第10話 刻印

 夜、部屋に戻った美雲は、鏡台の椅子に腰掛けて、丁寧に髪をといていた。その時、窓がカタカタと揺れてわずかに開く。風で開いたのだろうか。振り返り、立ち上がって窓のそばまでいくと、「師姉!」と声がする。ぴょんと飛び込んできた雷辰を、両手で受け止めた。


「雷辰! どうしたの? 小桃も一緒?」

「小桃のやつが眠っている隙に抜け出してきたんだ。あいつときたら、師姉がなかなか帰ってこないものだから、ビスビス泣いてうるさいんだ」

 雷辰は美雲の手の上であぐらをかいて、顔をしかめる。

 美雲は風の吹き込む窓を閉めてから椅子に戻り、鏡台に雷辰を下ろす。

「ごめんなさい。思いがけず、長くなりそうだったのよ」

 美雲は連絡をしていなかったことを思い出し、「悪いことをしたわ」とため息を吐いた。雷辰はともかく、小桃はさぞかし不安がっていただろう。


「廟の方はどう? 困ったことはなかった?」

「そんなもん、あるわけがない。毎日、暇で退屈なんだ。面白いことなんて、一つも起きやしない。近所のじいさんやばあさんが毎日やってきて、庭を掃いたり、花の世話をしたりしているよ。お供えの果物を持ってきてくれるから、小鬼どもが入り込んでくるんだ。そいつらを追い払うくらいしか、仕事がありゃしない!」

 美雲が差しだした菓子を抱えて食べながら、雷辰はつまらなそうに言う。ボロボロとカスがこぼれ落ちていた。

 聞く限り、とくに問題もなく廟はいつも通りに平穏なんだろう。


「何も起こらないなんて、いいことじゃない。それと、小鬼をあまりいじめてはダメよ。お供えものは、少しくらい分けてあげればいいんだから」

「そんな甘いことを言っていると、あいつら廟にすみつくぞ! そうすれば、貧乏廟がますます貧乏になる。しかも、我が物顔で仲間を呼んでくるんだ!」

「それでいいのよ。師父だって、そう言っていたじゃない」

「なぁ、師姉。いつ戻るんだ? 師姉がいないと、お客だってやってこないじゃないか。昨日から、結婚したいってやつが何人もやってくるんだ。師姉に占ってほしいって。普段はとんとやってこないくせに、師姉が留守の時に限って大繁盛だ!」

「あら、そうなの? そのお客さんに、失礼なことをしなかった?」

 美雲はお茶をいれて、雷辰の前に置く。湯飲みが大きいから、抱えて飲むのは大変そうだ。途中で諦めたのか、湯飲みに直接顔を突っ込んでいる。湯はとうにさめているから、熱くはないのだろう。ただ、顔はビシャビシャだ。


「失礼なことなんてするわけがない。ちゃんと師姉はいないからよそに行けって、追い出してやったぞ」

「それが失礼なことって言うのよ。まったく、他に言い方があるでしょうに」

 ため息を吐いて、雷辰の顔を手巾で拭いてやる。戻ったら、留守の間に占ってもらってきた人たちが続々やってくるだろう。それはそれでありがたい話ではあるが、このお役目がいつ終わるのかわからない。

 

「ここはひどいところだな。そこかしこ、幽鬼が歩き回っていて、妖気が漂ってる。こんなところに長くいたら、気が滅入って病気になっちまうぞ。陰気が強すぎて、俺だって途中で目が回りそうになったくらいなんだ」

「そんなにひどく妖気が漂ってる?」

 美雲はふと眉根を寄せて尋ねた。人である自分よりも、精怪である雷辰の方が妖気に敏感で、強く感じることができる。確かに、ぼんやりとした幽鬼の姿は見かけたものの、妖気が漂っているのは妖怪が出没するあの空き家の近辺だけに限られていると思っていた。


「どこもかしこも妖怪くさいぞ。師姉は鼻が悪いから、平気なんだ」

 雷辰は鼻をつまんで、くさそうに匂いを手で払う。

 美雲は少し考えてから、自分の衣の匂いを嗅いでみる。妖怪の匂いがしみついているのかと思ったのだ。だが、あまり感じない。よいお香のにおいがほんのりするだけだ。


「三日ごとに……って、志勇さんは言っていたわね。どうして三日ごとに現れるのかと思ったけど。そのたびに、少しずつ……何かの封印が解けているのではないかしら。そのせいで、妖気が強まっているのかも」

 独り言をもらしながら、考え込む。となれば、考えられるのはあの妖怪はどこからか紛れ込んで後宮にすみついたものではなく、この宮殿のどこかに、誰か――おそらく、僧呂か道士だろうが――が封じていた妖怪なのかもしれない。


「そうでなければ……」

 他の可能性があるとすれば、何者かが故意に妖怪をおびき寄せたか、あるいは放ったかだ。どちらも、悪意ある者の仕業であることは間違いない。だが、そんなことをいったい、誰がなんの目的で行ったのだろう。


「良くないわね。この感じ……」

 まるで、蛇の巣穴にズルズルと引きずり込まれているような気がする。美雲は額に指を添えて、トントンと叩く。考えがうまくまとまらない時によくやる癖だ。

「なぁ、師姉。もう、こんなところにいるのはやめて、戻ってきてくれよ。きっと、ろくな目に遭わないぞ。それに、あのヘチマ野郎の依頼なんて、すっぽかしちまえばいいんだ」

「ヘチマ野郎って志勇さんのこと?」

「他に誰がいるんだ!」

 美雲は「そういうわけにもいかないわよ」と、頬杖をつき憂鬱そうな顔をする。

 

 この件が美雲一人の手にあまることは、姚妃に伝えてある。そのうち僧呂や道士を招いて妖怪祓いの儀式を行ってくれるだろう。だが、それが終わり、妖怪の災いが完全に祓われるまで、この後宮を離れるわけにはいかない。少なくとも、それまで安全を確保するのが、仮にも一度は引き受けた自分の役目だ。


 その時、ふと違和感に気付いて顔を上げる。部屋ではお香を焚いているのに、濁った妖気の匂いが紛れ込んだ気がしたのだ。

 警戒するように立ち上がった美雲の耳に、ひどく苦しそうな呻き声が聞こえる。

「姚妃様……っ!」 

 他の宮女たちは別室だが、美雲の部屋は姚妃が自分の寝所の隣に用意してくれた。

「師姉!」

 雷辰が浮かび上がってついてこようとするから、「あなたは外を見張って!」とすぐに指示をした。近くに妖怪か幽鬼がいるのかもしれない。そして、


「姚妃様!」

 隣の寝所に駆け込むと、灯りが消えている。姚妃は寝台でお腹を抱えて丸くなり、叫び声を上げそうになるのを必死に我慢しているようだった。額に手を当ててみれば、ひどい汗だ。

「姚妃様、美雲です。すぐに、医官を……」

 そう声をかけると、唇を強く噛んでいた姚妃が震えている手で美雲の腕をつかんで止める。あまりの痛みに声が出ないのだろう。必死に首を横に振る。医官を呼べば、お腹の子のことも気付かれる。

「ですが……っ」

 美雲は医師ではないが、今の姚妃が危険な状態にあることくらいはわかる。腕を取りその脈を診ようとした時、ハッとした。襟から取り出したお札を一枚燃やして、灯りの代わりにする。姚妃の袖をめくると、肘から手にかけて、蛇が絡みついているような赤黒い鱗紋様が浮き出ている。


 美雲はすぐさま腕の経絡のツボを数カ所押さえ、毒が体全体に回るのを防ぐ。それが多少は効いて痛みが引いたのか、姚妃の呻き声が止まり口が開いて息を吐き出していた。その唇は真っ青で、噛みすぎたところから血がこぼれて枕を汚す。


「師姉!」

 外を見張っていた雷辰が飛び込んでくる。

「どう? なにかいた?」

 美雲は姚妃の腕を押さえたまま、すぐに尋ねた。この毒は、呪詛のようなものだ。それは体内に入り込むと、全身に毒が回り、人を死に至らしめることもある。

「いいや、蛇が数匹いただけだった。でも、おいらの姿を見ると、すぐに逃げていったよ」

「蛇……」

 あの空き部屋の中庭にも、多くの蛇がいた。妖怪に使役されているのだろう。

(この腕も蛇に噛まれた……?)

 寝所をすぐに見回したが、蛇の姿は見えない。もう逃げ出したのだろうか。

 姚妃が「う……っ」と、声を漏らす。考えている場合ではなかった。このままでは、姚妃のお腹の子に影響しかねない。。


「雷辰、部屋から鶏の血と、筆と、お札を取ってきて!」

 すぐに指示し、火が消えているロウソクに火のついたお札を投げる。その炎がボッとロウソクの芯に移り、部屋が明るくなった。

 頷いた雷辰は言われたとおり、美雲の部屋から必要なものを持ってきてくれる。それを床に並べると、鶏の血を小皿に移し、燃やしたお札の灰を混ぜて筆を浸す。

 呪文を唱えながら集中し、姚妃の腕に魔除けの図と文字を書いていく。


 一瞬、姚妃は強い痛みを感じたのか、我慢できずに声を迸らせいた。だが、すぐに楽になったように表情が戻り、気を失ったように眠ってしまう。だが、腕の模様は消えずにそのままだ。


「なあ、師姉。この腕の模様はなんなんだ?」

「……妖怪が獲物につける印よ」

 美雲は手巾を裂いて帯状にし、それを姚妃の腕に巻いていく。


 妖怪は己が獲物と定めた者を執拗に狙う。どこに逃げようと見つけ出せるように、呪いの刻印を残して――。

 

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