第3話 廟の童子
夕餉の後、湯浴みをしてから寝所で髪を梳かす。その横の卓では、人形ほどの大きなの女の子が、重そうに急須を持ち上げて湯飲みに湯を注いでくれている。けれど、うまくいれられなかったのか、あちこちに湯が飛び散っていた。それでも、女の子は「ふーっ!」とやり遂げたように息を吐いて、額の汗を拭う。誇らしげな表情だ。
「師姉、お湯をいれましたよ」
「ありがとう、小桃」
美雲は微笑んで、ありがたくその白湯をいただく。ぬるめの湯だから、すぐに飲み干せた。
「とんだ、ドジだ。そこかしこ、ビシャビシャじゃないか!」
卓の上であぐらをかいているのは、やはり人形ほどの大きさの男の子だ。偉そうな態度であぐらをかいて女の子を睨め付けている。
小桃と言われた女の子は途端に目を潤ませ、怯えた様子で急須の陰に逃げ込んでしまった。
「がんばったもん。今日はちょっとしか、こぼさなかったもん!」
「ちょっとしかだって? 卓の上がまるで池みたいだ! 前みたいに湯飲みをひっくり返して割らなかっただけはいくらかマシだけどな。あの時は目も当てられなかった」
大げさな口調で言いながら、男の子は目を手で覆ってみせる。
小桃は唇を悔しそうに強く噛んで、薄紅色の服をギュッと前でつかんでいた。そのふっくらとした頬を、ポロポロと涙の粒が転がって落ちていく。
「こらっ、雷辰。どうしてそんなに意地悪な言い方をするの? 妹なんだからもっと優しくしなくちゃダメじゃない」
美雲が「めっ!」と、男の子の頭を指で押すと、コロンと転がってしまう。すぐに飛び起きた雷辰は、「だって、こいつときたら、俺の妹のくせに何の役にも立たない!」と卓の端までやってきて、妹を指差した。小桃はというと、物陰でビクッとしている。
「あらそう? 私にはとーっても役に立つわ。もちろん、雷辰のほうがちょっとお兄さんだから、できることは多いかもしれないけど、小桃だって頑張っているでしょう? 修行中なんだから、うまくできなくても大目に見てあげるべきよ。そのほうがかっこいいわ」
美雲が湯飲みを置いて二人のほうを向くと小桃も雷辰も顔を見合わせてから、プイッとそっぽを向いた。お互い意固地になっていて仲直りするつもりはないようだ。
(仕方ないわね……)
美雲はため息を吐く。
この二人は、同じ桃の木から生まれた精怪だ。けれど、おっとりしている小桃と、気性が激しくせっかちな雷辰は気が合わないようで、ことあるごとに口げんかしていた。といっても、小桃は気が小さいからおどおどしているばっかりで、もっぱら雷辰が一方的に不満をぶつけているという具合だ。
二人が生まれた桃の木は、師父が亡くなる一年ほど前に、雷に打たれて燃えてしまった。その雷の気と桃の古木の気とが合わさって二人が生まれたため、小桃は桃木の気の性質を、雷辰は雷の気の性質を受け継いでいる。この廟で生まれたから、主神である月花真君の眷属となった。言ってみれば、美雲にとっては年の離れた弟と妹のようなものだ。二人も、美雲を師姉と慕ってくれている。
「師姉、本当に妖怪退治に行くの?」
志勇が迎えに来るのは明後日の朝だ。少し早いが、今日のうちに持っていくものはまとめて準備してある。お札も多めに持っていくつもりだ。だが、小桃はすっかり不安そうな顔になっていた。
「ええ。本当に妖怪が出るかどうかはわからないけれどね。確かめてみるだけよ。一晩で戻るつもりだけれど……もし、妖怪が現れなかったら、数日はかかるかも。その間、二人には廟のことを頼むわね」
「留守番なんて、小桃一人で十分だろ? 俺が師姉についていくほうが安心じゃないか。妖怪なんて、俺の雷撃で一発だ!」
雷辰は腕を組みながら、唇を尖らせる。まだ、留守番役を頼んだことを拗ねているのだろう。妖怪退治と聞いて小桃は怯えていたが、雷辰は男の子だから血が騒いでしたかがないようだ。
「あなたと私がいなくなったら、小桃が一人ぼっちじゃない。それこそ、危ないでしょう?」
「危ないもんか! こいつがヘマしなきゃいいんだ。戸をしっかりしめて、誰も入れないようにしておけばいい」
「そんなわけにはいきません。ああ、そうだ。私がいない間に、林おばあさんが、お孫さんの安産祈願のお札とお守りを受け取りに来るから、渡してあげてね。ちゃんとお茶とお菓子を出すのよ。林おばあさんは足がお悪いんだから。立たせたままにしないこと。いい?」
美雲が言いつけると、小桃は緊張した顔でコクコクと頷く。返事をしない雷辰を見て、「雷辰、小桃はできるみたいだけど、あなたはどうかしら?」と少しばかり意地悪くきいた。
「できるにきまってるさ! そんな赤ん坊のお使いみたいなこと」
「頼もしくて安心したわ。それじゃあ、二人ともケンカして物を壊したり、暴れたりしないように、大人しく留守番をしていてちょうだい。雷辰、くれぐれも雷を闇雲に落としちゃダメよ。あなたのせいで、オンボロの廟がもっとオンボロになるんだから」
美雲は「じゃあ、寝ましょう」と、ロウソクを吹き消して立ち上げる。寝台に入ると、二人もそれぞれ自分の寝床に戻ったようだった。
妖怪退治の経験がないわけではない。師父が健在だった頃は、それこそ山に入って何日も修行をした。
ただ、妖怪は人知を超えている。種類も多く、道士一人では太刀打ちできないような大物もいる。志勇の話では、大蛇の影が映っていたそうだ。だとしたら、大蛇が化けたものと考えるのが妥当だろう。
「厄介なものじゃなければいいけれど……」
寝付けなくて、寝返りを打ちながら呟いた。蛇の妖は執念深い。一度恨みを抱けば、どこまでも執拗に付きまとい、その恨みを晴らそうとする。本当に目撃されたものが妖怪であれば、退治するのは容易ではないだろう。
とはいえ、それも実際にこの目で確かめてみなければ判断ができない。妖魔の中には、己の正体を誤魔化すために化けたり、欺いたりするものもいるためだ。
目で見ている姿が実際の姿であるとは限らない。師父がそう教えてくれたことを思い出しながら、美雲はうつらうつらと目を伏せた。
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