第13話 素性
庭園の楼は風が心地よく吹き、鳥の声が聞こえてくる。姚妃は石の椅子に腰を掛け、宮女の高佳林が差し出したお茶を飲んでいる。謝杏と共に隅に控えた美雲は、視線を少し上げて姚妃の右腕を見た。袖に隠れているが、その腕には包帯が巻かれている。妖怪が残した印は、まだ消えてはいない。
姚妃には腕の印のことも、妖怪に狙われていることも、二人だけの時に告げた。不安にさせたくはないが、姚妃自身が知っておかなくては身を護りようがない。美雲の話を黙って聞いていた姚妃は、『そうですか』と答えると、この印のことについて、この印はいずれ消えるものなのか、どう対処すればいいのか、お腹の子には影響があるのか、冷静に尋ねてきた。
強い人だと思う。本当なら、怖れて当然だ。それとも、お腹の子のために、強くあらねばならないと気丈に振る舞っているのか。
(私がお守りしないといけないんだわ……)
美雲は前で合わせた自分の手を密かに強く握る。正直、美雲にもあの妖怪の印が、お腹の子にどれほど影響があるのかわからない。師父なら適切な対処の方法がわかっただろうが、美雲はまだ経験が浅い。昨晩のことも、志勇がいてくれたからなんとか対処できたようなものだ。一人では難しかっただろう。
(志勇さんばかり、頼りにするわけにはいかないわよ)
美雲はプルプルと首を横に振る。ふと、庭園に目をやると、華やかな傘を差した宮女たちが歩いていた。その輿が急に止まり、宮女たちも一斉に足を止める。
宮妃の一人だろうかと見ていると、輿に載っていた女性が楼を見上げる。遠いため、その表情までははっきりと見えない。姚妃も女性に気付いたようだった。
(誰……?)
女性は輿を降りて、楼の方へとやってくる。宮女たちも慌てて後に続いていた。
「皇后様……っ!」
ハッとしたように呟いたのは謝杏だ。美雲は「え?」と、階段を上がってくるその女性を見る。だが、すぐに膝を曲げて頭を下げた。宮女の自分が、皇后の顔をまじまじと見るなど無礼なことだ。
姚妃は湯飲みを置き、スッと立ち上がって拝礼していた。
(こ、皇后様……)
下を向いている美雲には、前を通る皇后の刺繍を施した履しか見えない。
「妾を見下ろせるほど、いつの間に偉くなったのかしら? 姚妃」
「皇后様がいらっしゃるとわかっていれば、私からご挨拶に向かいましたものを」
「聞こえなかった? 膝をつけと言ったのよ」
皇后の苛立つ声に、その場の宮女たちも緊張して硬くなっている。
美雲が頭を下げたまま視線だけ上げると、皇后は姚妃を睨み付けていた。
無言になった姚妃は、ゆっくりとその場に膝をつこうとする。
「姚妃様……っ」
思わず漏らした声が皇后の耳に届いたのか、皇后は不快そうな顔をして振り返る。
しまったと、美雲はすぐに口を噤んだ。姚妃の体のことが心配だったのだ。
そばにやってきた皇后は、いきなり手を振り上げ、美雲の頬を平手打ちする。その痛みをぐっと耐え、ふらつきそうになった体勢を戻した。
「お許しください、その者はこの後宮に入ったばかりなのです」
姚妃がついた膝をわずかに浮かせる。
「そう。入ったばかり……では、躾なければね。妾の前で許しなく口を開くとどうなるか……っ!」
再び手を振り上げる皇后に、美雲は身を竦めてギュッと目を瞑った。
「どうなるというのでしょう。私もお聞きしたいですね」
耳に入った声に、ハッとして目を薄く開く。それは志雲の声だった。
(まさか、こんな時に宮女の恰好で……っ!?)
夜ならいざしらず、明るい昼間に宮女の恰好で現れたら不審者としてすぐに捕まってしまうだろう。ギョッとして視線を上げたが、階段を上がってくる志雲は男の服装だ。美雲は驚いて言葉が出ない。
皇后は振り上げていた手を下ろすと、忌々しそうな表情を浮かべていた。
「宮殿に寄り付きもしないそなたがいるとは珍しい……何用です?」
「たまには、義姉上にご挨拶をしようと思いまして。ご機嫌、いかがです?」
涼しい顔で答える志勇に、美雲は思わず出そうになった言葉を飲み込んだ。
(義姉上……っ!? と、いうことは……志勇さんは……っ)
皇帝陛下の弟、ということになるだろう。確かに、今の陛下には弟君がいると聞いたことがある。だが、それがどんな人で、名前が何かなんて知るはずがない。通りで、姚妃と親しいはずだ。
(だけど……なんて人なの!?)
それを今まで隠していたなんて。志勇のことだから、きっと面白がって黙っていたのだろう。美雲は、志勇のことをギッと睨んだ。それに気付いた志勇は、すっかり目が笑っている。
ここは、後宮に隣接している庭園だ。だから、皇族なら立ち入りはできるのだろう。宮殿に寄り付かないと皇后に言われていたが、夜中に宮女の変装をして忍び込んだりはしているのだから呆れた人だ。
「ところで、どうして姚妃は膝などついているのです?」
志勇はすぐに彼女のそばにいき、手を取って立たせていた。
「さあ、知りませんよ。よろめいたのでしょう。まったく気の利かない宮女ばかり連れていること」
皇后はふんっとそっぽを向いて白々しく答える。姚妃は志勇につかまっていた手をすぐに引っ込めて、目を伏せていた。
「皇后様のおっしゃるように、私が少々ふらついてしまっただけなのです」
「それはいけない。座ったほうがよいでしょう。ああ、そこのかわいい君。姚妃にお茶を差し上げてくれ」
志勇が指名したのは美雲だ。わかっていて、わざとやっているのだろう。
だが、志勇が来てくれなかったら、どんな罰を受けていたかわからない。
(一応は……助けてくれたんだもの。つれなくしてはダメね)
美雲はため息を密かについて、「承知いたしました」と進み出た。
志勇は姚妃を座らせた後、「義姉上も一緒にいかがです?」と尋ねる。
「けっこうです。どこの娘とも知れない宮女のいれたお茶など、飲めるものですか」
「そうですか? その者を姚妃に推薦したのは私なのですがね」
かわりに遠慮なく椅子に腰を下ろした志雲は頬杖をついて、脚を組む。皇后の前であっても少しも遠慮なしだ。不敵な顔で微笑んでいる。さすがの皇后も、皇帝の弟が相手は文句を言えないのだろう。
(志勇さん、あまり皇后様を挑発しないでほしいんだけど……)
睨まれながらお茶をいれるのは気まずい。緊張して失敗してしまいそうだ。美雲は表情にあまり出さないように気をつけながら、慎重にお茶をいれる。それを、高佳林も、謝杏もヒヤヒヤした様子でうかがっていた。
「……あなたが? いったい、どこの家の娘なのです?」
「さる家柄の礼儀正しいお嬢さんですよ。事情があって、しばらく姚妃のもとで行儀見習いをしているのです」
志勇の言葉に、美雲は湯飲みに注ぐお茶をこぼしそうになる。急いで姚妃と志勇にお茶を差し出すと、謝杏や高佳林の隣に戻って小さくなった。宮女たちも、美雲をチラチラと見ている。皇帝の弟直々の推薦と聞いて、驚いたのだろう。
「ならば、後宮での振る舞い方をしっかり教えるのですね。主人に恥を掻かせることになるのですから」
皇后は怪しむような目を美雲に向けた後、自分の宮女を引き連れて楼を下りていく。皇后を乗せた輿が立ち去るのを見届けると、ようやく張り詰めていた空気が緩んだ気がした。
「義姉上になにか不快なことを言われてはいませんか?」
「もしそうだとしても、私が至らぬからでしょう……」
姚妃は表情を変えずに答える。志勇は少し困った顔でため息を吐いていた。
下がっていいと言われ美雲は、謝杏や高佳林と共に一礼して階段を下りていく。
振り返ると、姚妃と志勇は楼の屋根の下で談笑している。姚妃が微笑むところなど、皇帝と話している時以来、見ていない。それだけ、気を許しているのだろう。
美雲は袖を引っ張られて、顔を前に向ける。
「あなた、楚汪君の推薦で宮女になったの!?」
声を小さくしながらも興奮気味にきいてきたのは、謝杏だ。
「通りで、姚妃様があなたを信頼されているはずだわ」
高佳林も美雲の腕を取り、納得したように頷いている。
「私はよくは存じ上げないのよ……その、お父様の知り合いだから」
「そうなのね! 羨ましいわ……私の家なんて、ただの商家よ?」
「あら、いいじゃない。お金持ちなんだから」
「佳林の家のお兄さんだってすごいじゃない。今年から、官吏になったのでしょう?」
「ようやくね。でも、きっと出世なんてしないわよ」
楽しそうに話す二人の間で、美雲はぎこちなく微笑んでいた。
(本当は……私はただの道観の道士なんだけど……)
それにしても、志勇が皇帝の弟君だなんて――。
これからは、今までみたいに気楽に話せない気がした。
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