月仙廟の花婿 妖怪退治は専門外です

春森千依

第1話 また、やってきたお客

 鳶国の北にある都、城京は桃の季節を迎えていた――。


 その都の外れに、月花真君を祀る小さな月仙廟があった。この神様は縁結びや恋愛成就で名が知られており、若い娘や青年、婚期の娘や息子に良縁を祈願する親たちが、たまに足を運んでくる。


 とはいえ、中心街にある名だたる道観や廟とは違い、それほど頻繁に来訪者があるわけでもなく、信者も少ないため、廟は古めかしいまま修繕もされず、朱塗りの柱は禿げて、瓦屋根も一部、崩れていたりもしていた。塀も罅割れが目立ち、この廟の見窄らしさをなおのこと際立たせている。


 ただ、小さな庭に生えた桃の木は立派なもので、桃色と白の二色の愛らしい花びらを枝一杯に咲かせて、通りすがる人の目と鼻を、色と匂いで楽しませていた。すぐ裏手の山から小鳥も訪れるため、物静かな廟内にその鳴き声が木霊している。

 

 さて、このオンボロ廟の門前には、まったくそぐわない漆塗りの立派な馬車が一台停まっていた。御者の青年が暇そうに欠伸をもらし、主の用事が終わるのを気長に待っている。この馬車は、たびたび――いや、かなり頻繁に、この廟の前に停まっていて、近所の人たちにもすっかり覚えられていた。ただ、その主については、見かけたことがない者が多く、いったい誰の車だろうと密かに噂にもなっている。


「美雲! 助けてくれ、深刻な事態なんだ」

 そう言いながら廟に駆け込んできた青年を見て、洗濯の最中であった少女は「またですか……」とうんざりしたようにため息を吐いた。


 十七才になる、まだ顔立ちにあどけなさを残したこの少女は、夏美雲。これでも、この廟を管理している女道士だ。というか、この廟には彼女以外に住んでいる〝人間〟はいない。五才の時に師父に弟子入りし、今に至る。師父が三年ほど前に他界してからは、一人でこの廟を切り盛りしてきた。近所の人たちには、親しみを持って『美雲ちゃん』と呼ばれている。


 もうすぐ、日が高くなる。それまでに洗濯を終えて、昼食を作り、午後からはお供え物の菓子を作る予定でいた。いくらオンボロの廟でも、やることは山ほどあって、ゆっくり腰を下ろして木陰でお茶を飲んでいる暇もない。それなのに、忙しい時に限って、この客人はやってくる。


 その客人とは――実のところ素性はよく知らない。高身長、美形、その上着ているものは上等品ばかり。履から冠に至るまでピカピカで、服装も洒落ている。今風の風流人といったところだ。こんな昼間からフラフラ出歩いているということは、官吏というわけではないのだろう。となれば、お金持ちの商家のお坊ちゃんか、官職に就いていない名家の放蕩息子だろうか。


 知っているのは彼の名前くらいだ。李志勇。その苗字と名前が本名なのかは知らない。そう名乗っているのだから、そうなのだろう。李という苗字はあまりにもよくある苗字で、どこの家の人なのかそれだけで推測するのは難しかった。

 

 この青年は、今年の正月に廟を訪れて以来、足繁く通ってくる。すっかりここを気に入っているらしく、困ったことがあると駆け込み寺よろしく、やってくる。美雲は洗濯物をギュッと絞って水を切り、隣の桶に入れて立ち上がった。

「今日はいったい、なんなんです?」

 一応、そう尋ねながら回廊に張っている細い縄に洗濯物を干していく。

 

 背が低く、縄の位置が少し高いため、背伸びをしないと届かない。いつもは踏み台を使うのだが、客人がいる手前、取りに行くのも面倒だった。志勇は話を聞いてやるまで張りついていて、すぐには帰ってくれはしないだろう。


「それが、深刻な問題が生じたんだ。もちろん、報酬はどかんっとはずむとも!」

 志勇は胸をドンッと叩いて見せる。それから、背伸びして苦心している美雲の代わりに、洗濯物をひょい、ひょいと、引っかけてくれた。


 仕事を手伝えば、すぐにでも相談にのってもらえると思ったのだろう。

 美雲は「しょうがないな」と、ため息を吐いて空になった桶を抱える。話を聞いてもらえると分かった途端に、彼はニパッと笑みを浮かべた。それが人なつっこい子犬のようで、ついほだされてしまう。

(顔が無駄にいいっていうのも、考えものよね)


 そう思いながら、美雲は志勇に正面の部屋で待つように伝えて、奥の小門をくぐる。こんな前掛けをした恰好で話を聞くわけにはいかない。依頼主の志勇に対してというよりも、神様に失礼だ。

 

 廟の奥にある居室で着替え直し、顔や手を洗って、髪を後ろでひとまとめにして簪で束ねる。道具を用意して廟の正面の部屋に向かうと、志勇は祭壇を興味深そうに眺めたり、お供えものの干した果物や、お菓子を摘まんでみていた。


「それは、神様のお供えものですよ。あなたのはこっちです」

 注意して、部屋の脇に置いてある古い正方形の卓に茶器と菓子を置いた。その両脇には椅子が置かれている。

 志勇は椅子に腰を下ろすと、立ったままお茶をいれる美雲の手つきを興味深そうに眺めていた。「はい、どうぞ」と袖を押さえながら、彼の前に受け皿と蓋のついた湯飲みを置く。小さな皿にとりわけた菓子も添えた。

 蓋を開いてお茶の香りを嗅いだ志勇は、「実にいい匂いだ」と満足そうに微笑んだ。


「君のいれてくれるお茶はどうしてこんなに香りがいいんだろうね。他で飲んだお茶はこれほどおいしくはないよ。さては上等の茶葉を使っているんだな」

「いいえ、安売りのどこにでも売ってあるお茶です。うちには上等の茶葉を買うような余裕なんてないんですから」

 愛想なく答えて、美雲は椅子に腰をかけ、卓を挟んで向き合う。志勇は軽くむせた後で、自分の胸を叩きながら「それじゃあ、きっと……君の手に秘密があるんだ」と笑っていた。

「なんの秘密もありません。どこにでもある普通の手ですから!」

 美雲は自分の手を開いて志雲に見せた。


「そうかな? 細くて綺麗な手だ。後宮の宮妃にも負けない」

 志勇が美雲の手を取り、指先をするっと撫でたものだから、驚いてすぐに手を引っ込める。そうだった、この人は油断するとすぐに口説くような甘い台詞を吐くのだ。


 つい赤くなりそうになって、「後宮の宮妃様の手なんて、見たことがあるんですか?」と誤魔化すように尋ねる。

 志勇は笑うだけで返事はせず、お茶を一口飲んで菓子を摘まむ。甘い物が好きらしく、美味しそうに頬が緩んでいた。


 お茶菓子を食べにきたわけではないだろう。美雲は「それで、相談って何です?」と、本題に入った。前回は逃げたオウムの居場所を占ってくれと言ってきた。その前は知り合いの女性と女性がケンカをして、ほとほと困り果てている。どうしたらいいだろうという相談だった。きっと、今回もそんな内容だろう。


「それが、実は……」

「その前に! うちは縁結びと結婚祈願の廟なんですからね。それに関係ないことであれば、他を当たってください。占いなら、中心街の龍王廟でもやっているんですから。そっちの方が御利益があるし、きっと占ってもらえますよ」

 龍王廟はこの都で一番大きな廟で、全国各地から信者が集まってくる。廟も立派で、道士も大勢いるのだ。それに、龍王廟は多くの神様を祀っているから、あらゆる願いに対応している。


 チラッと見れば、志勇は「いやぁ、このお菓子も美味しいなあ」と話をはぐらかしていた。聞いていないのは明白だ。その態度にイラッとして、美雲は「どうして、この廟にばかりやってくるんです?」と顔をしかめた。

 この青年が廟にやってくるのは、十回目くらいだろうか。いや、もっと頻繁にやってきている気がする。


「うーん……それはやっぱり、占いが当たるから! あと、この廟が気に入っているんだ。ここに来れば、いい運気に恵まれそうな気がするし縁起もいい。でも、願い事を聞いてもらうためには、まずは、ここの神様によく名前を覚えてもらう必要があるだろう?」

「だからって、よくわからない相談事ばかりされても困るんです。私では解決できないことも多いんですから」


「よくわからない相談事じゃない。重要な相談事だ」

 うまく質問をかわされて、美雲はぐぅと言葉に詰まる。その上、「もちろん、報酬ははずむよ」と言われれば断る理由もなくなる。

 報酬は正直、ありがたい。このオンボロ廟を維持していくためにも、現世のお金は必要だ。「ううっ、なんだか足下見られてる気がする!」と、拳を握って呟く。

 

「わかりました。お話は伺います。ですが、あまり期待しないでくださいね」

「それでいいとも! 実はね……」

 椅子を引き寄せ、志勇は卓に肘をついて顔を寄せてくる。

「知り合いの屋敷に……妖怪が現れたんだ」

「…………妖怪?」

 思わず聞き返すと、彼は真剣な表情で頷く。さらにグイッと寄ってくると、「そう、女の妖怪だ……それも一人じゃない」と声を潜めた。美雲と志勇はお互いに見つめ合う。息がかかるほど顔が近かった。すぐにハッとして顔を離すと、美雲は正気に戻れと自分の心に念じてプルプルと頭を振る。


「それも、飛びきり美しい女の妖怪だそうだ」

「……どうして、妖怪だとわかるんです?」

 怪訝な顔をして尋ねると、志勇も顔を引っ込めて肩を竦める。

「その女たちが現れたのは夜更け。それも、その部屋は無人の部屋だからさ」

「それだけじゃ、妖怪とはわからないでしょう? もしかしたら、夜中に騒ぎたい女の子たちが集まっているのかも」


「目撃者がいるんだよ。その者の話では、夜回りをしていると無人のはずのその部屋に灯りが点いている。不審に思って近付いていくと、中から笑い声が聞こえてくるんだ。楽しそうな女たちの笑い声だ。その夜回りをしていた内……者は、不審に思って少しばかり扉を開いて、中に誰がいるのか確かめようとした。すると、美しい衣をまとった天女のような女たちが戯れている。その者は男だったから、当然うっとり見とれてしまっていた。だけど、すぐにおかしなことに気付いたんだ。その女たちの影は、ウネウネと細い体をくねらせる大蛇のようだったと……こいつは、妖怪に違いないと悲鳴を上げて逃げようとした瞬間、女たちが気付いた」


 志勇は次の瞬間、「わっ!」と驚かすように大きな声を上げる。「きゃあっ!」と、思わず悲鳴を上げた美雲の椅子が傾いて、ガタッと音を立てた。危うく椅子ごとひっくり返るところだった。バクバクしている心臓に手をやって、「悪ふざけするなら、もう話は聞きません!」と怒ってみせる。


 志勇は愉快そうに肩を揺らしながら笑っていた。

「ごめん、ごめん。ちょっと話を盛り上げようとしたんだ」

「どうせ、私を驚かせるための作り話なのでしょう。その手にはのりません。お帰りください!」

 椅子を直して背筋を正すと、美雲は扉をビシッと指差した。

「作り話ではないよ! 本当さ。その者が逃げようとした時、生臭い風がビュッと吹いて扉を壊していったんだ。その目撃者は中庭で気を失っていて、翌朝になって発見された」


「まさか……亡くなったんじゃないでしょう?」

「生きてるよ。そうでなければ目撃証言は得られないじゃないか。ただ、すっかり魂を抜かれたみたいにボーッとしている。これが妖怪の仕業じゃないとしたら、なんの仕業だって言うんだ? そうだろう? だから、僕がこうして君の元に相談にやってきた。廟に妖怪祓いを頼むのは、何もおかしいことじゃない」


「最初にも言いましたけど、うちの廟で祀っているのは、縁結びの神様なんです。妖怪祓いなら、やっぱり龍山廟か、善徳寺にどうぞ。どちらも妖怪祓いや、悪霊祓いをやっていますから。うちは、とにかく縁結びの廟なんです。縁結び、結婚のこと以外は、お断りします!」

 強く言って立ち上がろうとしたが、その手がパッとつかまれる。

「君に頼みたいんだ。いいや、君にしか頼めない。君は私が見込んだ人なんだ」

 志勇は美雲の手を取ったまま、見つめてくる。その真剣な眼差しに、断る言葉が喉につっかえてしまう。指先が痺れたように感じて、美雲は彼の手を解いた。


「君は厄払いや、悪鬼祓いのお札も売っているじゃないか!」

「それは……お札を書くくらいはできますけど……専門じゃありませんよ」

「それで十分! 君の書いてくれたお札なら、効力はきっと抜群だ。妖怪だって、すぐに退散するさ。報酬は……これくらいは用意しよう」

 志勇は懐に手をいれて刺繍入りの巾着を取り出すと、中から紙幣の束を取り出す。それをどんっと置かれて、美雲は目が飛び出そうなほどびっくりした。

(こ、こんなにあれば、雨漏りがする廟の屋根も直せるわ……それどころか、墨や紙もたくさん買えるし、お供え物ももっと豪華にできるかも!)


 少しでも廟が立派になれば、訪れてくれる人も、寄附をしてくれる人も増えるかもしれない。つい、目が眩みそうになって、プルプルと頭を振った。


「いいえ、お断りします! 私はこれでも神に奉仕する身。欲たましくお金につられたりしません」

 美雲は胸に手をやって、目を瞑りながら誓うように答える。お金ほしさに、よくわからない妖怪退治の依頼なんて受けられない。この世には関わってはいけないものが三つあると、師父も言っていた。一つは王侯貴族、一つは妖怪、一つは高利貸しだ。


「そうか……残念だ。成功したあかつきにはこれくらい、出そうと思っていたんだけど」

 困った顔をしながら志勇はさらに札束を積む。見透かしたように、ニヤーッと口元が笑っていた。この廟がお金に困っているのなんて、立て付けの悪い門を見れば一目瞭然だ。

「これでも不満とは……よっぽどお金に困っているんだな。それなら……」

 これでどうだとばかりに、懐から取り出した金の延べ板をポンッと卓に置く。


 本物の金だ――。

 これがあれば、廟の壁も塗り替えられるし、門だって修繕できる。

 クラッと立ちくらみしそうになり、美雲はグイッとその金の延べ板を彼の手に突き返した。


「いくら、積まれたって、金を出されたって……ダメなものはダメなんです!」

 美雲は金の延べ板と一緒に、志勇の手もがっしりつかむ。見れば誘惑されてしまいそうな気がして、ギュッと目も瞑った。


「そのわりには、手は正直にほしいと言っているようだけどね」

 そう言われて、バッと手を離して両手で万歳をする。

「ほ、ほしくなんて、ありませんよ……」

「そう?」

 志勇は意地悪く、金の延べ板を右に、左にゆっくりと動かして見せる。美雲の目はついそれを追ってしまっていた。ため息を吐くと、「もう、わかりました!」と降参したように手を下ろす。


「依頼はお受けします。ただし、お金は……成功してからいただきます! 私だって、妖怪退治なんてそう経験があることじゃないんですもの。本当に妖怪の仕業なのかどうかもわからないし……だから、とにかく確かめてみないと」

 その目撃者が夢を見たとか、何かを見間違えたということもあるだろう。むしろ、世の中の怪異の大半は、そんなところだ。もし、簡単に解決する依頼なら、金なんていただけない。


「それでいいとも! やっぱり、君は頼りになる。あっ、必要なものがあるなら、いくらでも言ってくれ。すぐに用意させるよ」

 こうなることはすっかり分かっていたとばかりに、志勇は上機嫌で言う。犬が愛想良く尻尾を振っているみたいに見えて、怒る気にもなれなかった。


「私も準備があるので、今日すぐにでもというわけにはいきませんよ?」

「じゃあ、いつがいいんだろう? 明日かな? 明後日かな? 私が迎えに来るよ」

「……明後日。その日でよければ。きっと夜に現れるでしょうから、お屋敷に泊まらなければならなくなりますよ。そのお屋敷の主人にちゃんと言っておいてくださいね」

「もちろん。私はその人の依頼で、来ているんだから、反対されることはない」

 話がまとまると、志勇はお茶を全部飲み干してから、立ち上がった。


 一緒に部屋を出て、小さな中庭を歩く。依頼主でお客なんだから、せめて廟の外までは見送ろうと思ったのだ。

 志勇が足を止めたのは、花盛りの桃の木の側だ。

「満開だ。美しいな」

 風が吹くと、花びらが舞う。光がこぼれている桃の木を、彼は見上げて目を細めていた。その表情に、美雲はほんの一瞬見とれてしまう。

 綺麗なのは、この人だと心の中で思う。けれど、すぐに彼に引き寄せられそうになる自分の意識を引っ張り戻し、プルプルと頭を振った。


 落ちていた枝を拾うと、「よければどうぞ。桃の枝は邪を退けるんです」と彼に差し出す。風で折れたのだろう。枝には花びらがたくさんついていた。 

 志勇は少し驚いて美雲を見てから、微笑んでその枝を受け取る。


「君に出会った日のことを思い出した」

「……いい人には出会えたのですか?」

「ああ……たぶんね。運命の人じゃないかと思う」

 彼の言葉に、美雲は「そうですか」と目を逸らして歩き出す。

 門を出たところで、彼が振り返った。

「じゃあ、明後日の朝には迎えに来よう」

「ええ……」

 急に髪に手を伸ばしてくるから、美雲はビクッとした。髪についていた桃の花びらをとると、彼は笑う。その花びらは手を開いた瞬間、風に飛ばされてしまっていた。

 

 走り出した馬車を見送ってから、門の敷居を跨いで廟内に戻る。

(出会った日のこと……か)

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