第5話 後宮の妃

 後宮に通じる門を通り、壁に囲まれた通路を通る間も、部屋に押し込まれて問答無用で服を剥ぎ取られた時も、宮女の着る衣装に着替えさせられ、念入りに化粧を施している最中も、高齢な宮女は後宮の礼儀や作法、しきたりについて、一時も休むことなく喋り続けていた。


 ようするに、余計なことをせず、無駄口をきかず、平身低頭、かしづいていろ、ということらしい。

「あの、私は頼まれて妖怪退治にやってきた、ただの道士で……」

 間違っても、宮女となるためにここに連れてこられたわけではない。

 はず、なのだが――。


 おずおずと事情を説明しようとすると、高齢な宮女は「とんでもございません!」と大きな声で話を遮ってきた。

「よいですか。ここは皇帝陛下と后妃様方がおわします神聖な場所。魑魅魍魎が跋扈しているなど、口が裂けても言うものではありません。そのような妄言で陛下や后妃様のお耳を汚すようなことがあれば、舌を引っこ抜かれても仕方ありませんよ!」

 部屋の中を歩き回りながら、高齢な宮女はピシッと手を叩く。舌を引っこ抜かれると聞かれて、閻魔大王の怖い顔が思い浮かんだ美雲は、ギョッとして慌てて口を閉ざした。


 どういうことなのだろう。志勇は事情は説明してあると話していたではないか。それも、全て嘘だったのだろうか。それとも、手違いで伝わっていないだけなのか。

 こうなってくると、妖怪が現れたという話も、どこまで信じていいのかわからない。

 

(もしかして、私……あの人に欺されて、身売りされたのではないかしら!?)

 そんな疑念が頭を過る。考えてみれば、あの人が探していたのも、皇帝や妃嬪にお仕えする娘だったのかもしれない。何度も廟に訪れたのは、その下見をするためだったのか。だとすれば、人がよさそうな笑顔の下で、狸や狐顔負けに腹黒い算段を巡らせていたことになる。なんて男なのだろう。


(妖怪退治なんて言って、私をここに押し込むための方便だったのね!)

 考えれば考えるほど腹が立ってきて、美雲の眉がキッと吊り上げる。

「ああ、ダメですよ。顔を動かさないでくださいませ。眉が歪んでしまいます」

 化粧道具を手に、キャッキャと楽しそうに話をしていた若い宮女が、美雲の端が上がった眉を指でグイッと下げる。


 これは、誤解があったことをちゃんと伝えて、一刻も早く帰らせてもらわなくては。そう思っている間にも、美雲が持ち込んだ荷物が解かれて、中身が念入りに調べられていた。脱いだ衣の袖や裾まで、隅から隅まで確認している。


「これはいったい、なんなのですか?」

 長机の上に並べられたお札の束を指差して、高齢な宮女が尋ねる。いかにも、胡散臭そうな表情だ。

「それは、見ての通りのお札です……」

 何も知らないで、妖怪退治のつもりでやってきたのだから、荷の中身の大半は法具やお札などだ。

 高齢な宮女は「不浄!」と一喝すると、官服を着ている男の人――おそらく宦官だろう――にすぐに部屋から運び出すように命じていた。


「ええっ、困ります! そのお札がないと……」

「后妃様たちを呪う呪符や、奇っ怪な妖魔を呼び寄せるものかもしれません。これは、礼部に送って全て確認いたします」

 礼部は祭祀に携わる部署だ。だから、お札についても詳しい者がいるのだろう。


「そんな呪符を持ち込んだりするものですか! 私はこれでも月仙廟の道士です。間違っても人に危害を加えるようなお札は使ったり、作ったりしません!」

 これは聞き捨てならなくて、毅然として言い返す。だが、高齢な宮女は耳が遠いふりをして、お札の横に並べられている巾着を顔をしかめながら開いてみていた。


「これは……なんです?」

「それは、怪しくありません。儀式に使用するための餅米です」

「不浄!」

 高齢な宮女がまたピシャリと言って、片づけろと手で払う仕草をする。するとまた、官吏たちが巾着を回収して出ていった。


「ただの餅米ですよ!」 

「毒が仕込んであるかもしれない食べ物の持ち込みは禁止! それと……この壺の中身はなんです?」

 壺を持ち上げた高齢な宮女は、蓋を開いて中を覗き、クンクンと匂いを嗅いでみていた。だが、その匂いにむせたのか、鼻をつまんで顔をそむける。


「それは、鶏の血です! 新鮮なもので、心配いりません」

 おずおずと言うと、高齢な宮女はすぐさま壺を官吏に押しつけていた。

「不浄! 全部、不浄! なんともおかしなものばかり持ち込もうとする娘ですね……」

「ですから、私は妖怪……っ」

 

「妖怪など、おりません! これは!?」

 だんだん、高齢な宮女の苛立ちも募っているらしく、口調が厳しくなっていく。

 もう反抗するのも疲れてしまって、美雲は大人しく「如意棒です」と答えてため息を吐いた。


「得体が知れないものは、持ち込み禁止! これは!?」

「それは、木剣です。桃の木で作った……」

「武器の持ち込みも禁止!」

 高齢な宮女は如意棒と木剣を、官吏に渡してしまう。

「木の剣ですから、なにも切れませんよ!」

「刃を仕込んでいるかもしれないでしょう。確認いたします!」

 

 美雲はがっくりして、「それなら、何なら持ち込んでもいいんですか?」と尋ねた。

「必要なものは、すべてこの後宮内でまかなえます。持ち込む必要など、ありません!」

(そんなぁ…………っ!!)

 

 しおしおの漬物の大根のようになった美雲は、部屋を連れ出されて通路を進んで行く。いくつ門を通り抜けたのか、数える気力もなかった。

 空は青く晴れ渡り、自由に小鳥が舞っている。それが妙に恨めしかった。


「これからあなたにお会いになるのは、後宮の中でもそれは位の高い妃のお一人なのです。失礼のないように、口にはよく気をつけなさい。よろしいですね!」

「は、はぁ……」

「はぁ、ではありません。はい、ときちんと返事をなさい!」

「は、はいっ!」

 背筋を正して、もう一度返事をし直す。回りの宮女たちを見習って、両手もきちんと前でそろえた。


 高齢な宮女に連れられて入ったのは、立派な門のある居室だった。手入れの行き届いている中庭を通って建物の前の階を上がると、扉のそばに控えていた宮女が開けて通してくれた。


 高齢な宮女が深く拝礼したので、美雲も慌ててそれに倣う。

「他の者はさがってよい。あなただけ残りなさい」

 落ち着いた女性の声が聞こえて、他の宮女たちは頭を下げたまますぐさま部屋を出て行ってしまった。


 取り残された美雲は、緊張して下を向いたままでいた。こういう時に、どう振る舞えばいいのかも皆目わからない。挨拶をするべきだろうか。だが、無闇に口を開くのは御法度と、あの高齢な宮女から聞かされた。

 冷や汗が出てきて喉が渇く。


 その時、頬にひんやりとした手が触れて、ビクッとした。

 グルグル考えていたから、相手が椅子から立ち上がったことに気付かなかったのだ。思わず目線を上げると、その女性と目が合う。


 息を呑むほど美しい人だった。眉は三日月のようで、唇は小さく、その表情は凛としている。肌は陶器のようになめらかで、美雲の顎に添えられている指先も細かった。ただ、ニコリもせず、ジッと探るような眼差しで美雲を見ている。

 

「あの……」

 思わず、美雲は声を絞り出した。手が汗ばんでしまっていて、無意識に服で拭う。

「名は?」

 問われて、「夏美雲で……ございます」と丁寧に答えて目を伏せる。ようやく彼女の手が顎から離れたので、胸にたまっていた息を密かに吐いた。


「私のことは聞いていますか?」

「いいえ……どなたも教えてくださらなかったので……」

 答えると、その女性は背を向けて長椅子に戻る。「お座りなさい」と促されて、「は、はい」と返事をしながら足を小さく一歩踏み出した。


「私は姚蘭……あなたのことは、志勇から聞いています」

 その女性は、お茶をいれてくれながらそう口を開いた。

 

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