第3話
姉が車の免許を取った。自分で働いて車も買った。トヨタのスプリンタークーペだ。身体がでかいので、車が小さく見えた。姉は運動神経も、頭も飛びっきり良い。だのに何故か、今だに左右の区別がつかない。初心者マークの車に乗せてもらうのは、うんと勇気がいる。
私が「次の信号を右だよ」と言う。
「わかってるわよ」と、すまして左に曲がってしうのが彼女である。「右だってば…」の私の声に、姉は、「キョトン」としている。私は黙ってその様子をうかがっていると、しばらく走ってから「ウヒャーッヒャッ……」と髪を振り乱して大笑いするのだ。正にこの人は美しき怪物だ。私もいよいよ社会に出て、直ぐに車の免許を取得した。そして姉の車を我が物顔で乗りまわしていた。姉は電車で職場に通い、私は車で通勤した。毎日乗った。気の合う友人D子とよくドライブに行った。D子と、どこかへ行くと必ずや何かアクシデントがある。彼女を乗せて中央道を走っていて、とてつもない集中豪雨にあった。豪雨と周りのトラックの飛沫で五メートル前方が見えない。硬直状態で運転した。ある時は、伊豆へ行く途中、百四十キロのスピードで対向車と正面衝突しそうになった。衝突寸前で交わした時は、さすがに足がいつまでも震えていた。私はD子を助手席に乗せて、何の疑いもなく反対車線を走っていたのだ。てっきり二車線道路だと思っていた。カーブで対向車に追突しそうになって慌てた。後ろからもグリーンのバイオレットが接近していて、その車の急ブレーキの音がもの凄かった。私は少しのブレーキとハンドル操作でかろうじて避けた。よく避けられたと思う。対向車の車種は、急に目の前に現れたので判らなかった。この時は完全に死ぬと思った。今でもその時の光景を思い出すとプルプルっとくる。何時かは横浜へドライブに行った時、坂下の豆腐屋の角に危なく突っ込みそうになって、私もおかしさと恥ずかしさで笑いが止まらず運転どころではなかった。なにしろ豆腐屋の角だと気づいた時から、二人の笑いが止まらない。サイドブレーキを外すと、ズルズルっと豆腐屋目がけてスプリンターが落ちて行くのだ。おかしくておかしくて、どうにも笑いが止まらなくてハンドルが切れない。とにかく速くバックしたいと思うのに、どうしても出来ない。あーぶつかる…ぶつかったら「でかい女」にどやされるー。豆腐屋の角にたくさん人が集まって来て、こちらを見て笑っている。恥ずかしいやら、おかしいやら…。そこへ豆腐屋の主人がニコニコしながら出てきて、運転を変わってくれて難を逃れた。本当に知らない土地で良かった。
ある時は調子にのって、前の車にぶつけてしまったこともある。弁償が大変だった。暴走族とのカーチェイスも何度か経験した。甲州街道で暴走族にからかわれて、心底青くなったのを覚えている。私は調布方面から新宿に向かって走っていた。私の車の前に族車(暴走族の車)が一台いる。ふと気が付くと後ろにも何台かいる。ありゃー、これはいかんなー、この場をどう乗り切ろうか懸命に考えた。役には立たないと思ったけれど、とりあえず窓を閉めてドアロックをした。D子がとなりに乗っていれば心強いけれど、この時は一人だったので少し怖かった。今は何と言うか知らないけれど、当時「しゃこたん」と言って、車高を低くしてショックを固め、マフラーに穴を開けて大きな音が出るように改造してある族車だった。前車は真っ黒なローレルで、後車は白のサバンナ。その後ろは、黄色のセレステだった。そして気が付くと、私の左右に二人乗りのカワサキとホンダのバイク族がいた。当然仲間である。私は完全に囲まれていて、動きが取れない。その内に走行中、事もあろうに二人乗りバイクの後ろに乗っている男がスプリンターの横腹をゴンと蹴り飛ばしたのだ。よく自分達がひっくり返らないもんだ。凹んだかな…私は自分の血のけが引くのがよく判った。このやろーと思っても一人では太刀打ち出来ないし、逃げるしかないと思った。しかし逃げようにも、前にも後ろにも横にもいる訳で、どうしていいか分からなかった。テレビドラマや小説ではこういう時、警察や正義の見方が助けてくれるけど、そんなうない具体にはいくわけない。それ程スピードは出ていないし…、一か八か…運転席側の窓を少し開けて
「ねー、私さー、急いでるんだー通してくれなーい」なんて優しくにこやかに声をかけてみた。すると、左側面にまた蹴りが飛んできた。ひぇーと思ったと同時に、急激に前のローレルが右折斜線に入ってきた他の乗用車を無視して環状八号線の方に右折した。私もその右折斜線の乗用車も動揺した。そうして他の族車も後について環八へ向かってヴォーバババーと行った。パラリラ、パラリラとラッパ音を発している。やっかましいったらない。バイクの連中も蛇行しながらゆっくり流れて行った。あー助かった。私はその交差点を過ぎた所まで行って、車を左の路肩に寄せて止まった。おもいっきり深呼吸をして振り返ってみると、いるわいるわ何台も何台も繋がって族車が環八へ向かって行った。車もバイクもうじょうじょ…。凄まじい音を立てて後ろから後から行く族車の繋がりを見て、私は腰を抜かしそうだった。死ぬまではいかないにしても、この体験はかなりの迫力だった。運転も乱暴だし、いろんな経験をしているから、姉よりは名ドライバーと自負している。特に車庫入れは姉より旨い。姉は普通に走行していても左右の区別がつかない所、バックでの車庫入れは大の苦手で、ハンドルとタイヤの相関関係がまったく判っていないようだ。毎日々の車庫入れはそりゃー大変で、それこそ切り返しの連続である。それに比べて私は百発百中、それは見事なものである。ある時、彼女の車庫入れを家の中から見ていて、そのあまりの不憫さに私が代わりにと思って「ねぇーねぇー私が、入れようか?」と言った時には、「妹ごときに」と言わんばかりに顔をひきつらせ、がんとして運転席から降りようとしなかった。仕方なく、私が誘導係に回って「右オーライ、左にきって…」と手招きを交え姉に声をかけた。そのトタン!「ガリ・ガリッッ………バキッ」ついにやってしまった。家の垣根はもう、悲惨なもの「だから左にきってって言ったじゃない!」と私が言うと姉は一言も言わず、すごすごと家の中へ消えていった。その時の形相たるや……。
家に入った姉は、私に腹を立てているのだろうか、はたまた自分の運転の未熟さに自分自身で腹を立てているのだろうか、とにかくご機嫌が悪い。彼女は「自分自身」を信じて疑わない。自分を信じきっている。何しろ、つい最近までライオンのメスが、トラだと信じきっていたのだから・・・。「トラってライオンのメスじゃなかったのー?」と彼女が言った時の父親は、なんとも言えない情けないがっくりした顔をして、しばらく立ち直れないでいた。
ある夏の日、姉と従妹姉妹のI子と三人で「佐渡」にドライブ旅行に行くことになった。佐渡には私達が子供の頃、隣に住んでいた「おにいちゃん」が家族と暮らしている。そこへみんなで押し掛けようというのだ。しかし私にとって、姉の運転で行くのは不本意である。だが、なんといっても車の持ち主は姉だ。仕方なく私達は彼女の運転で出発した。女性特有の「もどかしい」運転をしていたが、以前よりは少々上達したようだ。それもそう、最近姉はゴルフに毎週のように車で出掛けるようになったからだ。少しは運転の経験も豊富になった訳である。私は心の中で、「運転したい、したい」と思っていた。だけど、それを言葉にした時の姉の顔を想像すると・・・。ついに私は口に出せずに我慢した。二時間程走った頃、姉の方から「運転したいなら、変わってあげるわよ」と言ってきた。「疲れたから変わって欲しい」と言えば可愛いのになぁ・・・と思う。しかしそんな事はどうでもいい。やっと運転席に座れるのだ。夜も更けて山道へ入った頃、凄い霧が立ち込めてきた。見通しが悪く、我らがスプリンターのライトもあまり役に立っていない。なんとなく幽霊でも出そうな感じだ。どこから沸いて来たのか、スプリンターの後ろに車がピタリと張り付いた。ドッキンと心臓が鳴った。初めはパトカーかと思ったけど、様子が違う。またきっと暴走族だろう。ルームミラーいっぱいに後車のライトが写って眩しい。後車はパッシングしてきた。かなり接近している。助手席の姉も後部座席のI子もウトウトしていたところだったのに、車の急激なスピードアップに、びっくりして目を覚ましてしまった。細くて曲がりくねった見通しの悪い山道を、かなりのスピードで飛ばしので、二人とも寝ていられっこない。後車のライトが、スプリンターのテールにピッタリ張り付いている。敵もなかなかやるぞ。神様、せめて霧を晴らしてくださいと祈ったりした。ブレーキを踏んだらどうなるだろう。しかし、こんな山奥で事故を起こしたら悲惨だ。ここにD子がいたら、九分九厘「振り切れ」と言う。ちょっと驚かしてみようか…と私の中の冒険心が騒ぐ。勇気を出してフットブレーキを軽く踏んでスピードを落とした。やっぱり後車はブレーキランプに驚いて大慌て、一気にカーブ一つ遅れた。スピードを落としたまま様子を伺っていると、今度はスプリンターの運転席側へ横付けにしてきた。とんでもない
新潟港からカーフェリーに乗って佐渡の「両津港」に到着した。「おにいちゃん」が港まで迎えに来てくれていた。随分「おにいちゃん」は「おじさん」になっていた。お鮨屋さんで新鮮なお魚、カニ、あわび等のご馳走をたらふく食べさせてくれた。生ものが苦手なI子は、可哀そうにタクワン巻きを食べていた。そしてスナックへ行って初めてカラオケを体験した。気持ちのいいもんだ。本場の佐渡おけさ見物、珍しい朝ごはん(麦茶の味のおかゆ)美しい海と空、「おにいちゃん」の家族の温かいおもてなしを丸二日間満喫した。そして三人は、再びスプリンターに乗り込み本土へ向かった。また私は彼女に「運転が乱暴だ」と言われて、運転席を降ろされてしまった。交替して間もなく彼女は「追越禁止」区域で、大量の排気ガスを振り撒いてゆっくり走る大型トラックを抜いた。あ……。運悪く近くに隠れていた白バイに、あっさりと掴まってしまった。でかい女は要領が悪い。…本当に交替して三分も走らない内にあっけなく……。だから私が運転していた方が良かったのだ。…なぜなら…。噂話だからウソか本当か知らないけれど「地元の警察」と、いくつかの業者がグルになって、トラックや特種自動車に「追越禁止」区域をわざとゆっくり走らせて、後ろの車がそろそろ追い抜きたくなりそうな場所で白バイが隠れて待っている。そして、ついにも「のろのろ」に我慢が出来ずにトラックを追い抜いた車(特に余所者)から罰金を取って警察の財布を暖める場合があるという話を聞いたことがある。乱暴な運転で、違反という違反をして走行していても、へんにゆっくり走っている怪しげなトラックには気を付けなければならないのである。様々な状況判断がものを言うのだ。だから私が運転していたら、警察の餌食にはならなかっただろう。彼女は白バイの警官相手に言い訳をしている。「排気ガスがひどくて」とか「前のトラックが「先に行け」と合図を送ってくれたので」とか…、色々頑張って言い訳をしているが通じないようだ。警察はそんなに甘かーない。もし、業者と警察がグルであったとしたら、そのトラックが「先に行け」と手招きしたのが尚のこと怪しげである。そして頷ける訳だ。普段さっそうとしている彼女が、警察官にピョコピョコと大きな頭を下げている。その姿が実に可愛かった。おきのどくさま!心の中は、ざまあみろだったかもしれない。
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