第十八章 香りが誘う逢瀬

夕食ゆうげを終えた頃、私は紫月様の部屋に呼ばれた。


招かれた寝所は灯籠をひとつだけ灯しただけの薄暗く、月の光がよくみえる。


涼むように胸元をあけ、縁側近くでキセルをたしなみながら私を迎えいれる紫月様はおそろしく妖艶にみえた。


「蒼紫のことを話してくれ。今宵は上客もいないし、今日は店に出ないことにした」


月宮殿には貴賓きひんをお迎えするVIPルームがあり、上位の神が訪れると必ずおもてなしをする。


しかし、今日はたまたまそういった予約がなかったことから、紫月様は、休みをとったらしい。


貴賓室の出迎え以外にも、湯屋そのものに顔を出せばお客様は非常に喜ぶ。


紫月様を一目みたくて遠路はるばる訪れるお客様もいることから、今日は、お休みするという事は、そのお客様たちにとってはハズレ日になってしまう。


理由が蒼紫様だったとしても、紫月様を独占できてしまうことへの優越感と罪悪感に胸が騒いだ。


こんな無防備な姿をみれるのは御側用人おそばようにんの特権だが、いちいち心臓に悪いのも確かだと少し緊張しながらも、紫月様の前にゆっくりと座った。


「蒼紫様のこと……は、どのようにお話ししたら……」


私は紫月様の求めているように上手く答えられるかが不安で、返答の歯切れが悪くなってしまう。


紫月様は、それを察したかのように、優しげな声で質問を続けた。


「そもそもなぜその名前を知っているのかを知りたかったんだ。誰かに教えてもらったのか?」


「いいえ。誰かに教わったというわけではありません。私がヴィナーヤカに身体をとられた時、沈みゆく意識の中で、突然、声がしたのです。それが蒼紫様でした。なので、夢の中で会った、と言ったほうが近いと思います」


紫月様は考え込むように頬杖をついた。


「夢の中で……。霊夢か憑依か。神樂は以前に別の霊体に意識を乗っとられたことは?」


「ありません。でも、誰かの残留記憶をみるなんてことは、ここにきて多くなった気がします。湯屋の手前にある高台に登った時、山あいを指さして微笑まれる紫月様の映像がみえました」


紫月様は少し驚いた顔をしてみせた。


「山あいを指さす……。それは何度もしたことはあるだろうが、もし俺が少しはしゃいでいたとしたら、それは高台が完成した時。蒼紫と共にはじめて登った時のことだろう。あの時は、確かあの山あいに花火をあげたら、どんなに美しかろうなと話し、俺の次の目標にすると蒼紫に話したんだ」


懐かしむように紫月は目を細めた。


「現世で花火がはじめて打ち上がったのをみて、感動してな。俺はそれをどうしても真似したくて。すぐそんな目新しいものに飛びつこうとする俺をみて、蒼紫は少し呆れたように笑っていたっけ。あの時は何もかもが面白かったんだ。アイツがいたから……」


吸い終わったキセルを小さな精霊に預け、紫月様は、敷いてある布団にゴロリとよこたわる。


吸っていたキセルの中身は薄荷結晶はっかけっしょうだったのか、紫月様が溜息をつき小さく動くたびに爽やかなミントとオレンジの涼しげで爽やかな香りが流れてくる。


そこに紫月様の身体から放たれる微かな菩提樹リンデンバウムのような花の香りが調和するものだから、私までもが癒され心地よくなってくる。


「紫月様……」


少しくらりとした後、突然名前を呼びたくなった。


紫のたわむ髪が絡まないように櫛を通したくなった。


朝起きた時に癖がついたり絡んだりしないように、少しでも濡れていないか確認したくなり、気づいたら、その紫の美しい髪に指を通し、化粧台の2段目の引き出しにある桃の木の櫛を手にとっては、その髪先にあてがっていた。


「眠られるのであれば、髪をときましょう、紫月様……」


紫月様は、私の声に反応するようにゆっくり目を見開き、私をみつめる。


私も、自分で、自分の行動に驚いていた。


当たり前のように櫛の在処を知っていて、それをとり、紫月様の髪をなんの躊躇もなく触れていることも、言葉が勝手に口から溢れ出していることも。声色も違う……。この声は……。


「蒼紫……!!」


紫月様の瞳が揺れ、目はじわりと赤く濡れる。


今にも溢れそうな涙は紫色のまつ毛でなんとかとどまり、瞬きをすれば溢れ落ちてしまう。


私の意思と関係なく私の指はすっと近くにあった白い手拭いに伸び、まるで主がすこしでも濡れてはならないと、その頬を守らなければいけない使命感でもあるように、そっとあてがわれる。


完璧でなめらかな美しい所作。


これは私の動きではない。できるはずがない。


私の身体が誰かに動かされている。おそらくは、紫月様が呟いた名前。


「蒼紫……!!」


紫月様は頬にあてた手ぬぐいを持つ私の手もろとも強く握り、ぐっと引き寄せると、私の身体をそのまま敷布団へと倒す。


仰向けに見上げた先には、顔をクシャクシャに歪め、何粒もの大きな涙がポタポタとおとす紫月様の顔がある。


「蒼紫、蒼紫、蒼紫、そうし……っ!」


すり寄せた頬から、涙が伝わってくる。肩を震わせ、こんなにも泣きじゃくる紫月様が心配で、私も蒼紫様と同じ思いなのだろうか、その背中に手をまわし、優しくさする。


私は、神樂は、どういった立場でいるべきなのだろう。


結局、私は今、蒼紫様に憑依されているのだろうけれども、こんなにかき抱かれて、私は戸惑いを隠せない。


でも、少し冷静になって考えれば、この感激は私に向けられているものではない。


そう考えてしまうと、とても複雑な気持ちで、胸が痛む。


それでも、少しでも紫月様の想いを尊重したいと、私は身体を貸すことを受け入れてしまう。


「ずっと、地獄にいるようだった、……お前のいない日々は。何を食べても、何をみて、して、みんなで笑っても、嬉しくない。ずっと、ずっと、俺は平気だなんて、天界をも騙す嘘をずっとつき続けている。執着なんてしてないって、天帝にはバレているのかもしれないが、天界は、幽世は、俺がいなきゃ困るから、誰にも悟らせるなと、俺は……お前との約束を守りつづけるように蟲駆逐の使命に身を投じ続けた。今では、神を浄化するこの場所はどこよりも立派で、俺も誰もが羨むような立場にいる……だけど…… 虚しいんだ。」



と、彼は涙を流す。


目の奥はほろ暗く、私たちをみているようで、みていない、一瞬背筋が凍りつくような怖さが、狂気があった。


「俺は悟りを教えながら、それから最も遠い鬼だよ」


こんな時、蒼紫様はどうするのだろう。


私はどんな言葉をかけていいかわからない。


気がつけば、私の両手は、紫月様の頬を包んでいた。


「紫月様は、嘘などついていません。悟りからも遠くありません。だって、天界や幽世の皆様を守りたいと思う気持ちは本物です。私は、それを一番良くわかっています。……ずっとお側でお仕えできなくて申し訳ありません。お辛い想いをさせて申し訳ありません。謝っても謝りきれません。ですが、紫月様。紫月様の凄いところは、こんなに深く愛してくださっても、私めを執着してくださっても、決して崩れることなく法愛をもって八百万を護り続けているのです。こんな執愛の危うさを抱えながらこんなにも気丈に何百年も振る舞える神がどこにいましょうか。闇も深い以上に光も強い。マーラをも退ける愛は、私の永遠の憧れでございます」


「俺の皆への愛は……嘘ではない……?」


「左様でございます。紫月様」


紫月は、唇をグッと結ぶと袖でゴシゴシと涙を拭き、身体を離すように起き上がると、私たちから背を向けた。


「もう、抜けてよいぞ蒼紫。これ以上の憑依は神樂の負担になる。心配かけてすまなかったな」


そう、言いながら、紫月様は振り向きクシャって笑ってみせ、


「ずっとお前の憧れでいてやるから、おまえはおまえで、浄土で役割をしっかりな!!」


と、明るい声で言った。


はい。と静かな決心をしたように答え、感謝の言葉を口にしながらすり抜けるように消えた蒼紫様の感覚は、本当は、きっともっともっと側にいたいし、紫月様に触れていたかったのが本音だろう。だけど、この方々が立派なのはやはり、自分たちの感情だけに囚われず、やるべきことを理性をもって取り組む力や愛、それこそ、利他の心だと感じた。


正しさを選べる強さ。


それが悟れる者がもてる強みなのか。


感情に流され続けた私には、到底まだ理解することのできない深い愛に、自分の小ささをまざまざとみせられた気がした。


紫月様の特別とは。


私は、自分がそうなれたなら、と密かに願ってしまうけれど、それが並々ならぬ覚悟と努力と経験と……愛への深い理解の先なのだと、わからないながらも、感じざるを得なかった。

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