第18話 相棒
姚妃を志勇に任せ、美雲は寝所を抜け出す。雷辰も見張りをしていてくれるから、姚妃の身はひとまず心配ないだろう。髪を後ろで縛り、桃木の剣を腰に忍ばせ、後宮の暗い通路を駆け出す。空が暗いのは雲に覆われているせいだけではない。後宮に広がる妖気は強くなる一方だった。
今夜中に終わらせなければ――。
美雲は足を止めて、羅盤を懐から取り出した。その針が示すのは、庭園の方角だ。それを握り締め、顔を上げる。
「君、一人で行くなんてつれないじゃないか」
驚いて振り返ると、志勇がポリポリと頭を掻きながら暗がりの中から現れた。手に持っている提灯がその姿を照らし、影が壁に映る。
「どうして、追いかけてくるんです。姚妃様のお側についてあげてください。怖ろしい目に遭ったんですもの。お一人にするわけには……」
「姚妃なら心配いらないよ。君を手助けするように言ったのも、あの人なんだ。それに、心強い用心棒の坊やもいる」
「姚妃様が……」
美雲が寝所を抜け出したことを知って、志勇に頼んでくれたのだろう。
「私なら、大丈夫です。これでも道士ですもの……それに、この妖怪のことはもうわかっているんです。一人でもなんとかなります」
「私たちは、相棒だろう?」
志勇は真剣な顔をして、真っ直ぐ美雲を見た。
相棒――。
そう、志勇には助けられた。頼りたくなる気持ちもないわけではない。
だが、今度は、その行為に甘えられない。
「いけませんよ……」
美雲は裳を握って、小さな声で答えた。
「皇后の元に行くつもりだからか?」
見透かしたように言われて、一度は下げた視線を戻す。
美雲の表情が強ばるのを見て、「やっぱりそうか」と志勇は息を吐いていた。
「もしかしたら、大きな問題になるかもしれないんです」
「それなら、余計に私が一緒にいるほうがいいじゃないか」
「でも……志勇さんや姚妃様の立場が悪くなってしまいますよ!」
「心配してくれるのは嬉しいけれど、皇后が関わっているとなれば、君だけで片づけられるようなことでは、もうないということなんだ。なおさら、一人では行かせられない」
志勇はそばにやってくると、美雲の腕を取る。
ああ、苦しいな――。
美雲は黙って目を伏せた。この人といると、どうしてこんなふうに苦しくなるのだろう。
遠い人。この役目が終われば、もう会わない。
いいえ、もう会えないのかも。廟に無事に戻って、いつもの生活を送れるかどうかも、怪しくなってきた。後宮で起こっている事件だと最初からわかっていたら、断っていたのに。
そうだろうか――もし、志勇に真剣に頼まれたら、やっぱり断れなかったような気もする。
美雲はふっと息を吐いて、もう一度志勇を見る。志勇のほうが背が高いため、見上げるような体勢になった。似合わない女装で真剣な話をしている志勇が、急におかしく思えてくる。
本当にこの人は――おかしな人だ。
「わかりました。でももし……罪に問われるようなことになったら、何も知らなかったことにしてください。そうしないと、姚妃様まで巻き込んでしまいますから」
「じゃあ、君と私は共犯者だ」
志勇は唇に人差し指を当てると、いたずらっぽく笑う。
美雲が志勇の手を解いて歩き出そうとすると、彼は「ああ、ちょっと待ってくれ」と呼び止めた。
「この恰好じゃ、さすがにまずい気がする」
「それはそうでしょうね……」
美雲は思わず真面目な顔をして答える。この恰好で皇后の元に乗り込んでいけば、怪しまれるどころか、恰好の噂の種にされてしまうだろう。
志勇は髪を適当にまとめて簪で留める。そして、長い裳はたくし上げ、帯の中に押し込んでいた。鍛えられた太い脚がくるぶしの辺りまで見えていて、かなり不格好だ。これは、いくら彼の容姿が飛び抜けて整っていたとしても、おかしさはごまかせない。
だが、当の本人は「これで、よし!」と、満足そうな顔で頷いている。
「全然、少しもよくありませんよ!」
美雲は慌てて首を横に振った。ますます怪しさと滑稽さに拍車がかかっただけだ。この姿で、本当に皇后の元に行くつもりだろうか。だとしたら、とんでもなく勇気があるか、評判や人の目に無頓着かのどちらかだろう。
「この方が動きやすいだろう? 女性の衣服というのは、飛んだり跳ねたりするのに向いていないんだ。実は何度も裾を踏みつけて、転びそうになった」
志勇が言う『まずい』というのは、機能性の問題だったらしい。
美雲は目を覆いたくなる。
「し、知りませんよ……途中で、恥ずかしくなっても」
男性用の衣服なんてないのだし、この後宮でその恰好をしているほうが、むしろ問題のような気がしなくもない。となれば、もうこの女装で通すしかないのだろう。
それに、身なりを気にしている場合でもない。できれば、誰にも出会わずに片付けばいいが、そううまくいくかどうか――。
いざとなれば、以前のように後宮に出没する謎の宮女の妖怪か幽鬼の振りでもするしかないだろう。
志勇はかまわず、「さあ、行こうじゃないか」と笑って歩き出す。祭り見物にでも出かけるような気楽さだ。
まったく――。
だが、おかげで少し、肩の力が抜けた。この先に何が待ち受けていようと、この人と一緒だと不思議とうまくいくような気がしてくる。どうにかなると、そう思えてくるのだ。これを、安心感というのだろう。
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