第15話 闇に飲まれる
意識が戻った美雲が薄らと目を開くと、灯りが見えた。
数人の話し声が聞こえてくる。空き部屋の門の封印が破られて、中に連れ込まれたことを思い出したところで、ようやく頭がはっきりとした。
「誰……っ!」
口を開いた途端に、顎をつかまれてグイッと顔を上げさせられる。頬に長い爪の先が食い込み、その痛みに眉根を寄せた。
目の前にいる人を見て、「こ、皇后……様?」と美雲は驚きの声を漏らす。
後には宮女が控えている。だが、誰もが人形のように無言で立っているだけだ。生きている人の気配がしない。そのことに気付いて、ゾッとする。
「ただの宮女ではあるまい。お前からは、道士や僧呂と同じ匂いがする……」
皇后は息がかかるほど近くに顔を寄せながら、美雲の頬を引っ掻くように爪を滑らせる。痛みが走り、頬を滴が伝う感触がした。皇后は爪の先についた血を、笑みを浮かべた唇でペロッと舐める。
「お許しください。後宮に慣れず、夜道で迷ってしまいました……」
美雲は声を震わせながら答える。妖気が強すぎて、金縛りにでもあったように手足が思うように動かなかった。
寝台の支柱にくくり付けられていることはわかる。部屋は長く使われていなかったせいか、壁はひび割れ、床は腐って穴が開いていた。天井は蜘蛛の巣が張り、その糸が垂れ下がっている。
「地獄の閻魔は、嘘を吐く者の舌を抜くと言う。では、妾もそれにならい、そなたを同じ方法で罰してやろうか?」
ぐっと強く顎をつかまれ、支柱に押しつけられる。美雲は出そうになった声を呑み込み、歯を食いしばった。
妖怪が封じられた壺を持ち込んだのは皇后だったということなのだろうか。だが、それ以外に皇后がこの空き部屋にいる理由が思いつかなかった。
「なぜ……このようなことをなさるのです……皇后様ともあろうお方が」
「なぜ? 妾は奪われたものを取り戻したいだけよ。妾が手に入れるはずだった全てのものを、あの薄汚い女が盗み取っていった。あの女がいなければ、陛下の寵愛を得るのも、世継ぎをなすのも妾だった!! あの女が世継ぎを産めば、陛下は皇后の地位すら取り上げ、あの女に与えかねない。そうなれば……妾は、この後宮で惨めに、嘲笑われながら、死にゆくだけよ……そんなことは、絶対に許さない。だから、妾はあの女を葬り去りたいだけ。そうすれば、陛下はまた、妾の元に戻ってきてくださるもの。そうでしょう?」
美雲を覗き込み皇后の瞳は暗く澱み、醜悪な笑みが浮かんでいた。
「姚妃様はなにも奪ってはおりません……陛下の皇后様への寵愛も変わってはおりません。それなのに、なにを恨む必要が……っ」
「うるさいっ!! お前のような小娘に何がわかる!!」
皇后がパンッと頬を引っぱたく。その痛みに、美雲はギュッと目を瞑った。
「ああ、そうだ。そなたに一つ、役目をやろう……この宮中に入り込んで、陛下の心を惑わす女狐の妖怪を一匹始末すればよい。道士なのだから、妖怪退治は得意であろう?」
「何を……おっしゃっているのか……っ」
髪を引っ張られた美雲は、近く寄った皇后の顔を真っ直ぐに見える。
皇后は髪から手を離すと、姿勢を戻して背を向けた。
無言で控えていた侍女たちが美雲のそばにやってきて、その腕や頭を無理矢理押さえつける。抵抗しようとしたが、お香の匂いを嗅がされると意識が朦朧としてきて、腕にも力が入らなくなる。美雲は強く唇を噛んで耐えようとした。
皇后は長椅子に優雅に腰をかけ、頬杖をついて眺めている。まるで、余興でも見物しているような楽しげな表情だ。
ズルッ、ズルッとなにかを引きずるような音がして、美雲はビクッとする。
ゆっくり視線を移すと、暗い奥の部屋から覗くのは女の顔だった。それは、蛇の体をくねらせながら、近付いてくる。全身からは、妖気が黒い煙のようにユラユラと立ち上っていた。
それが、美雲の脚や腕まで伸び、絡みついてくる。逃げなければと頭の奥ではぼんやりと考えているのに、体が少しも言うことをきかない。必至に頭を振るのが精一杯だった。
姚妃を排除したいがために、妖怪を利用するなんて正気ではない。皇后自身にも呪詛は跳ね返り、その身も無事ではない。それは、皇后もわかっているはずだ。わかっていても、相手を恨まずにはいられなかったのだろう。幸せになれぬなら、憎む者も共に地獄に引きずり込もうとしている――。
ずいっと寄ってきた女の口から、毒気を含んだ息が吐き出される。
「道士の体は、さぞや甘美な味がするだろうね」
そんな声が耳元で聞こえた。蛇女の体は徐々に崩れて黒い煙に変わり、美雲の全身を飲み込んでゆく。
(誰が……志勇さん……志勇さん……っ!!!)
無意識に助けを求めながら、美雲は脚をばたつかせた。必至に口を閉じていようとするのに、黒い煙に顔まで覆われれば息ができない。思わず口を開いた瞬間、それは体の中に容赦なく入り込んできて、美雲はあまりの苦しさに悲鳴を上げた。
腕や足を縛る縄が解かれ、押さえつける手が離れると、体が傾いて床に倒れる。
その後のことは、何も思い出せなかった――。
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