第9話 皇帝

 表向きは姚妃の宮女ということになっている美雲は、他の宮女たちと共に、茶器や菓子を庭園の楼へと運んでいた。階段のある回廊の屋根には提灯が灯り、大きな池には月が映って輝いている。今日は満月で雲もないため、夜空も明るく見えた。

 

「ねぇ、聞いた? 昨日の夜、また妖怪が現れたんですってよ」 

「いやだ、やめてよ。こんな時間に。眠れなくなるじゃない」

 前を歩いている宮女二人が小声で話している。そのうちの一人が、「美雲さん、美雲さん」と声をかけてきた。二人とも、年齢は美雲と同じくらいだ。だから、話しかけやすいのだろう。新しく入ってきた美雲にも、何かと声をかけてくれて、親切にしてくれる。


「知ってる? 最近、よく現れるの……」

「現れるって……よ、妖怪?」

 美雲が聞き返すと、その宮女は「そう!」と頷く。おしゃべり好きの彼女は、謝杏という名前だ。もう一人の宮女は高佳林という。謝杏が話そうとするのを、高佳林が「やめなさいよ」と、眉根を寄せて止めていた。


「美雲さん、怖がってるじゃない」

 高佳林に「ねえ?」と同意を求められて、「ああ、ええ……そうね。怖い話はあまり得意じゃないの」とぎこちなく笑みを作ってごまかす。


「それなら、余計に知っていた方がいいじゃない! 知らないまま近くを通りかかったりしたら、嫌でしょう?」

「まったく、あなたってば……私は知らないわよ。姚妃様にお咎めを受けても」

 高佳林は呆れたように言って、先に行ってしまう。

「佳林も、怖がりなのよね」

 謝杏はつまらなそうに言ってから、美雲の袖をクイクイと引っ張る。どうしても、話さずにはいられないようだ。娯楽の少ない後宮にいる分、宮女は噂好きなのだろう。


「その妖怪っていうのが、空き部屋に出るらしいの……夜な夜な、女の人の姿で現れるんですって。昨日出た妖怪も、見た人がいるのよ」

「そう……どんな妖怪だったの?」

「それがね! 大柄で、死人みたいな真っ白な顔をしていて、生き血を吸ったような真っ赤な唇だったらしいわ! その上、髪を振り乱して走っていったそうなのよ」

 謝杏は大げさに身震いしてみせる。


「大柄で……真っ白な顔で……真っ赤な唇……」

 美雲は思い浮かべながら、ゆっくり繰り返す。

(それって……妖怪じゃなくて、志勇さんのことじゃ……っ!)

 どうやら、逃げる姿が妖怪と勘違いされたようだ。あの時は志勇の髪はすっかり解けていたから、振り乱しているように見えたのだろう。


「その妖怪が、おほほほほ……って、それはそれは不気味な笑い声を上げていたそうよ。その声を聞いた者は、怖ろしさのあまり気を失ってしまったらしいわ」

「そ、そうなの……それは……とても、怖いわね……」

 美雲は相づちをうちながら、目を泳がせる。


 無駄話をしている間に、楼の上に辿り着いた。石の机と椅子が置かれ、夜の風が吹き込んでくる。冷えるため、火鉢も用意されていた。

 手摺のそばにいた姚妃は、「皆は下がってよい。そなたは残りなさい」と美雲に向かって言う。菓子とお茶を石の机に置いてから、謝杏と高佳林は一礼して戻っていった。

 

 姚妃は手摺のそばで、月を見上げている。その凛のとしたたたずまいは、月の仙女のようだ。近寄りがたく、どこか神聖な雰囲気をまとっていて。

 思わず見とれていた美雲は、「お座りなさい」と言われるまでぼんやりとしていた。ハッとして、すぐに言われた通りに椅子に腰を下ろす。姚妃が向かいに座ったので、「お茶をいれましょう」と茶器に手を伸ばした。

 

「なにか、わかりましたか?」

 静かに尋ねられて、美雲はお茶を差し出しながら「はい」と返事をする。姚妃は昨晩のことが聞きたくて、人払いをしたのだろう。


「妖魔の仕業であることは間違いないと思います。門は封じましたが……効力はそう長く持たないでしょう。姚妃様……志勇さんからお聞きになったでしょうが、私は月仙廟の道士です。妖怪払いを専門としているわけではありません。やはり、専門の道士か僧呂を招いて、退治するべきです」

 そのほうが、確実で安全だ。生兵法は怪我の元という。下手な封印や祓い方をすれば、後々災いを招きかねない。


「あなたでは難しいと?」

 湯飲みを手に取りながら、姚妃が尋ねる。

「昨晩、姿を確かめました。蛇の体に女の顔を持つ、かなり強い妖気を持った妖怪です。簡単に捕らえられるようなものではありません。なぜ、あのような妖怪が後宮にすみついているのかはわかりませんが……専門の道士や僧呂でも、数名がかりで大がかりな壇を築き、祓うものなのです」

 美雲は顔を上げ、姚妃を真っ直ぐに見て答えた。


「そうですか……あなたがそう言うのであれば、そうなのでしょうね。あまり大げさなことにしたくはなかったのです。噂が後宮の外にまで広まれば、人心の不安を煽ります」

「……それはわかるつもりです」

 そうでなければ、自分のような無名の道士を招いたりしないだろう。


「こういうのはどうでしょう。来月、花祭りが行われます。それに合わせて、後宮で宮妃様たちが法要を行うというのは」

「花祭り……」

「巷の寺院でも、法要が行われる日です。大勢の僧侶や道士を招いて行っても、不思議がられることはないでしょう」

「……それはよい考えかもしれません。ですが……私の一存では決められません。陛下のお許しがいただければよいのですが。もし、法要を行えたとしても、私が儀式を主導するわけにはいかないのです」

 後宮には多くの宮妃がいる。なにより、後宮のことは皇后陛下が取り仕切っている。それを差し置いて、姚妃が率先して行うわけにはいかないのだろう。後宮の事情は、美雲にはわからないことだらけだ。


 姚妃が事の解決を美雲に頼んだのもそのためだ。陛下の許しが得られても、法要を行うには準備が必要になる。時間もかかる。道士や僧呂を招いて妖怪退治を行うなんてことは、やはり難しいのかもしれない。


「姚妃、ここにおったのか」

 宦官を引き連れて回廊の階段を上がってきたのは、顎髭をたくわえた大柄な男性だった。姚妃がすぐに立ち上がったので、美雲も慌ててそれに倣う。

「皇帝陛下……」

 姚妃が優雅に頭を下げるのを見て、美雲はどっと汗が出そうになった。

(こ、皇帝陛下!?)

 ここは後宮なのだから、皇帝陛下がいるのは当然のことだ。だが、こんなに突然やってくるなんて、想像していなかった。巷で暮らす美雲にとっては、雲の上の存在。仙人、仙女に等しい。聞いたことはあっても、姿を見ることも普通なら一生に一度もない。

 

「月が明るかったのでな。そなたはここだろうと思ったのだ」 

 皇帝は姚妃に進められて椅子に腰をかける。それからすぐに、頭を下げたまま縮こまっている美雲に目を留めた。

「見かけぬ顔だな。新しい侍女か」

「侍女の一人が腰を痛めたので、郷里に帰したのです。その代わりに、姚家の屋敷より信頼できる者を呼び寄せました」

 そう答えたのは、姚妃だ。


「そうか。すまぬが、朕にも茶をいれてくれ」

 美雲がチラッと見ると、姚妃は小さく頷いた。

「は、はい……っ!」

 緊張して返事をして、進み出る。新しい茶器を用意したのは、後に控えていた宦官だ。お茶をいれる手が、震えそうになる。もし、万が一のことがあれば、首が飛ぶだろう。そのうえ、宦官たちはおかしな動作をしないように見張っている。

 毒味役がそばについていて、同じ急須のお茶を口に含んで確かめてみていた。問題ないと判断されたようで、皇帝陛下に差し出すように促される。


 美雲は湯飲みを両手で差し出した。

 皇帝陛下「うむ」と、それを受け取ってとくに躊躇うこともなく口に運ぶ。陛下の顔には、額から右目にかけて痛々しい傷がついていた。それが気になって、つい視線を向けてしまう。


「この傷が気になるか?」

 皇帝陛下にきかれて、美雲は「い、いえ!」と焦って視線を下げる。まじまじと見るなんて、失礼なことだ。

「よいよい、この傷はな。朕が若かった頃、人食い虎に遭遇した時にできた傷よ」

 豪快に笑いながら、皇帝陛下は傷を指差す。

「人食い虎!?」

 驚いて思わず顔を上げると、宦官にギロッと睨まれた。皇帝陛下はあまり気にしていない様子で、「おお、そうよ」と膝に手を置いて美雲の方を向く。


「陛下はその武勇伝を、宮廷にいる者全員に聞かせたいのです」 

 姚妃はまた始まったとばかりに、お茶を啜っていた。

「朕が狩りに出かけた時に現れたのだ。それはそれは獰猛で、巨大な虎であったわ。突然飛びかかってきたそやつの爪でえぐられた傷よ。だが、朕はそやつの首を息ができぬほど締め上げ、下から心臓を一突きしてやったのだ!」

 皇帝陛下は「わははは」と、豪快に笑っている。豪胆な方なのだろう。

 皇帝陛下の鍛えらえれた腕っぷしを見れば、その話も誇張とは思えない。

 皇太子だった頃、何度も戦場に出て武勲を立てたとも聞いている。


「虎と戦うなど、私には想像もできないことにございます」

 美雲は頭を下げて、控え目に答えた。

「虎など怖れるほどのものではない。人間の方がよほど怖ろしく、危険だからな。簡単に裏切り、あらゆる卑劣な手段を用いて、相手を殺そうとしてくる。知恵があるぶん、虎よりも厄介よ」

 皇帝は何か心に思うことがあるのか、ふと真面目な顔つきになっていた。


「陛下、そのような話は、若い娘に聞かせるようなことではありませんよ。怯えてしまうではありませんか」

 姚妃に言われ皇帝陛下は、「まったくだ」と呟いて息を吐く。


「ところで、妃よ。このところ、体調があまりすぐれないそうではないか。食が進んでいないと聞いたぞ。医官に診させてはどうだ?」

「食が進まないのは、少々心配なことがあり、気分が優れなかったからでございます。ご心配には及びません」

「悩みがあるのならば、遠慮なく申せ。そなたが笑わぬと、朕の心も鬱々として晴れぬではないか」

「まあ、そのような……私が笑うのが不得手なのは、陛下もよくご存じでしょう」

 姚妃は恥ずかしそうに微笑む。その手を、皇帝は愛おしそうに握り締めていた。

 

 姚妃に「下がってよい」と言われた美雲は、回廊の階段を下りる。姚妃は皇帝陛下と、まだ楼で語らっているのだろう。護衛がついているから、心配もない。


(陛下は、姚妃様のことを大切になさっているのね……)

 〝あのこと〟も、まだ陛下に打ち明けていないのだろう。姚妃は世継ぎだから、我が子を守ろうとしているのではない。愛する人との間にできた子だから、なんとしても守り抜きたいのだ。その気持ちがよくわかる気がした。

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