第二十六章 ヴァジュラ

「私がヴァジュラを手に入れることになりそうですが、月読様はそれでもよろしいのでしょうか。ご入り用では?」


「いや……、私が欲しかったわけではない。紫月に護身のために渡そうと思って取りに来ただけだ。時間かけてでも説得するつもりだったが、そなたが歓喜天であることはまさかの良い誤算だった。アレはそなたが持つべきで、それが本来のあるべき姿であろう」


月読様の優しさには痛み入る。


朧車の中では、あんなにも活動が危険だと反対していたのに。


結局は、紫月様のことが心配で、できること全てをやろうとしていらっしゃる。


私は、あたたかい気持ちで庭の花々を見渡していると、ガネーシャ様が現れ、ヴァジュラを目の前まで持ってきてくださった。


驚いたことに、ヴァジュラは、私が右手でふれようとした瞬間に指輪へと変化し、すっぽりと真ん中の指へとおさまった。


まるで、持ち主を待っていたかのような動きに、私は嬉しくもほっとする。


そして次の瞬間、背後からぞくりと悪寒が走り、身震いをした。


感覚を共有している蒼紫様は心配そうに私に心の中で話しかけてくる。


『どうしましたか、神樂?』


『蟲の幼虫の気配が……』


私は恐る恐る、嫌だと感じる感覚が強い方角に目を向ける。


「御狐神様……!!」


「なんですか、いきなり!!」


御狐神様は慌てて立ち上がり、私たちから距離をとる。


「私にだけ幼虫はみえるのですが、これだけいるということは、体内にはすでにもうたくさんの成虫がいるということです!」


御狐神様の口からは無数の蟲がこぼれ落ち、あまりの恐怖に泣き叫びながらる。


そらをみつめる瞳は何かの幻覚を見るかのように大きく見開かれ、とめどなく涙が流れた。


光をなくした御狐神の瞳の奥に映るのは、月読様の嫌悪に満ちた顔。


おもてなしをしようと運んだ口噛み酒が床に溢れ落ちる。


これはすべて蟲がみせる幻影なのだろうが、蟲は、過去に一番傷ついた記憶をまず呼び起こす。


「穢(けが)らわしい」


月読様の声が御狐神の脳内に反芻する。


食文化の相違によるものと斬り殺されはしなかったものの、その時の月読様の潔癖さを御狐神は痛感する。


笑うことはない涼しげな眼差し。


この方の目にうつるものはすべて美しくなくてはならない。


才色兼備、文武両道、清廉潔白であること。


それが月読命に仕えるということ。


私は月読様の好む「私」に自らを染めていった。


なのに、


貴方はなぜ私を拒むのですか……?


「神樂、蟲は祓えるのか?」


遠くから月読様の声がする。


「おそらく、できると思います」


図上で、神樂様が真言を唱えている。


苦しい……苦しい。


この感覚から逃げたい。


逃げられる場所はあるのだろうか。


視力を失って、右も左もわからない。


だけど、私の身体は勝手に起き上がり走り出す。


「御狐神……!ダメだ、行くな!仕方ないっ……!


『夢幻結界』」


私の身体はふわりと浮き、雲のような柔らかな感触に包まれる。


空間を扱われる月読様の特殊結界の中に放り込まれたのだろう。


身体中が蟲に食い破られ恐ろしく痛い。


神樂様は一生懸命私の傷を治してくださっているのだろうけれども。


私は、静かに意識を手放した。

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