第三十章 誘惑

御狐神様を追って辿り着いた先は夜の月読宮の寝所だった。


御狐神様は白装束に身を包み、月読様の濡れた髪を乾かしながら櫛を通している。


「今宵の湯加減はいかがでしたか、月読様。花を浮かべたのは正解でしたね。今も良い香りが残っております」


「確かにとても良い香りだった。あの発案はそなたか?」


「はい」


「風情があってとても良かった。今宵の香はなんだ。少し甘みが強いな。エキゾチックでここではあまり嗅ぎ慣れない香りだが」


茉莉花ジャスミン丁子クローブ、イランイランにございます」


「……なぜ、その組み合わせなのだ」


月読様は、手に持っていた書物をゆっくり床に置き、いぶかしげに御狐神様の方に振り向く。 


「催淫効果があるからでございます」


次の瞬間、月読様は押し倒され、御狐神様に強引に唇を奪われる。


月読様は驚きのあまり声が出せず、突然の口腔の刺激にビクリと仰け反る。


さすが、勉強熱心な御狐神様は舌の動きも研究していて、月読様は六秒も唇を重ねていないのに下肢に反応を示してしまった。


「香の効き目が早いですね」


「そんなわけあるろうか。そなたの舌が……っ、こんな品のないこと、どこで習った!我は教えていないぞ」


月読様の低い声に御狐神様はビクリと肩をすくめる。


少し震えながらも、勇気を振り絞って月読様に訴えた。


「お小姓にもこのような仕事があると読みました」


「誰の入れ知恵だ」


「誰のものでも。ただ、私は月読様に喜んでもらいたくて……」


「嘘をつけ。私はこういったものに触れぬよう、そういった情報はそなたから遠ざけた。なぜだ……一体誰が!!」 


月読様は、御狐神様の棚や引き出しを乱暴にあける。


そして、例の性に関してかき集めたものを発見し、震えた手でそれらをめくり無言で目を通す。


「月読様……?」


「誰に教わった」


「ですから……!」


弁明しようと手を伸ばす御狐神様の手を払い、月読様は、叫ぶ。


「このような手管てくだ、実践以外でそうそう身につくものではない!誰と寝た!」


御狐神様は混乱に耳がたれ、尻尾も緊張に巻き、ふるふると子犬のように震える。


「誰ともしていません……私は月読様だけの……」


「こんなもの集めて、けがらわしい!!」


まとめられた資料が床へと散らばる。


それはまるで、月読様のもとで初めてお給仕の仕事を任された時とび散った、口噛み酒の酒器のようだった。


その後、御狐神様の記憶は曖昧なのだろうか、画面がぼやけ曖昧な画像が流れるままで、時々映像にノイズが走る。


ただ、湯浴みにも寝所にも近づけさせるなと、月読様の命令が聞こえてくるのと、数週間の謹慎が言い渡されるのが割れた音声から聞こえる。


私はおそろしくなって、紫月様と蒼紫様の方をみた。


紫月様は苦虫を噛み潰した顔で、唇をかしかしと噛んでいた。


「最悪だ、見ろ。蟲が画面へと集まっていく」


ーー私は汚い。汚い……汚い。


歪みながらも再びついた画面から、御狐神様の声が聞こえる。


そして、我々の立っていた砂利道の空間は真っ白に変わり、その真ん中には痩せ細った御狐神様が跪いて座っていた。


何度も何度も手を洗う仕草をして、口をすすぎ、赤ぎれるほどになっている。


その唇は、紅く、まるで紅を塗ったようになり、細めた目は空をみつめていた。


そんな中、みつめていた空の先に蟲たちが集まる。


そして、その中心から浅黒い男が現れた。


「ヴィナーヤカ!!」


ヴィナーヤカは小さく笑いながら御狐神様に近づき囁く。


「可哀想に……捨てられたのかい?君はこんなにも優秀で綺麗で、魅惑的なのにねぇ」


私と蒼紫様は咄嗟に手を繋ぎ、一体化したのを確認すると、指輪を外しヴァジュラを具現化する。


紫月様は踏み出そうとする私たちにまだだと言って手で制す。


「ヴィナーヤカ……うちに何かようでっしゃろか」


「ようも何も、迎えにきた。オマエの価値を分からない奴より、オレの方が可愛がってやれるぜ?」


驚いたことに、ヴィナーヤカは、烏兎の姿へと変化した。  


烏兎は、ヴィナーヤカの仮の姿だったのだ。


その後も、ヴィナーヤカは、月読様の姿をも模った。


もちろん、肌の色だけは浅黒いまま。


月読様の内側から発光するかのような陶器のような肌は、それだけの高い光の神気がないと再現できない。


しかし、そっくりな姿での声や口調、雰囲気だけは真似できる。


「どうせ月読を手に入れるなど叶わぬ夢。であるならば、我と甘い夢を見ようではないか」


御狐神様は陶酔したかのような目でヴィナーヤカをみる。


「良きに。……うちは、ほんに穢らわしいことがだいっ好きなんでっしゃろしぃ、気持ちようしてたもれ」


ヴィナーヤカが小さく笑い唇を御狐神様に唇を落とそうとした瞬間


「触るでないわ、穢らわしい!」


こう叫んだのは御狐神様だった。


そして、ヴィナーヤカの口から血が一筋こぼれ落ちるのが見えた。


よくみると、御狐神様は月の家紋の入った脇差を月読扮するヴィナーヤカの腹に深く差し込んでいたのだった。


「いつだって、うちの命は月読様のもの。月読様がうちをお捨てになっても変わら好きや!!……私は月読様の小姓。月読様がみたいという紫月様のめざす浄化された世界、私がみせてさしあげるんです!!だから……神樂様、歓喜天様!紫月様!!」


御狐神様の叫びと共に、私たちは走り出す。


そして、ヴァジュラの閃光と雷鳴が轟き、蟲に満ちた白い空間は、かつて落とされた陶器のように砕け散った。

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