第12話 一体目の妖怪

 暗い後宮内の通路を走りながら、美雲は襟元に挟んでいたお札を取り出し、それを鳥の形に折る。小さな小鳥だ。

「それは?」

「妖気を辿るんです。うまくいけば、妖怪のいる場所まで導いてくれるかも」

「すごいな。道士っていうのは、そんなことまでできるのか」

 翼をぎこちなく動かしていたその紙の小鳥は、浮かび上がると風に乗って飛んでいく。それを目で追いながら、「こっちみたいです!」と通路を曲がった。


 紙の小鳥は暗がりの中で、ともすれば見失ってしまいそうになる。いくつか角を曲がったところで、急に袖をつかまれて木の陰に引っ張り込まれた。

 驚いて「なにを……っ」と言いかけたところで、志勇の手が口を塞ぐ。


 息を潜めていると、通路の先が明るくなり、提灯を手にした警備の者たちがやってきた。志勇が先に気付かなければ、鉢合わせしてしまっていただろう。

「まったく、薄気味が悪い夜だな……そういえば、聞いたか? 宮女の幽鬼が出たらしい」

「皇后様のお怒りに比べたら、宮女の幽鬼などかわいいもんさ」

「違いない。逆らえば、私たちの方が縊鬼にされるからな」

「そうすれば、宮女の幽鬼とよろしくやれるじゃないか」

 そんな会話をしながら、警備の者たちが十字になった通路を歩いていく。

 声が遠ざかると、志勇の手が離れ、ようやく息を吐き出すことができた。


「後宮には、妖怪だけじゃなく、宮女の幽鬼まで出るのか」

 志勇は驚いたように呟いている。美雲が思わずその横顔を見ると、彼もこっちを見る。

「なんだ?」

「いいえ……それより、小鳥を見失ってしまいました。どこに……」

 空を見上げて姿を捜していると、不意に悲鳴が上がる。先ほどの警備の者たちの声だ。美雲は志勇と視線をかわし、すぐに駆け出した。


 通路の角を曲がったところで、警備の者たちが腰を抜かしている。紙の小鳥が、ここだと場所を知らせるようにパタパタと宙を旋回していた。水路のそばに大きな柳の木が植えられており、その幹に蛇の胴体がぐるっと巻き付いている。

 枝の上から顔を覗かせているのは、あの蛇女だ。大きく裂けた口から、人の体が半分覗いている。まだ、生きているのか、飲み込まれまいと必死にもがいているようだ。

 

 他の者たちは、飲み込まれそうになっている同僚を見て震え上がり、動けずにいるようだ。まして、助けることなどできないのだろう。


「この妖怪は……偏食しないらしい」

「見ている場合ではありませんよ! 助けないと……っ!」

 あのままでは、丸呑みにされてしまう。

 あ然としていた志勇も、「あ、ああ、そうだな」と我に返ったようだ。


 美雲は指笛を吹いて、呪文を唱えた。。宙を飛んでいた紙の小鳥はパッと炎をまとうと、通路いっぱいにいとぐろを巻いている蛇女の妖怪に向かって降下していく。体当たりした紙の小鳥は灰となって散り、その炎が妖怪の全身に燃え広がった。

 

 妖怪はその熱と炎に焼かれて絶叫し、口から飲み込もうとしていた人を吐き出す。粘液のようなものにまみれたその人は、苦しそうにむせてはいるが無事のようだ。

 

「こざかしい道士の小娘が……邪魔をするな!」

 蛇女はしゃがれた声で罵りながら、ずるっと胴体を動かす。


「何をしている。その者を連れて離れろ!」

 志勇の声で、警備の者たちは金縛りが解けたように動き出した。うつ伏せに倒れている同僚の一人の足をつかむと、引きずりながら逃げていく。見捨てなかっただけは立派なものだろう。

 

「この妖怪は、姚妃を狙っていたんじゃないのか?」

「空腹になれば、見境なく誰でも襲いますよ。妖怪も獣も同じです」

「なるほど。ちょっとした〝おつまみ〟だったというわけだ」

「ええ、このままでは私たちがその〝おつまみ〟されてしまいますよ。志勇さん、武器になるようなものは持っていますか?」

「ああ、待ってくれ……探してみよう。確かなにか……」

 志勇は大きく膨らんでいる自分の胸元に手を突っ込んで、中に詰めていたものを取り出す。

(そんなところに武器をしまっているようには見えないけど……)

 

「これは、お菓子の巾着。こっちは、饅頭。それから……ああ、そうだ。干した棗に、豆菓子もある」

「どうして、そんなに食べ物ばかり隠しているの!」

 呆れて言うと、「君と食べようと思ったんだ」と志勇は肩をすぼめる。それから、「あっ、他にもあった」と、小瓶を取り出してきた。

「いい香りのする香水を買ってきたんだ。なかなか手に入らない珍しい薔薇から摘出した最高級な香水だそうだ。きっと、君に似合う」

「薔薇の……香水……」

 美雲はがっかりして、口の中で繰り返す。何も、役に立ちそうなものがない。

「……試しに嗅いでみる?」

 志雲はこの場で瓶の蓋を開こうとする。

 

「わ、わかりました! もういいです。志勇さんは、これを使ってください」

 美雲は自分の懐から、桃木の短剣を取り出した。指先をわずかに切って、そのこぼれる血で刃に北斗七星の図を描くと、短剣の刃が光を帯びて鋼の長剣に変わる。

 びっくりして見ている志勇の手に、その剣を押しつけた。


「その剣は、人は斬れません。本来はただの木剣なんです。相手が妖怪や幽鬼であれば効果を発揮します」

「君は、どうするんだ?」

「私は妖怪を注意を引きます。長くは動きを抑えてはおけないので、その間に志勇さんはその剣で首を断ちきってください。あなたの腕なら、できるでしょう?」

 志勇がどれほど強いのかは、美雲は知らない。だが、空き部屋から逃げ出す時の身のこなしを考えれば、武術の心得は多少なりともあるだろう。この桃木の剣を志勇に渡したのも、自分より彼のほうが扱えると思ったからだ。


「それは、なんとも素敵な役回りだ。ご期待に添えるようにやってみよう。失敗しても怒らないでくれよ?」

「失敗したら、怒る前に私たちはあの妖怪のお腹の中ですよ」

 志勇の冗談にもそろそろ慣れてきて、軽く受け流す。


 蛇は体の炎が消えると、黒い煙がくすぶる胴体をくねらせ、ジリジリと寄ってくる。長い舌を出して笑う姿は、なんとも不気味でぞっとした。

 こんな時に、雷辰がいてくれたら心強いが、姚妃の護衛の役目を言い渡してある。呼び寄せるわけにはいかない。姚妃のそばを離れた隙に、この前のようにまた別の妖怪が寝所に入り込むかもしれない。

 

 美雲は少しずつ後退しながら、「志勇さん」と彼の袖を引っ張った。

「ん? 怖くなったのなら、抱きついてくれてもかまわないよ」

「馬鹿なことを言わないでください。さっきの香水、ありますか?」

「これをどうするんだ?」

 志勇が一度は胸元にしまっていた香水の小瓶を取り出す。美雲は「もらいます!」と、小瓶をつかんで走り出した。

 小瓶の蓋を開き、ぬっと近付いてきた妖怪の目に中身を勢いよくぶちまける。視界を奪われたのか、蛇は「ぎゃあっ!」と声を上げて顔を引っ込めた。


 飛び上がった美雲は袖の中に入れていたお札を取り、空中で宙返りしながら蛇女の上からばらまいた。呪文を唱えようとした瞬間、蛇の尻尾が襲いかかってきて脚に巻き付く。地面に叩きつけられそうになり、歯を食いしばった。


「し……志勇さんっ!」

 思わず、助けを求めるように叫ぶ。その声を聞くよりも早く動いていた志勇は、襲いかかる蛇女の頭を蹴って飛び上がると、クルッと剣を回して持ち直し、その首を真上から刺し貫いていた。

 

 脚に絡みついていた尻尾の力が弛み、美雲の体がガクッと下がる。そのおかげで、叩きつけられる前に転がって逃げることができた。すぐに立ち上がった美雲は、息を吐いて後退りした。

 剣で串刺しにされた蛇女は、逃れようと悲鳴を上げ続けながらのたうち回っている。

 

 志勇は「さて、片づけようか」と、余裕の表情で蛇の首から剣を抜こうとする。美雲は「待って!」と、焦って声を上げた。妖怪の揚力はまだ弱まっていない。剣から逃れた蛇が、志勇に食らいつくかもしれないと思ったのだ。


 だが、志勇はかまわず剣を抜くと、襲いかかる蛇の首をストンと斬り落とす。その鮮やかな剣裁きを見て、美雲は力が抜けたように座り込んだ。いくら破邪の剣といはいえ、修行を積んだ熟練の道士でもこうはいかない。


 悲鳴を上げる間もなく胴と首を切り離された妖怪の赤黒い血が流れ出し、残っている妖気が黒い煙となって、悪臭を放ちながら通路に広がっていく。

「ひどい匂いだ。さっきの香水、まだ残ってる?」

 志勇は袖で鼻を押さえながらそばにやってくると、美雲に手を貸しながらきく。

「……ごめんなさい。空っぽです」

 美雲は放心状態で答え、彼の手を借りて立ち上がった。それに香水くらいでは、この匂いは消えないだろう。

 お札を襟の中から取り出し、火を灯して血だまりに放り込む。不浄なものを浄化する炎だ。その炎で焼かれた妖怪の胴体や血は、灰に代わって風に流されていった。しばらくすると、悪臭も消えて夜の澄んだ空気が戻る。


 残っているのは、蛇女の頭だけだ。美雲はそのそばにしゃがんで、額にお札を貼る。途端に頭は崩れるように砂に変わり、中から壺のようなものが現れる。砂を払って取り出してみると、罅割れたひどく古い壺だった。

 

「それが妖怪の正体なのか?」

 そばにやってきた志勇は、薄気味悪そうな顔をしていた。

「妖怪を封じていたのでしょう。その封印が破られてる」

 壺の表面には、何枚ものお札が貼られていたようだ。それが剥がされた跡が残っていた。破れ目からして、最近だろう。

 美雲が蓋を開こうとすると、志勇が焦ったように両手で上から押さえてきた。

「ここで、開くのか!?」

「中身はもう抜け殻です。何も出てきませんよ」

 美雲は志勇の手を退けると、腐りかけの縄を解いて蓋を開いた。「うわっ!」と、志勇は身を庇うようにして後に逃げている。だが、何も出てこないとわかると、恐る恐る横からのぞき込んできた。

 あっという間に剣で妖怪の首を落としてしまった人には思えない。あれだけの腕があれば、妖怪など怖れる必要もないだろうに。

(本当に、おかしな人ね……)

 

「な、なにが入ってるんだ?」

 壺をのぞき込んでいた美雲は顔を上げて、真横にいる志勇を見る。

 地面の上で壺をひっくり返すと、干からびた蛇の死骸と、人骨のようなものが出てきた。それも、骨の色が妖気を吸い込んで真っ黒に変色してしまっている。

 志勇は口元を袖で押さえ、「見なければよかった」と顔をしかめていた。


「この中には一体分の蛇しか入っていない」

「と……言うと?」

「あと二体分、これと同じようなものがどこかに埋まっているか、隠されているはずなんです」

「まさか、それを今晩中に見つけようなんて、言い出さないだろう?」

「言いませんよ。手持ちのお札も切れてしまいましたし」

 二体の妖怪は今晩、動く様子はない。美雲ももう戦う気力など残っていなかった。

 志勇も、「よかった……」と、安堵の表情で肩の力を抜いている。


「私は部屋に戻ります。志勇さんも、早くここを立ち去った方がいいですよ」

 美雲は骨と蛇の死骸を壺に戻し、しっかりと蓋をしてから布でくるむ。妖怪はもう現れないとはいえ、これだけ妖気が強く残っていれば、他の妖魔を引き寄せかねない。封じ直して、浄化しておく必要があるだろう。


「美雲」 

 名前を呼ばれて、美雲はドキッとして足を止める。

 振り返ると、志勇は暗い夜道の真ん中で美雲を見つめていた。ふざけている時の顔とはまったく違う、真面目な顔つきになっていた。

「姚妃のことを頼むよ……あの方は……私にとっても大事な人なんだ」

「ええ……わかっています」

 美雲は背を向けて、壺を抱えたまま駆け出した。


『――大事な人なんだ』

 

 

  



 

 





慌てて立ち上がり、倒れている仲間を引きずるようにして逃げ出した







「それより、小鳥を見失ってしまったじゃないですか!」

「見つかるとまずいだろう? 君も、私も」

 美雲と志勇は小声で話しながら、急ぎ足で紙の小鳥の姿を捜す。

 

 不意に悲鳴が聞こえ、二人は思わず立ち止まって顔を見合わせた。

「さっきの者たちか」

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