第十四章 パドマ•ムドラ
しかし、私は大事なことを忘れている気がしてならなくて、目を瞑る。
思い出さなきゃ。蒼紫は何を言っていた。そうだ、真言だ。
オン アミリテイ ウン ハッタ
オン キリキリ ヴァジュラ ウン ハッタ
脳内で蒼紫の言葉が甦る。
手で印を結びながらこの呪文を繰り返し唱えなさい。
この呪文は紫月様の体内に流れる蜜、アムリタを引き出す力がありますから、と。
おそらく、アムリタとは、紫月様から流れでているこの甘い蜜だ。
魔を祓う浄化作用があるからこそ、皮肉にもヴィナーヤカは、私の中に引っ込み、私は蒼紫の助けもあって表の世界に出てこれたのだろう。
アムリタが漏れるたび、紫月様の艶は、色香はどんどん増す。
呪文でこれを更に引き出すのか。
ただでさえ、紫月様の劣情は高まるだけ高まり、だけど極められなくて悶絶しているのに、みていて本当にお可哀想だ。
それでも、この苦悶の表情を更に歪めろというのか。
こんな顔をみていたら、私の方がもたない。
性を知らない私ももうこんなに引き込まれている。
こんな芳しい甘露の媚薬と絶え間ない美の暴力に晒されたら……。
今だって、その欲望を解き放つ手伝いをしたいと、私の理性がグラグラ揺らぐ。
なんて残酷な役回りにたたされてしまったのだと、私は目を強くつむり奥歯を噛み締める。
でも、私は蒼紫を信じ貫徹しなくてはならない。
一時的な感情や慾ではなく、何が愛なのか。
何が正しいのか、が試されているのだ。
呪文を唱えれば、紫月様は苦しむ。
だけど、耐え抜けば結果私も紫月様も正しい道に戻ることができる。
私は、本当に間違えてばかりで、いつも楽な方に、楽な方にと逃げてきた。
でも、今の私には、譲れないものがある。
私は絶対に紫月様を汚してはいけない。
自分の恋心なんかに、劣情なんかに、本当に愛しているなら、慕っているなら、流されてはいけないんだ!
私は、紫月様が頭を打ち付けないように、その上半身を石畳にそっと寝かせ、白濁の温泉の湯を桶ですくい、ざっと自分にかけ、覚悟を決めるように口を結んだ。
そして、即座に手印をつくり、真言を唱えた。
真言がはじまると、紫月様は、身体をしならせ、悲鳴をあげた。
その声は、押し寄せる快楽に苦しみ喘ぐものと同じで、見開かれた目からは涙がとめどなく流れ、吹き出す汗も、それが床に落ちる前にはトロみが増し、甘い芳香を放っているのがわかる。
刺激を欲しがり自らの芯に伸ばされた指の間からも蜜はダラダラと溢れている。
身体を小刻みに揺らし、身体の上を滑る指としなる肢体による水音は、卑猥というよりもその造形美により、エロティックなダンスのようにもみえる。
シャーマンたちが神に捧げる舞の原型は、もしかして、ここからきたのかもしれない。
そして、真言は、神への唄。酩酊を誘い、より深く神聖なものと繋がるためにあると感じる。
だが、雑念として、時々、湧き上がる劣情が、慾が、はけ口を探し、尾骶骨の奥を小刻みに揺らし、熱を帯びさせる。
これを後にクンダリーニと呼ぶのだと、軍荼利明王の力を借りる真言なのだから無理はないことだと後に知ることになるが、
私は、性懲りも無く慾に負けそうな自分を心で叱責しながら、より、高い集中力を求め、印ひとつひとつに、神経を注いだ。
好きなんです。貴方が。助けたいんです。魔になんて負けて欲しくないんです。守りたいんです。あらゆる脅威から。
私の想いは、祈りになる。そして、紫月様の助けてといいながら性の解放を誘う声は消え、
真言が、別の誰かの声と重なるように聞こえる。
私は薄らと目をあけ声の主を探す。真っ白な空間の先にいたのは蒼紫。
そして、彼は小さく微笑み、私の右手をとると、自分の手のひらを合掌するように重ね、
指先を軽く曲げながら、親指と小指を私のとくっつけた。
そして、それ以外の3本は外へとはなす。
私も無意識に同じように動くと、気づけば私達の手は花が開くような形になり、二人で蓮の手印が完成したことがわかった。
パドマ・ムドラ
そう、蒼紫が私の喉を使い唱えた瞬間、私達の手から光の柱が天に向かってかけあがるのが見えた。
そして、それは、頭上にいたヴィナーヤカを貫き、アムリタの雨がザアーと勢いよく、振り、白い空間に蓮池が広がり、無数の蓮華が開くのがみえた。
「くっ……、おのれ、蒼紫……!」
ヴィナーヤカが悔しそうにうめき、爪で空間を裂くと、逃げるようにして、その隙間へと滑り込み消えた。
蒼紫は、ヴィナーヤカが去った空間をみつめ、手のひらを翳すと、ひび割れていた空間が綺麗に閉じた。
蒼紫はなんでも知っているし、できるんだなと、羨望の眼差しでみていると、彼は優しく微笑み、
「よく頑張ってくださいました。さぞお辛かったでしょうに。紫月様を助けてくださり、ありがとうございました。心より感謝いたします。」とお辞儀をした。
「そんな……、私が、したくてした事です。むしろ、お力や知恵を貸していただき、ありがとうございました」
私は慌てて頭を深々と下げる。嫉妬する暇も与えないなんて、蒼紫…様はなんてできたお方だ。私のことを労うことを忘れない。
「ヴィナーヤカは今後も襲ってくるでしょう。このようにお話しするのは、説教臭くて気が引けますが、
神樂様にはもっと心を強く、とくに煩悩に流されない精神力を持っていただかなければなりません。心の隙が、マーラやヴィナーヤカの侵入口となりますから」
それを聞いて私はドキリとする。自分自身が、紫月様を危険にさらすキッカケとなるのだ。今回のように。
私は紫月様の側にいていいのだろうか。
私が少し震えてしまっていたのを蒼紫様は気づき、そっと手を握ってくれた。
「誰しも、修行する前は、悟りを開く前は、不安定なものです。私だって、たくさんの過ちを犯してきました。紫月様を思うようにお守りすることができなかった時も……。だからこそ、老婆心でこんなことを言ってしまったのですが、不安にさせたのであればすみません」
すごく気を遣ってくれるのがわかる。
私が気を遣わせてしまっているのだ。繊細で弱いから。
だからこそ、早く強くなってと言いたくもなってしまうわけだが。
でも、私自身もどうしたらいいかわからないのが現状だ。それを察したように蒼紫様は続ける
「精神修行は、一朝一夕でできるものではありません。紫月様のそばにいれば、いずれたくさんの智慧を授かり、成長することができるでしょう。紫月様は、悟りの先生です。悟りは、言葉やいわゆる思考を使ったお勉強や理屈でわかるものではありません。目の前にあるものが、先人の知恵が、本当に正しいなと自分の中で腑におちない限り悟ったとはいえません。信じる力が悟りへの第一歩です。例えば、貴方は、本当に強くて、才能あふれるすごい子なのですが、信じられますか?」
私はとっさに首を振ってしまう。
空気からして、話の流れからして、力強く、はい!と言わなきゃいけないのだろうけれども。
私は、やはり自分に自信がなくて、何を根拠にこの方は私をそう評価しているのだろう。
一体何を言っているんだと疑いの念を持たざるをえなくて、反射的に首を横に振ってしまう。
蒼紫様は、本当に困ったなと言った顔で、眉を八の字にして微笑む。
こんなに優しさが痛いことがあるだろうか。
それでも、私の課題をわかりやすく、突きつけてくださった先輩に敬意しかなく、私は、小さく項垂れ、すみませんと呟いてしまう。この方は紫月様が寵愛するだけあっての凄い方だ。
この方は様付けで呼ばなくてはならない方だと心から感じられた。
蒼紫様は、私の頭を撫で、少しずつでいいんですよ、と慰めてくださる。
「私には、あなたのポテンシャルが見えているから、こんなにも自信を持って言えるんですよ。私は貴方ですからね。誰にも負けない凄い力を秘めているんだって、心から信じられれば、貴方は今よりもずっとずっと強くなれます」
今、なんて?私は貴方?
私がびっくりして顔をあげると、蒼紫も、蓮の花が咲く空間もなく、温泉が広がっていた。
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