第16話 乗っ取られた体

『…………美…………美雲っ!』


 何度か呼ばれて目を開くと、ぼやけた視界に写るのは志雲の顔だった。返事をしようとしたけれど、声が少しも出せない。

 志雲は『ああ、よかった』と、ほっとしたように息を吐いた。


 泥沼にはまって、ズブズブと沈んでいくような感覚に飲まれ、あがいているのに手足は思うように動かせなかった。

 唇は自分の意思に反して笑みを浮かべ、頬に添えられている志勇の手をするりと撫でる。志勇はそんな美雲に驚いて、戸惑うような表情になる。

 美雲は「ふふっ」と笑い、志勇の首に自分の腕を絡めていた。


 やめて、志勇さんを離して――っ。 

 心の中で必至に言っているのに、体は操られ、抵抗することもできない。

 志勇になんとか気付いてほしくて、何度も叫んでいるのに、声にならず、届きもしなかった。


 乗っ取られた美雲は志勇を引き寄せると、床に押し倒して上になる。髪がスルッとこぼれ落ちて、志勇の頬に触れた。


「ああ、本当にいい男……食べてしまいたいくらい」

 そんな甘い声が美雲の口からこぼれ、ペロッと舌なめずりする。

「ええっと……今日の君は積極的で誘惑されてしまいそうになるんだけど……この場では色々まずいんじゃないのかな?」

 志勇は困惑した様子で、「ほ、他の時にしない?」ときいてきた。


「どうして? 私は今、お腹が減っているの……せっかく出てこられたのに、お姉様ったら、何も食べさせてくれないんだもの。ひどいでしょう?」

「ああ、そうだね。本当にひどい……お菓子があるけど食べる?」

 

 志勇さんっ、そんなことを言っている場合じゃありませんよ!

 早く逃げてください。これは私じゃないんですっ!!

 ああ、どうしたら伝えられるだろう。早く、おかしなことに気付いてほしい。


 志勇もさすがに違和感を覚えたようで、眉根を寄せていた。

「君は……っ!」

 言い終わらないうちに美雲の手が志勇の喉をつかみ、強く抑え込む。

 そのせいで志勇は息ができず、苦しそうに美雲の手首を押さえていた。

「な……に……を……っ!」

「この綺麗な顔だけは残して、取っておいてあげる。腐らないように塩漬けにして、ずーと壺に入れて大切にしていてあげるわ。他の男もそうしたのよ……」

 さらに強く志勇の首を締め上げながら、美雲の唇はクスクスと楽しそうな笑い声を漏らしていた。


「悪いが……悪趣味に付き合う義理は……な……いな!」

 志勇は「恨まないでくれよ!」と断ってから、美雲の体を蹴り飛ばす。転がった美雲の上に、すぐさま馬乗りになっていた。

 美雲はむせるように息を吐き出し、「志勇さん……」とようやく彼の名前を呼ぶ。


 蹴られた衝撃で、ほんの一時、妖怪と入れ替われたようだ。妖怪が『おのれ、小娘!!』と喚いているのが、頭の中に響いている。必至に抵抗しているが、体はまたすぐに妖気の飲まれてしまうだろう。


「美雲……か?」

 志勇が警戒するように訊いてくる。美雲は頷くと、体を起こして自分の帯を急いで解いだ。

「待ってくれ。こ、こんなところで脱ぐのはまずい! 主に……私が……」

 美雲は「違いますってば!」と、はだけそうになる衣の襟を押さえ、帯を志勇に渡す。

「縛ってください……早くっ!」

「君に……そんな過激な一面があったなんて知らなかったな。いや、もちろん、嫌いだなんて少しも思わないよ。むしろ……わりと好きなほうなんだけど……」

 赤くなってブツブツ言っている志勇に、「乗っ取られているんです!」と強く言った。志勇はハッとしてすぐに真顔になり、言われた通りに美雲の腕に帯を巻き付けてしっかりと縛る。


「乗っ取られたって……なにがあった? どうすればいいんだ?」

「姚妃様の部屋に……連れていってください……」 

 一瞬、志勇は警戒ように眉根を寄せていた。今の美雲の言葉と行動が、妖怪によるものなのか、美雲自身の意思によるものなのか、判断ができなかったのだろう。 

 それは当然だ。


「お願いです……っ、志勇さん」

 信じて――。

 信じてもらう他に、どうすることもできない。


 志勇は膝を立てると、美雲を横抱きにして立ち上がった。

「信じているとも……」

 志勇は呟くと、美雲を抱えて部屋を出る。

 ぐったりしている美雲を抱えながら、志勇は姚妃の寝所に向かって走り出した。

 

 

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