第2話 初めて訪れた日のこと

 あの人、李志勇が月仙廟に初めてやってきたのは、元宵節の日のことだ。街は灯籠が灯り、日が暮れると星をちりばめたように街路が明るくなる。通りは爆竹の音やドラの音、人の笑い声で溢れ、大きな龍の灯籠が練り歩く。そんな、吉祥を願う一年の始まりの祝日だった――。


 元宵節の祭りの間は、人が多く出歩き、露店が犇めいている。この月仙廟も提灯で飾り付けをし、美雲も門前に露店を出して辻占いのようなことをしていた。毎年の行事だが、月仙廟は街外れにあり、表の細い路地はひっそりとしていて、大通りのような賑わいからはほど遠かった。


 訪れるのは、毎年、ご祝儀代わりに占ってくれる近所のおばさんやおばあさんたちが数人。決まった顔ぶれで、占いよりももっぱら、世間話をしにきた人たちばかりだ。たまに、廟の前を通りかかった若い男女や、祭り見物帰りの女の子たちが、興味を引かれてやっていくこともある。

 この日も数人を占ったら、とんと客足も途絶えてしまって、夕刻からは雨も降り始めた。もう、占ってほしいとやってくる人もいないだろうと、早めに店じまいをして廟に戻ろうとしていたところ、一人、ふらっとやってきたのが李志勇だった。


 雨に打たれ、立派な衣も濡れ、裾は泥で汚れていた。

 「もし」と、声をかけられた時には、どこか具合が悪いのかと思ったほどだ。それほどに志勇の顔は青白く、生気が抜けたように目が虚ろで、立っているのも精一杯のように見えた。


「どうなさいましたか? 中でお休みになりますか?」

 心配になってきくと、彼は「いや……」と首を弱く振ってようやく美雲と目を合わせた。だけど、その瞳は映しているだけで、見てはいなかっただろう。

「占ってもらいたいことがあるのです……ああ、でももうしまいですね」

「いえ、雨が降り出したので……中で、見ましょうか?」

 占いをしてもらいたくてやってきたのかと、美雲は驚いてもいた。

 占いより、彼には温かいお茶と、それに濡れた体を拭くものと、体を休める椅子が必要に思えた。この雨で傘も持たず、片手に持っている祭りで買ったであろう提灯は濡れて火が消えてしまっていた。


(このまま帰してしまうと、途中で倒れてしまいそうだわ……迎えの人が来てくれるかもしれないし、せめて雨が止むまでは廟にいてもらったほうがよさそうね)

 幸いにして、雨はそう長くは続きそうにはなかった。少し待てば、上がって星空も現れるだろう。


 志勇を廟の中に案内しながら、美雲は回廊の途中で足を止めてふとその顔を見た。少しばかり顔をジッと見ていると、志勇が不思議そうに見つめ返してきた。

「……なにか?」

 そうきかれて、美雲は「いいえ」とすぐに気まずくなって目を逸らす。

「なにか、大切なものをなくされたように見えたので……」

 美雲は師父から、人相や手相といったものの見方も教わってきた。彼の顔は失せ物の相が濃く出ているように思えたのだ。志勇の表情が一瞬強ばったように見えて、すぐに「いえ、なんでもありません。気のせいかもしれませんし」と、言い直した。

 回廊を歩く美雲の耳に、「驚いたな……」と小さな呟きが聞こえた。


 祭壇のある部屋に灯りを灯し、椅子と卓を用意してかけるように促した。お茶と拭くものを用意した後で向かい合って座り、「何を占いましょうか?」と問う。用意したのは、ポエという神託を問う半月状の道具だ。祭祀の時には必ず使う。

  

 長く黙っていた志勇がポツリと口にしたのは、意外なことに縁結びだった。もっと、違うことを問われるかと思っていたのに。

「本当に、それでいいんですか?」 

「ここは月仙廟でしょう? 縁結びの占いをやっているのでは?」

「ええ、そうです……もちろん、そうなんですけど」

 なぜか、釈然としなかつたものの、依頼主がそれを占ってほしいというのだから、それ以上言うことはない。だが、この人がさがしているのは、もっと、別のなにかに思えた。それがなにかを尋ねることは、余計なお節介なように思えてしなかったが。  

 

 それに、占いとはいえ、問うのは依頼主。答えるのは、美雲ではなくこの廟の神様だ。道士である美雲の役目はその仲介役をすること、通訳をすることだ。余計な進言や忠告をすることではない。依頼主は、美雲にその答えや考えを問うているのではないのだから。

 

 手順通りに占いを行ってもらい、出た答えをそのまま告げる。結果はこれまた意外なことに、そう悪くはなかった。それをそのまま志勇に伝える。詳しく、具体的な答えを聞くために、ポエの他に八卦という占いも用いた。筮竹と呼ばれる竹の札が入っている筒を引いて、その札に書かれていることで占う、昔からよくある方法の占いだ。


「ええ、そうですね。近いうちにいい出会いがあると思います。その人とはとても長く縁が続くでしょう……気が合う相手で、幸せを感じられる、楽しい時間を過ごすことができるのではないでしょうか。ただ……超えなくてはいけないこともいくつかあるようです。ですが、それを鴛鴦のように乗り越えていけるはずです」


 竹の札を並べて答えてから、黙って聞いている志勇の表情を確かめる。口元に微笑が浮かんで、さっきよりもちょっとばかり顔色もよく見えた。希望のある占い結果が出たからだろうか。


 魂が抜けているようだったのに、疲れた表情をしながらも、ようやく人らしい表情になっていた。さっきまでは、幽鬼と見まがうばかりだったから。

 

「もう少し詳しく、出会う日や場所なんかも占ってみましょうか?」

 筮竹を片づけながら尋ねると、志勇は「いや」と首を横に振る。

「十分です。ありがとう。礼はこれくらいでいいかな?」

 そう言うと、彼は財布を取り出して、銅銭の束を卓に出してきた。驚いて、「こんなにいただけませんよ!」と押し返す。この十分の一でも多すぎるほどだ。

「いいんです。これで神様にロウソクや線香を買って、私の代わりに供えておいてください。そのほうがいい……きっと、それで少しは報われる気がする」

 

 そう呟いて、彼は帰っていった。

 何が報われるのか、何を失い、何を探していたのか、それもわからずじまいだった。ふらっと立ち寄ってみただけで、もうここに来ることもないだろう。そう思いながら見送ったのに、元宵節が終わって落ち着いた頃、彼はまた廟に現れた。

 

 その時にはまるで憑きものが落ちたように晴れ晴れとしていて、表情が明るくなっていた。それ以来、志勇はこの廟を気に入ったらしく、些細な用事を見つけては足繁く通ってくる。


 まったく困った人だと思う一方で、少しホッとしてもいた。


 彼が自分のことを占ってほしいと言ったのは、あの時一回きりだ。

 だからきっと、彼の悩み事は解決したのだろう。

 

 もしかしたら、なくしたものが見つかったのかもしれない。

 それか、なくしたものにかわるものを、見つけたのか。

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