第九章 風呂

ふぅ……。


しみわたる湯の温かさに、私は大きなため息をついた。


痛む身体に染み渡る温かいうっすらと白く濁った湯は、少しトロみがあり、美肌効果があると壁にかかった看板に書いてある。


なんて贅沢なのだろう。ゴツゴツとした岩肌の間からのぞく竹藪や枯山水。


その手前にそびえたつうっすらと紅く色づき始めた紅葉もみじも、変わりゆく季節を期待させてくれるようで素敵だ。


露天風呂はこれだけではない。


見渡せば、枯山水の上をまたぐように架かる赤い橋もあって、そこを越えればその奥に、また五種類の別の湯舟があらわれる。


――紅、翠、蒼、桜、黒龍


名をつけられた温泉はすべて薬湯であり、効果も違うらしい。確か、今入っている白い湯の効果は浄化作用と霊力回復だっただろうか。


奥には蒸し風呂すらあり、その傍らには、薄紅色の細かな岩塩が山のように積まれている。


そろそろ髪を洗おうか。湯からあがり、洗い場に向かいヒノキの風呂椅子に座る。


手拭いをとり、私の薄青みがかった銀色の髪が、パサリと流れるように身体にまとわりつく。


肌の色が白い髪の色とさほど変わらないほど蒼白そうはくなのはいかがなものか。


お湯に浸かった分、ほんのり肌が桜色に色づきはしても、まだまだ血の気がない。


身体も細くて、スラリとしているといえば褒め言葉になるが、私からすれば貧相。


男なのか小娘なのか、まつ毛の長い女顔が相まって、ますます性別がわからない。


この世界では、心が肉体美に反映する。魂そのものの在り方が外見を決めるというべきか。


紫月様はみる者がつい振り向くほどの綺麗な顔をしている。雄々しさの中に見せる母性も、確かに両性りょうせい具有ぐゆうとも言われる観音様の化身らしい。


見えざる者の長としてのカリスマを発揮するために、あえて男の形をとっているのだろうか。脱げば、その強靭なメンタルを表す筋肉美があらわになるのだろうなと思う。


思い出されるのは、紫月様の衿の間から見えた肉体。細かい傷、大きな傷がまるでアートとして受け入れたかのように紫月様の身体の上を走り、その上を流れる黒い流線の入れ墨はまるで水墨画。


民族的でシャーマニックなその模様は自らを呪具にするための物だと聞いたことがある。


今の自分とはあまりにも違いすぎる。


これほど劣等感があおられるのは、紫月様と比べるからいけないのではないかと思えてきた。


ふと、鏡に映る自分と目線があう。深紅の瞳は怒れる鬼の証。自分をまだまだ制することができていない。


目尻から頬に伝うように流れる紫の流線の紋章。一昨日まではなかった。


これは、何を意味するのだろう。確か、紋章の形は心を表すのだっけ。


目尻から浮かぶ印は悲しみを表し、色も薄紫。紫は精神向上への願い、個人的には紫月様がまとう色が素敵で、自分も憧れたから出たのではないかと思う。


この紫色の化粧のような紋章は、私の目尻から頬の上を伝い、外に向かってくるりと渦を描く。


この線の流れは、気持ちを外へ出したい、出したいと思うけど、それをする度にから回ってしまう、という気持ちが反映されているのかもしれない。


この潜在意識の世界では、幽世では、すべての事象に意味がある。かつて親に少しは教わったが、奥が深すぎて、ほぼ何も覚えていない。


ああ、覚えも悪い。素行も結果的に悪かった私なんかをなぜ紫月様は。


先程の湯女の言葉が頭をよぎる。賢くもない、惹きつける何かなんてあるわけもない私を、なぜあんな風に笑い優しく抱きしめるのか……。


「入ってるか、神樂」


突然ガラッと大浴場の戸が開き、紫月様が入ってきたことに私は驚き悲鳴をあげそうになる。


考えてみれば、ここは自分が独り占めできるような場所でもなければ、紫月様はいつでも何時でも入っていい場所なのだから、突然来られたことに文句など言えるはずはない。


だが、紫月様のことを考えていたのがバレるのではないかと、それを隠そうと焦る自分が無性に恥ずかしくなって、私は自らを抱きしめるようにして身体を隠してしまう。


「こっ……こっ、来られるなら言ってくださいよ」


「何を生娘みたいな反応してるんだ、おまえは」


目をパチクリさせ、呆れたようにこちらを見る紫月様との温度差が痛い。


いや、裸を見られるのも恥ずかしいと思う私が変なのか?むしろ堂々とするべきなのでは?男同士なわけだし。


「俺両性具有だけどな」


また頭の中を読まれたのか?


「頭の中は読んでない、声に出てたんだ。ブツブツ話す癖があるの、おまえ自覚ないな?」


考えが声に出ていたのかと、びっくりしながら後ろを振り返ると、紫月様は真後ろまで来ていた。


慌てる私が面白かったのか、紫月様はカラカラ笑い、隣に座った。


こんなに広いんだから他の所も座れるのに。心臓に悪い。


「背中、流してくれるよな? もちろん。」


片方の眉をつりあげて、紫月様は聞いてきた。おまえ、自分の立場忘れてないよな?と言わんばかりの目。


「も……もちろんです。今やろうかと……!」


「本当だろうなぁ?」


紫月様はまたくくくと笑っている。私をからかうのが楽しくなってしまったのだろうか。


自分の羞恥ばかりに気をとられて自分の立場を忘れているのが、完全にバレているのがわかる。


「ふっ……。お小姓こしょうってのはいつでも気が回らなきゃいけないんだからな、しっかりしてくれよ?」


私はお小姓というポジションをいつの間に与えられていたのか。


お小姓って、なんだ?と、首を傾げると、紫月様は、侍に仕える侍従じじゅうのことで、お殿様の身の回りお世話をする者だと説明してくれた。


「だから、まずはさんすけをしてくれ」


「三助……? サンスケ……三男?」


紫月様は吹き出すようにしながら面白そうに笑い出す。


「三男ではない、三番目の弟になれとは言っていない!」


と、ツッコミを入れながら、彼は腹を抱える。


「〜スケ、とあるから、喜助とか佐助とか、人名だと思ったろ。俺が言いたいのは「助」ではなく「典」だ。どちらの漢字も、背中を流す職人のことをいう。典と書く方が語源だ。後で詳しく辞典かなんかで調べるといい」


私の無知さを笑っているんだろうけれど、あまりにも楽しそうに笑うから不思議と嫌な気はしない。


紫月様は湿気で曇った鏡を指でなぞって、漢字を丁寧に教えてくださった。


ようは、紫月様は背中を流してくれと言ったのだ。私はさっそく背中に周り、手拭いで背中を洗い始める。


「少し力が強い。こうだ。石鹸はどれがいいか、まず相手に聞くんだぞ。ここには客が選べるようたくさんの種類の石鹸が置いてある。俺はこの香りと泡立ちが好きだ」


失敗する私を叱り飛ばすわけでもなく、ただただ丁寧で優しい。


髪の間からしたたるお湯が肌を濡らし、肌につくしっとりとした紫の長い髪も、長い紫色のまつ毛にから転がる露も、何もかもが艶かしい。


こんな近くでこんな姿が見られるのは側につくことが許されるお小姓の特権だろうから、

この立場を湯女たちに嫉妬されても当然なんだろうとは思った。

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