第14話 大切な人

 志勇が初めて廟にやってきた日のことを思い出しながら、美雲は鏡の前に座り、櫛で髪を梳かす。あの日の志勇は、魂が抜けてどこかを彷徨っているような様子だった。そう――あのまま、放っておいたら川にでも飛び込んで、死んでしまいそうに見えた。それほどに、志勇の表情には絶望と失意の色しか浮かんでいなかった。


 大切な人をなくしたのだ。志勇ははっきりと言わなかったけれど、そう見えた。

 それも、自分を見失ってしまいそうになるほど、大切な人を。


(それって、姚妃様のことだったのかしら……)

 櫛で梳かす手が、途中で止まる。机の上に座り、干した杏を頬張っていた雷辰が、「なぁ、師姉。師姉ってば」と呼んでいることに気付いてハッとする。

「なに? どうかした?」

 雷辰は「聞いちゃいない」と、呆れていた。


「そろそろ、廟に戻ってやらないと、きっと小桃が寂しがって泣いてるぞ。いつまで、こんなところであいつの用事に付き合ってやるんだ」

「そうは言っても、妖怪を退治しないことには帰れないでしょう? 明日にはあなたが戻って、小桃のそばについてあげてちょうだい。私はもう少し帰れないけど、心配しないように言ってね」

「おいらがいないと困るのは、小桃じゃなくて師姉じゃないか」

「私は大丈夫よ。志勇さんも……」

 美雲は唇を閉じ、鏡に映る自分の顔を見つめる。


 あの人を、今までのように頼りにしていいのだろうか。皇帝の弟なんて立場の人だ。今までは何も知らなくて、ただのどこかのお金持ちの家の若君だと思っていた。だから、話しやすくもあり、ついあの人の冗談につられて、こちらも気安く接していた。

 急にあの人の存在が遠く感じられて、胸に寂しさのようなものが過る。

 美雲は「変ね……そんなことを思うなんて」と、呟いた。

 ただの依頼主で、親しい知り合いというわけではない。

 

「何を考え込んでるんだ? 師姉は、このところちょっと変だぞ。それも、あいつが来てからだ」

「ただ、気になるだけよ……」

 志勇が失ってしまった大切な人というのは、姚妃のことだったのだろうか。

 だが、姚妃は志勇の兄である皇帝陛下の妃だ。そんな人に、密かに想いを寄せていたのだとしたら、それは苦しい恋だろう。誰にも打ち明けることもできない。もちろん、姚妃にもだ。伝えれば、姚妃の心を惑わせてしまうことになる。

 それで、未練を断ち切りたくて、月仙廟にやってきたのか。

(でも……姚妃様が陛下の妃になられたのは、ずっと前でしょう?)

 

 姚妃が子を宿したことを知ったから? 

 だからもう、想い続けるのはやめようと思ったのかもしれない。

 楼で話していた志勇と姚妃の姿がはっきりと浮かんできて、胸が苦しくなる。この苦しさは、片想いの志勇の苦しさを想像したからだ。どれほど愛しても報われることがないなんて、辛いにきまっているから。〝私〟の感情ではないと、美雲は痛みが消えない自分の胸に言い聞かせる。

 

「縁結び廟の道士なのに、恋のことも、結婚のことも、私にはわからないことだらけだわ……」

 美雲は独り言を漏らして、ため息を吐いた。

「師姉は誰かと結婚したいのか?」

 雷辰に訊かれて、美雲は「まさか!」と驚いて答える。

「私は誰とも結婚なんてしないわ。師父の言いつけ通りに、廟を護っていくだけよ」

 それが、拾って面倒を見てくれた師父に対しての恩返しでもある。


「それならいいけどさ。師姉があんなやつと結婚しちまったら、おいらも小桃も、置いてけぼりにされちまう」

 雷辰が不安そうに言うので、「そんなことは、絶対ないわよ」と笑った。

 

(ただ、志勇さんにも、姚妃様にも幸せになってほしいだけ……)

 目を伏せてから、美雲は櫛を置いて立ち上がった。羽織を肩にかけて、部屋を出ようとすると雷辰が「こんな夜更けにどこに行くんだ」と、心配そうに尋ねる。

「ちょっと、あの空き部屋の門を確かめてくるだけよ。また、封印の効果が薄れているかもしれないでしょう?」

「それなら、おいらも行くぞ」

「ダメよ。私がいない間、姚妃に何かあれば困るでしょう。ここで見張りをしていてちょうだい」

 雷辰は「ちぇっ!」と、不満そうに頬を膨らませる。「頼りにしているんだから、しっかりね」と、言い聞かせて提灯を手に外に出た。


 人気のない暗い後宮の通路を、灯りで足下を照らしながら歩いていく。

 空き部屋の近くまできた時、不意に背後に人の気配を感じて振り返った。その瞬間、首に縄がかけられ、後に体が引っ張られる。咄嗟に縄の隙間に手を入れて締まるのを防ごうとしたが、手首をつかまれ押さえ込まれた。口の中に手巾が押し込まれ、声も出せない。

 

(な、なに……っ!?)

 美雲は息ができず、抵抗する手や脚にも力が入らなくなった。

 

 ぼやけていく視界の中で見たのは、黒い服を着た人たちが空き部屋の門を開く姿だった。その門を開けてしまえば、中にいる妖怪が外に出てしまう。止めなければと思うのに、意識が遠のき、膝から崩れるように倒れた。


 


 


 

 

 

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