第八章 湯女

月宮殿の裏門をくぐり、私は湯屋の裏戸にようやくたどり着いた。


下駄をしまい、廊下をしばらく歩くと、「薬」という看板が大きく掲げられた部屋がいくつかあった。


「確か、室内の地図ではこっちに行くのが正解かな?」


そこら中から漢方を石臼いしうすでする音、調合のために薬師が棚をひく音、東洋の様々なスパイスが混ざりあった香りが漂ってくる。


ありとあらゆる治癒に関する専門家が常駐し、治癒から悦びに至るまでの薬のすべてを担い揃えているこの場所では、薬師たちが難しそうな巻物とにらみ合いながら、働いていた。


ハッキリ言って寝間着ともいえる白装束の姿で歩くには忍びない場所だが、湯にたどり着くにはここを通るしかない。


人に見られないように少し縮こまりながら、はだけてしまっていた着物をさり気なく整うようとした瞬間、廊下の向こうから女性たちの黄色い悲鳴が聞こえてきた。


「ねぇ、あの方とアタシ、この後どうなるの? 占って! 占って!」


湯女ゆなたちだ。温泉で働く女性従業員と言えばわかりやすいだろうか。


朝食を済ませた彼女たちは食休みの中、昨晩「背中を流した」男神や妖怪たちの話をし、その後に期待できる恋の展開について占ってほしいと、宿に常駐する占い師や陰陽師を捕まえてせがんでいた。


そんな色恋の雰囲気を苦手とする私は、その場を避けて足早に通りたいところだったが、やはり音のする方へどうしても視線が向いてしまう。それが運のつきだった。


「あ……あの子! もしかして、紫月様が裁判所から連れてきたっていう子じゃない?」


言われると思った……。

私の顔が途端に青ざめひきつる。


「あ、コラ、およし! 紫月様のお連れ様に指を差すなんてはしたない! すみませんね、神樂様」


年配のふくよかな湯女が、私を指差した猫又の若い湯女に軽いゲンコツをくらわす。


好奇心交じりの湯女に注目されるこのくだり。

やはり、目立たぬよう急いで通り過ぎるべきだった。


「え~~だって、うわさの美少年、間近で見てみたいじゃにゃいのさ!」


「思ったより可愛い〜、肌キレーイ」


「こ……来ないでください」


ずいずいと、湯女たちは私の立つ廊下まで出てきて、顔を覗きこむ。


罪悪感と、詰められる恐怖。

悪目立ちした後悔に口を結んで耐えようとするが、やはり私はどうしても他人の目が怖い。


罪人は快く思われないだろうし、嫌われているに決まっているし、この者たちが私をどう思い、何をするかわからない。


まだ肝が据わっていない私は、虐められるのではないかと咄嗟に袖で顔を隠し、すくむように後ずさってしまった。


「コラ、およしったら! 怖がっているだろう! 紫月様は確かにお心は広いけど、あの子に絡むのだけはよしな。あんたが化け猫でいくつ命があったとしても足りやしないよ。触らぬ神に祟りなしだからね!」


こ、これはどういう意味で言っているのだろう。

紫月様が怒る?それとも、元々怨霊だった私が皆に危害を加えるかもと思われている?


先輩に首根っこをつかまれ、私から引き剥がされた猫又娘は小さくすねた口をしてみせながらも、好意的に笑う。


この娘がどこまで私の事情を知ってるのか知らないが、私に警戒せず、悪気もなさそうだからまだいい。


ただ、その後ろで蛇のような目でちらり、ちらりとこちらを見ては面白くなさそうに口をヘの字に曲げる細い女性もいる。


その蛇女の湯女は、怪訝そうな顔でこちらに質問してくる。


「……昨日、紫月様と寝所を共にしたって、本当……?」


「え、きゃーーうそぉ! いつから紫月さまは男に目覚めたの、え、ヤダヤダヤダァー!」


こちらが何も言っていないのに、蛇女の質問だけで猫又娘と小さな金魚のような姿の湯女が、過剰反応するように騒ぐ。


そんなかしましい湯女たちを見て呆れ、


「妬いてもおまえたちの番は一生回ってこないから、騒ぐな騒ぐな」


と失笑する三つ目の男番台さんもいた。


私に注目してしまう彼女たちを見て、先ほど猫又娘を注意した年配の湯女が、状況に呆れたようにため息をつく。


「その通りよ〜。紫月様は確かに興味さえあれば『なんでもアリなお方』だけど、それはあくまで紫月様が『興味があれば』の話よ?

気に入られるのに可愛いだけでも、美しいだけでもダメ。こんなギャーギャー品なく騒ぐ子なんてもっての他。

知性があって『惹きつける何かしらの魅力』がないと、目もあわせてもらえないんだからね!」


なんでもアリとは、すごい言われようだな。


紫月様の性的趣向を勝手にこんなに開けっぴろげに話していいものなのかと困惑したが、私は何よりも、後に続く「興味」と「目を合わせる」という二つの言葉に反応し、落ち込んだ。


紫月様にこの先さほど興味を持ってもらえないかもしれない。私には何の取柄とりえもないのに、なぜ紫月様はあの時私を……。


あ、その理由は法廷で話されていたっけ。

でも、紫月様はまだ私のことを何も知らない。


可哀想だからと拾ったはいいけど、じきに私の無知さや気が利かないところがバレてしまえば、助けたことを後悔するだろう。


天界の命運をかけた「看板」にするつもりのようだが、正直自分にそれが務まるとは思えない。


助けていただいたのはひどくありがたい。

けれど、私が助ける価値、看板にする価値のある存在だったかは不明だ。


いとも簡単に堕落し祟り神になったには、蟲にすぐ負けて呑み込まれたには、やはり理由がある。


それは、劣等感と自尊心の低さ。

これといって、誇れる才能も、人に興味を持ってもらえるような惹きつける何かがあるわけでもなかったから。


だから、負への転落に抗えなかったのだ。

私が私でなかったら、あんなことになっていなかっただろうに。


また、自分に対して卑屈になっている。止まらない思考回路。


この根底にある暗さによる自信のなさが紫月様の愛や優しさを素直に受け取ることができない原因なのだ。


「ほんっと、うらやましいねぇ~。どこが気に入られているんだろうねぇ」


私なんかのどこを紫月様は気に入っているのだろう。そもそも気に入っているのか。


私の心の声を見透かしたように年配の湯女が私の一番気にしているところをついてくる。


嫌味なわけではない、悪気や悪意があるわけではない。

そう思いたいのに、目の前にある、お多福のような白くふくよかな顔がいやらしく歪み、猛禽類もうきんるいのような鋭い目に変化したように見えた。


彼女もやはり年配の妖怪だけあって、私の劣等感や弱点を嗅ぎ取ることができるのだろうか。


彼女がカラカラと笑った時、一瞬だけ口が裂け、ギザギザとした牙がちろりと見えた気がした。


一瞬裂けるようにつりあがった唇は、貴方なんかが紫月様に気に入られるわけがないと、嘲笑しているように見えて。


私は自分が今し方見たものを信じたくなくて、必死にかぶりを振る。


すると、その化け物のようなビジョンはまるで幻想だったかのように消え、先ほどみたネズミを狙うフクロウのような「目つき」とは真逆の、目じりの垂れたおっとりとした優しい笑顔に戻っていた。


「どうしたんだい、ぼうっとして」


戸惑いにこちらがびくりとすくむのも束の間、ふくよかな湯女は、紫の月の印が印字された特製の手ぬぐいと綺麗に洗われたフカフカのタオルを私に渡してきた。


「よかったら、これ使ってくださいな。洗い立てだよ!」


どっちの顔が本当なのだろうか……?

さっき見たものは幻想か、それとも?


何が真実かわからないのが、この幽世の世界。

現世とは違う、なんでもアリな「精神世界」の底気味の悪さに、気づけば私の手は小刻みに震えていた。


「おやまあ、もしかして寒いのかい?

これから露天に入るんだろう? ゆっくり湯に浸かってくださいな。

紫月様からは、しばらく誰も男湯には掃除をいれるなと仰せつかっているから、気にせずゆっくりなさるといいさ。

その代わり、出たら一声かけてくれるとうれしいねぇ」


なんて優しい物言いだろう。私は彼女のこの側面を信じたい。


そう願った私は、


「は……はい。ありがとうございます。行ってまいります!」


と、深々とお辞儀をし、胸の奥にもやがかかるのを無視するように足早に男湯へと向かった。

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