第7話 空き部屋の怪異

 人が寝静まるのを待ち、あてがわれた部屋を抜け出した美雲は、姚妃から教えてもらった妖怪の出るという空き部屋へと向かった。そこは、後宮の中でもひっそりしていて、周りの部屋も無人なのか灯り一つ灯ってはいない。

 

 今宵は警備の者もいなかった。美雲が調べやすいように、姚妃が気を利かせてくれて、人払いをしてくれたからだ。美雲は提灯を持ち、古い門を見上げる。


 門の隙間から漏れ出した黒い煙を見て、一歩退いた。懐からお札を取り出すと、指で印を作り、そのお札を門に翳す。その途端に、お札が燃えて扉が勢いよく開いた。


 途端に強い風が吹きつけてきて袖で顔をかばう。その風が収まってからようやく薄目を開けると、門がギッ、ギッと、音を立てて揺れていた。

 

(妖気……)

 臭気を含むその妖気は、夜の風に払われて消えた。これほど強い妖気なら、幽鬼のものではないだろう。女たちの姿を見て気を失ったという警備の者は、この妖気を吸い込んでしまったのだ。修行している道士や僧呂ならともかく、普通の者にとっては毒に等しい。

 

(変ね。宮殿は毎年、追儺を行っているじゃない。妖魔や悪鬼がうろつくことなんてないはずだわ)

 そもそも、この紫雲城は、道観や廟と同じように全ての建物が陰陽和合するように配置されていて、屋根や階、門の屋根には辟邪の神獣の像が置かれている。それらが結界の役割を果たし、妖魔や悪鬼の侵入を防いでいるのだ。


 さらには、毎年二月、追儺を行って宮殿の隅々まで祓い清められる。妖怪がすみつくことなどできない。

 それとも、儀礼を司る礼部の人たちが、儀式の手順を間違えたのだろうか。儀式は全てに意味がある。正しい手順を踏まなければ、効力も発揮しない。


 美雲は足を踏み出し、門の中へと入っていく。草が生い茂り、屋根瓦の破片が落ちていた。妖気が漏れ出しているのは、建物の中からだ。だが、妖怪はまだ姿を現しておらず声も聞こえてはこなかった。


 建物の中に入れば、妖怪は警戒して今夜は姿を見せないかもしれない。

(現れるまで待ったほうがよさそうね……)

 辺りを見回してから、中庭の灯籠の陰に移動してしゃがむ。襟に忍ばせていたお札を取り出して、灯籠に貼った。

 それが結界となって、妖怪に気配を悟られないはずだ。


 巾着から小さな羅盤と呼ばれる方位盤を取り出す。八角の中に細かな文字が刻まれているもので、地面に置いて針の示す方向を確かめる。だが、針はクルクルと回るばかりで定まらない。妖気が拡散していて、妖怪の居場所をはっきりと特定できないのだ。


 美雲は房飾りのついた八卦鏡を取り出すと、帯の中に忍ばせておいた。桃の木で作った短剣も同じく帯に差す。八角の鏡である八卦鏡は、妖怪の正体を映す。さらにはその妖気をはね返すこともできる。


 桃木の剣は、北斗七星の呪符が刻まれたものだ。師父が使っていた形見の剣だから、取り上げられてしまった時には慌てたものの、姚妃のおかげで返してもらうことができた。これがなければ、そもそも妖怪退治なんてできない。


 灯籠の陰から様子をうかがっていたものの、これといった異変もなく時間だけが過ぎていく。次第に体が冷えてきて、美雲は身震いして腕をさすった。 

 

 三月とはいえ、夜になれば気温も下がり、雪が降る日もある。薄着のまま出てきたことを後悔したが、羽織るものなど持ってきてはいない。

 

『おや、そこにいるのは誰だね?』

 師父の声が蘇ってきて、美雲はぼんやりと昔の記憶を辿る。 

 師父と出会ったのは、ひどく寒い日の夜だった。行くあてもなくて、寒くて、ひもじくて、寂しくて――歩き疲れて、廟に迷い込んだ。


 せめて一晩、屋根のあるところで過ごしたかった。うまくいけば、お供え物のあまりを少しばかり分けてもらえるかもしれない。


 月仙廟に入ったのは、そんな理由からだった。

 廟の庭先で震えて小さくなっていた美雲を見つけてくれたのが、師父だ。

 師父は美雲に温かい食事を作ってくれて、寝床を用意していくれた。

 優しくて、温かい人だった。

 

 最初のうちは、食べ物を与えてもらえるから廟に足を運んでいた。ここなら、石を投げてきたり、箒で打ちのめしてきたりする意地悪な大人はいないとわかったから安心だった。


 毎日やってきても、師父は嫌そうな顔をせず、そのたびに食事をくれた。後になって考えてみれば、師父は貧しかったのに、美雲のために精一杯のご馳走を用意してくれていたのだ。子どもはたくさん食べなくてはいけないと、嬉しそうに言いながら、いつもご飯を盛ってくれた。


 月花真君がいるとしたら、きっと師父のような人だと思った。いや、本当に月花真君の化身で、師父は亡くなったのではなく、多くの人を助けた功績によって天上に帰って行ったのではないかと思うこともある。

 そう考えるほうが、寂しくないから――。


 亡くなる寸前まで、美雲のことや、信者の人たちのことを案じていた。

 最期の最期まで、自分のことではなく、人のことを気に掛けていた。


 血が溢れ、衣が紅に染まっていくのを見て、必死に深い傷口を手で押さえながら、師父の名前を呼び続けていた。

 そんな記憶が蘇ってきて、目を伏せる。無意識に小さな八卦鏡を強く握り締めていた。それは、まだ思い出すにはあまりも悲しみが深かった。


 不意に中庭に並んでいる灯籠が灯り、明るくなったかと思えば、笑い声が聞こえてくる。

 過去を彷徨っていた意識を戻して顔をあげると、建物の窓から灯りが漏れている。聞こえてくるのは女たちの話し声だ。それに弦の音が聞こえてくる。

 強い妖気が漏れ出してきて、耳がキンッと痛くなった。

 どうやら、現れたらしい。

 

 片耳を押さえながら、美雲は地面に置いた羅盤に目をやる。針は建物の方角を指した後で、グルっと回り、別の方角を指す。さらにまた、別の方角を指していた。それぞれが指しているのは、妖気の源だ。

(三カ所……?)

 

 美雲は帯に差している桃木の剣の柄を握り締めながら、腰を浮かせる。だが、立ち上がろうとした直前、背後から伸びた手が美雲の口を強く塞ぐ。抵抗もできないまま、引きずり倒されていた。


 



 

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