第十章 ヴィナーヤカ

『本当いい立場よな』


突然頭の中で、低音で二重音となって響く男性の声が聞こえた。


憎々しげに凄むような、悪意と怒りに満ちた声。


私は怖くなって、手拭いを落とし、紫月様に何か悪い影響があってはいけないと咄嗟にあとずさった。


しかし泡で床が滑るせいで、私は石畳に倒れ込んでしまう。


「神樂……! 大丈夫か……!」


紫月様は心配そうに振り返り、床に倒れてしまった私を抱き起こそうと手を伸ばした。


「ダメです、近寄らないでください……!」


紫月様は私のあまりの剣幕にビクリと肩を震わせ、私の異変に警戒するように眉をひそめた。


「何が起きている」


「頭の中で声がするんです。凄く怖い声が……!」


その瞬間、ドクンと心臓が強く脈打ち、私は胸をおさえ石畳につっぷしてしまう。


前かがみになり、うなだれる私を見て、紫月様は私のせっかくとった距離を無視して、私を抱き上げる。


『甘いな、紫月』


私の意識がグンと後ろに引っ張られ、深く寒い海のような場所に沈められるといった感覚になる。


そして、私を引きずりおろした長く黒い腕。

褐色肌に無数の禍々しいほど細かい、黒い炎のようなうねり模様が描かれた入れ墨。


その腕は私を越して更に伸び、私の場所と入れ替わるようにして、濡羽色ぬればいろの長い髪と褐色肌の男が紫月様のいる光の方へ泳ぐように浮上するのが見える。


ダメだ、だめだ……!あれは絶対に紫月様にあわせてはならない人物だ。


「紫月様、逃げてーー!」


これが声になっているか私にはわからない。でも必死に叫ぶしかない。


褐色肌の男にまとわりつくのは無数の黒い蟲やひる


蟲の王だ。この姿は多分……!


「ヴィナーヤカ……!」


向こうで紫月様の声が木霊こだまする。

水面に揺らめくように、紫月様の姿が見える。


最悪なのは、その次にみえる映像と卑猥な程響くネットリとした水音。

見たくなくても飛び込むのは、紫月様が顔を赤らめ、身をよじるようにして苦しみ悶える姿。


「何を……、何をやってるの!」


水音と共に聞こえる紫月様の吐息が艶を含んでるようにも聞こえるし、痛みに苦しんでいるようにも聞こえる。


紫月様の周りが赤く染まっているようにも感じるし、でもそれは、自分の恐怖による妄想のようにも思える。


しかし、何よりも顔を覆いたくなるのは、自分の恥部ちぶが反応しはじめているということだ。


「やめてよ、私の身体で何勝手なことしての

やめてよ、やめてよぉおお! 紫月様ー!」 


私の意識の浮上を阻む、足元に絡みつく無数の触手。


こんな時こそ私は、どんなに無力だったとしても、紫月様を守れるならなんだってするのに。


それでも、身体を動かすことすらできない。そんな残酷な現実に打ちひしがれて、目頭が痛いほど熱くなる。


涙が追い付かない中で嗚咽おえつだけが、水中のような不思議な空間に響き渡る。


それでも諦めたくはない。絶対に何かの打開策があるはずだ。


紫月様に助けられたあの瞬間から、私の命は紫月様のもの。


消えてなくなるまで、今度こそ諦めてはならない。考えることから逃げてはいけない。


打開策はどこかにあるはずだ。考えろ……考えろ!この息が続く限り……!


『蟲の正体は、よくです』


頭の奥から声が聞こえる。優しい声だ。


その声に不思議な安堵感をおぼえると同時に、足元から駆け上がる強い衝動。


触手をつたって蟲が這い上がったところから軽い痺れと熱が伝わる。


くすぐられるような感覚と共に恥部の奥が疼くような感覚に襲われた。その時、私はこの声がいう「慾」をなんとなく理解する。


『蟲を強めるのは「慾」。

蟲を祓えるのは、慾の原因の気づき、なぜ慾が発生したか、その原因を探り、その願望を認めること』


不都合な真実かもしれない。だけど、紫月様を守れるなら。


私は足に絡む蟲を剥がそうとジダバタするのをやめ、あえて深い瞑想に入るよう意識を集中し、蟲と共に深い潜在意識の海へと沈んでいった。

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