第6話 妃の秘密

 その人の名は、姚蘭。位は貴妃。

 歳は二十歳半ばというくらいだった。後宮には全国から選りすぐられた美人が集められていると聞いていたけれど、これほど美しい人を美雲はいままでに見たことがなかった。女に生まれたのは同じなのに、自分とこの人では天地ほども違う。


 もちろん、高貴な身分の方と、自分では比べようもないのだけど。それに比べたところで意味はない。美雲は皇帝陛下の寵愛を得ようと競う後宮の妃嬪たちではないのだ。


 それに後宮に入りたいわけでもなければ、この場所で一生を終えたいとも思わない。だから、まあ、並の容姿で十分なのだろう。

 

 そんなことに気を取られ、つい目の前の女性に見とれてしまっていた美雲は、「私の顔が気になりますか?」ときかれて我に返る。

「いいえ……とても、お美しい方なので驚いたのです」

 正直に答えて視線を下げると、女性は「よく言われます」と素っ気なく答える。視線を戻すと、姚妃は気にも留めていないようすでお茶を飲んでいる。


「私は李志勇さんから、妖怪退治をしてほしいと依頼されて、ここまで連れて来られたのです。もちろん、その場所が後宮であるなんて少しも知りませんでした。どういうことなのか、事情を聞こうにも李志勇さんとは連絡が取れませんし、後は依頼主の方に聞けと言われたのです。依頼されたのは、姚妃様なのですか?」


 一口飲んだだけの湯飲みを下げて、美雲は尋ねる。遠慮していても、少しも事情がわからない。相手が誰であろうとも、毅然と聞くべきだと思ったのだ。そうしなければ、流されるままにここで働くことになってしまう。

 

 その仕事が妖怪退治ではなく宮妃の仕事することなら、きっぱりお断りして帰らせてもらわなければ――。

(もし、欺して連れてきたのなら、この姚妃様に泣きついてでも訴えてやるわ)

 

「……ええ、そうです。その事情は私と一部の者しか知りません。あまりおおっぴらに話すのははばかられることですから」 

「それは、もちろんそうでしょう」


 あの高齢な宮女がやけに大きな声で遮ってきたのを思い出した。となれば、宮女たちはまだ知らないのか。知っていても、みな口を閉ざしているのかもしれない。流言をばらまいたなんて、懲罰ものだ。


 となれば、やはり美雲が連れてこられたのは、宮女になるためではなくて、本来の目的通り妖怪退治のためということだ。姚妃が人払いしたのも、他の者に聞かせぬためだろう。


「では、どういうことなのか、お話しいただけますか?」

 仕事であれば、余計なことを考えずに、役目を果たそう。美雲は姿勢を正して、真っ直ぐ姚妃と向き合う。


 彼女は湯飲みを見つめてしばし考え込んだ後、話を始める。それは、概ね志勇から聞いていた話の通りだった。


 だが、妖怪騒ぎは一夜限りのことではなかったようだ。警備を厳重にして妖怪が現れた空き部屋を監視していたのだが、三日ごとに女たちは現れる。

 

 警備の者が飛び込んでみても、室内は空っぽで誰もいない。ただ、笑い声は話し声はどこからか聞こえてくるらしい。姿を見た者は、最初に目撃した者と同様に倒れ、正気を失っているそうだ。


「三日……ですか?」

「ええ、そうです。決まって三日ごと。幽鬼の仕業ではないかと、尼僧を呼んで祈祷もいたしました。ですが、怪異は今だ収まりません。陛下は……薄気味が悪いと、取り壊すことにされたようです」

「取り壊す?」

「もともと老朽化しており、いつ崩れるかわからぬために空き部屋となっていたのです」

「そのような部屋は多いのでしょうか?」

「この後宮は広い故……多いでしょう」

 姚妃は視線を扉のほうに移していた。以前は妃嬪も宮女の数ももっと多かったと聞く。だが、今の皇帝陛下は、財政を緊縮するために人数を減らしたようだ。


 即位された年とその翌年、大きな飢饉に見舞われた。困窮する民を前に、贅沢は禁じられたのだろう。そのため、今は使われていない部屋が多くあるようだ。


「いつ、取り壊す予定なのでしょう?」

「来月には壊すそうです」

「来月……」

 ということは、あと十五日ほどだ。その間に、調べて解決できるだろうか。美雲は顎に手を添えて考え込む。


 取り壊されれば、そこに留まっていた妖怪、あるいは幽鬼が離れて、また別の場所を探して彷徨う可能性がある。そうなれば、どんな被害が出るかしれないのだ。慎重になるべきだが、自分如きが取り壊さないでくれと頼むわけにもいかない。


「最後に怪異が訪れたのは、いつのことなのでしょう?」

「二日前です」

「ということは、今晩が三日目……」

「ええ、そうでしょうね。現れるはずです。ですから、あなたを招いたのです。解決できそうですか?」

「確かめなければ、なんとも申し上げられません。今は正体もわからないのですから」

 安請け合いはできそうにない。何度も同じ現象が現れるということは、見間違えということはないだろう。


「あなたは……正直ですね」

 そう言われて、「え?」と姚妃を見る。だが、姚妃はすぐに視線を逸らしてしまった。

「いいでしょう。今夜、見張りの者は下がらせておきます。この件は他の者には内密に。それと、この後宮にいる間、あなたは私の側仕えの者ということになっています。宮女として振る舞いなさい。不要なことは口にしないように。誰かに尋ねられたら、私の使いだと。よいですね」


「承知いたしました……」

 素性もわからない街の道士を招き入れるなど、本来は許されていないことなのだろう。うかつなことをすれば、死罪――そんな言葉が頭を過って冷や汗が滲む。

(まったく志勇さんも、とんでもないところに放り込んでくれたものだわ)

 

 後宮だから、あの人が入れないのも当然だ。それに、この姚妃とどういう関わりがあるのかもわからない。無事に生きてこの後宮を出られたら、志勇をとっちめて、今回の件の報酬は倍にしてもらわなければ割に合わなそうだ。


 乾いた喉をお茶で潤していた美雲はふと、姚妃を見る。

 その指先を見てから、彼女の唇に目をやった。

「あの……とても失礼なこととは承知しているのですが……」

 つい、気になって口を開く。

「なんでしょう?」

「少し……脈をとらせていただいてもかまわないでしょうか?」

 それが、差し出がましく、また恐れ多いことだということは十分にわかっている。だが、妙に顔色が青白いのが気になったのだ。それに爪の色もよくはない。薄化粧なのに、口紅だけ濃いことも不自然だった。血虚の症状が出ている。

 

 姚妃は無言で美雲を見つめた後、フッと息を吐いて腕を差し出してきた。

 立ち上がった美雲はそばにいくと、膝をついてその手を取る。直接触れないように、袖の上から脈を確認をした。しばらく脈を取ることに意識を集中していた美雲は、ハッとして姚妃を見る。


「なにか、わかりましたか……」

「もしや……ご懐妊されているのではありませんか?」

 恐る恐る尋ねると、姚妃は黙ったまま目を伏せる。腕をすぐに袖で隠していた。

 細い腰まわりは、見る限りまだその兆候はない。


「……もし、それを誰かに口外すれば、生きてこの後宮からは出られませんよ」

 そう言われて、ギクッとする。その言い方だと、姚妃はその兆候を感じていたのだろう。だが、医官には打ち明けてはいないのかもしれない。いまさら、とんでもないことを知ってしまったのではないかと青ざめて膝が震えてくる。

 

 後宮の事情などよく知らない。だが、世継ぎ問題の重大さくらいは想像できる。

 もし姚妃が男子を懐妊していたなら、それこそ大事となるだろう。今の皇帝には、まだ男子が生まれていない。


 知ってしまったというだけで、舌を抜かれてもおかしくはない。

 ああ、なんて迂闊だったんだと、目を瞑る。


 廟には子授けについて祈祷や祈願に訪れる女性も多い。そんな女性たちに頼まれて、脈を診たり、お札を授けたり、時には薬の処方を伝えることもある。脈の取り方を教えてくれたのも、師父だった。医学の心得も、ある程度教えてくれた。とはいえ、医者ほど詳しいわけではない。


 似たような症状を多く見てきたから、もしかたらと感づいてしまったのだ。だが、いくら妃といえども同じ女性ではある。その体調不良は見過ごせない。懐妊しているのなら、なおのことだ。


「あの、やはり医官に相談なさるべきだと思います。顔色があまりよくないように見えました。大事なお体ですから、なおのこと……」

「誰かに相談するほうが、危険なのです。知られれば、生まれる前に殺されてしまう。ここはそういう場所です。無垢なあなたは知らないのでしょうね……」

 姚妃は自分の腹部をさするように撫でていた。


「陛下は……ご存じなのですか?」

 尋ねると、彼女は小さく首を横に振る。皇帝にも言わず、一人でその重大な秘密を抱え込んでいるのだ。この人は。その身に宿った我が子を、守るために。言葉を失い、美雲はゆっくりと下を向いた。


「お守りを持ってくればよかった……」

 ポツリと呟くと、姚妃に「お守り?」と聞き返された。

「はい、うちの廟は良縁を結ぶ神様なのですが、子授けや安産の神様でもあるのです。そうだ。この一件が終わって戻ったら、志勇さんに託します。もしかしたら、また取り上げられてしまうかもしれませんが……」

 さきほど、持って来た法具を全て取り上げられてしまったことを思い出して、美雲は弱く笑った。

「後で、お札を書きます。気休めかもしれませんが……安心できるように。ああ、もちろん、呪いのお札なんかではないので、心配なら、確かめてもらってください!」

 不快に思われただろうかと、心配になって姚妃の顔を見れば、呆れているように見えた。


「そなたは……志勇が話す通りの娘ですね……」

「ど、どのように話していたのでしょう……?」

 美雲が尋ねると、姚妃はスッと目を逸らしてしまった。答えてくれるつもりはないらしい。


 気になるが、問い詰めるわけにもいかない。これもまた、無事に戻ってから志勇を締め上げて吐かせるしかないだろう。


「必要なものがあれば、そろえましょう」

「それなら、あの……大変言いにくいのですが、ここに来た時に取り上げられてしまった荷持つを返していただきたいのです」

 そうしないと、妖怪や幽鬼と素手でやりあうことになってしまう。それはいくらなんでも無理なことだ。


「わかりました。そなたの部屋に届けさせます」

 美雲はホッとして立ち上がると、「ありがとうございます」と頭を下げた。



 

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