書かれていた。校則がありすぎてそんなページまで目を通したことがなかった。
「つまり、この学校の生徒は900人だから、540人が名前を書いてくれれば請求できるってこと。莫大な人数が必要だけど、皆で協力して、もうこんな人が出ないようにしない……? お兄さんのためにも」
その言葉を聞いた瞬間、険くんは涙を流した。その涙は温かく、彼の心の叫びのようだった。険くんは立ち上がると、玄音に大きく頷き、今回の嘘は見なかったことにすると僕に言ってくれた。僕は笑顔で頷いた。
そうだ、反撃をするんだ。敵の矛先は――
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