第18話 彼から逃げて


「はぁ……」


 マキラは一人。

 バザールにある食堂で、食事をとっていた。

 とは言っても、市場で買ったぶどうを少しだけ。

 食欲は全く無い。

 それでも食べなければと、無理して食べているのだ。

 

「はぁ……」


 逃げられるだけ、逃げようと一心不乱に距離だけ稼いだ。

 女の一人旅は危険だ。

 いつも警戒し、気を緩ませてはいけない。

 だから心身ともに疲弊している。


「今日は……いい宿に泊まろ……お酒も飲みたいし……」


 フラフラと頭からマントをかぶって、一粒のぶどうだけ飲み込んだ。

 しかしこの街も、至る所に覇王生誕祝いのガーランドや旗が飾ってある。


「……覇王……」


 この地域は、女性を守る運動が盛んなようで、女性一人でも安心して泊まれる宿が少しだがある。

 それを聞いて、此処までやってきたのだ。

 だけどそれも、覇王が起こした政策の一部だという。


「この世界の覇王様なんだもの……どこ行ったって覇王様の影はあるわ。ないとこなんか、ないわよね……」


 綺麗でしっかり施錠された女性専用の宿屋。

 そこで久しぶりにお酒を飲んだ。

 逃げるのは嫌い……なのにまた、逃げている。

 そしてお酒にも逃げている。

 だけど、今は心を逃さなきゃ、明日を上手に生きられない。


 シィーンが、覇王ガザルシィーンだった……。


「お金持ちで家が豪華絢爛に決まってる……覇王様なんだから……仔虎を飼ってるのだって普通よね……覇王様なんだから……強いのだって……覇王様なんだから……素手でだって狼男を倒せちゃうわよね」


 グビグビと酒が染み込んで、涙が溢れてくる。


「なんで覇王様が、あんな河原にいたのよ! 世界各国の美女だっていくらでも手に入れ放題なのに……なんで、なんで……なんで私なんかに……私なんか……に……」


 近づかないで欲しかった。

 愛さないで欲しかった。


 あの姫にどれだけ口汚く罵られても、マキラにはシィーンの愛が本物だとわかっている。

 遊びで、遊女として傍において、からかっていたわけではない。

 それがわかっている。


 あの愛は本物。


 だからこそ、無理だ。


 心に渦巻く、亡国の王女としての自分が、愛を拒絶している。

 複雑な感情。

 世界平和をもっと早くに実現してほしかった……ただの八つ当たりだ。

 だけど、そんな気持ちを失くして綺麗な心だけで生き残るのは無理だった。

 

 今の世界平和の影で、沢山の血の亡霊が渦巻いている。

 そこに死んだ母も、自国民もいて、マキラの心の半分は、まだ戦乱の世にいるのだ……。

 

 覇王には感謝しなくてはいけないのに、そんなねじ曲がった恨みを持っている自分が覇王の傍にいることなど許されない。

 亡国の王女などが、傍にいていいわけがない。

 

 何よりあの姫と、婚約を結ばなければいけない関係であるのは本当なのだろう。

 それはもう世界に関わる婚姻になる――そんな間に入れるわけがない。


 覇王と滅びた国の王女が、結ばれるわけにはいかないのだ。


 だけど……マキラの瞳から涙が溢れる。


「シィーン……」


 涙が溢れるのは、無理矢理引きちぎった心が辛く痛むから。

 深く深く、愛した男の秘密。

 裏切られたわけではない。

 自分が聞かなかったから悪いのだ。


 それでも逃げるしかできなかった。

 それでも、あの愛の日々を思い出してしまう。


 もう失ってしまった愛が、心を引き裂くように辛い。

 何もかも初めての経験だった。


 うわべだけでわかったふりをして、恋に悩む女性たちにアドバイスをしてきてしまったんだと思い知る。


「ううっ……うわぁああ!」


 愛の絶頂からの転落が、これほどまでに辛いものだとは……。

 

 辛い、辛い……絶望。

 

 マキラは泣いて泣いて、泣いても涙は枯れなかった。


 そして、またマキラは旅に出る。

 自分の未来はわからないが、勘は当たる。

 風を読み、もう急ぐことはないと……楽な旅路を選んだ。


 港町の海が綺麗で、マキラは少しそこで滞在することにした。

 まだ宿住まいだが、女将に了解を得て食堂で占いを始めると、宿代くらいは稼げるようになってきたのだ。

 そこで侍女に手紙を出した。


 シィーンの宮殿から飛び出して、一ヶ月ほど経った頃だった。


「……君……もしかして、エフェーミアじゃないかい……?」


 食堂で占いが終わり、もう部屋へ戻ろうとした時だった。

 一人の男に声をかけられたのだが、驚いて腰の短剣へ手をやる。


「誰……!?」

 

 『エフェーミア』それはマキラの王女としての名だったからだ。


「待って! 僕は君の従兄弟のウィンタールだよ……!」


 小声ながらも彼は叫ぶ。

 食堂にはもう人はいないし、台所で片付けをしている女将たちには聞かれていない。


「……ウィンタール……? ウィン兄さんなの……?」


「生きていたんだね! 驚いたよ……まさか」


「しーっ! こんな場所でよしましょう」


「ここの宿泊客? 積もる話をしようじゃないかエフェーミア……僕の婚約者よ」


 ウィンタールは白い肌のまま、にっこりと歯を見せて笑った。

 全然、爽やかでもなく、いやらしさを感じる笑みだった。



 

 

 

 


 


  

  

   

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