第七章 月宮殿へ

さすが妖怪を統べる鬼の屋敷。


お風呂に向かうための廊下が広くて長い。部屋もたくさんあり、混乱する。


この屋敷は湯屋、つまり温泉宿に併設されていて、屋敷に住み込みで働く眷属妖怪たちは大衆浴場となる温泉を使ってよいことになっている。


空間移動の能力を持っていない限り、湯に向かうまで一苦労だ。


この屋敷は紫月様の住まいで、八百万の存在が通う温泉街の中でも最も大きな老舗温泉宿「月宮殿」の奥に建てられた「奥の院」。


もちろん紫月様専用の個人風呂は屋敷内にあるものの、紫月様とその身体を浄めるのを手伝う者以外はそこに入る権限は与えられていないらしい。


身を清めるその場所は神聖な場所で、選ばれた波動の高い、それこそ「神階級」の者しかそこに近寄ることは許されない。


この話は、廊下をすれ違った妖怪たちに聞いてわかったことだ。


昨日のキツイ縛りあげで、身体の節々が歩いていて痛む。


少しぎこちない歩き方で屋敷内の移動は時間がかかってしまうが、命があるだけ本当にマシだ。


途中、地図を渡してくれる犬型の妖怪や、案内しようかと提案してくれるアゲハ蝶のような精霊もいたが、私は皆の仕事の邪魔をしたくなくて、地図はもらえど厚意は断ってしまった。

後悔はない。


渡り廊下を歩くたびに見える庭は凄く幻想的で、池の水の上をすべる雲の合間からのぞく蓮の花々の美しさに感嘆のため息をつく。


ここはおそらく、天界のような設計なのだろうか。


蓮は咲いているが、そこに沼は存在しない。

流れるような霧のような雲の合間から頭を出すように咲く蓮は、人間界で見たものより少し花が大きく、微かに金色に発光していた。


屋敷のつくりは源氏物語に出てきそうな平安建築で、すべてが風流。


しかし、蓮池の庭を介し、二回ほど赤い橋を渡ると景色は一変する。

橋を渡り切ると霧が晴れ、そこからは江戸の街に様変わりするのだ。


突然ひらけた視界に飛び込む赤い鳥居のような門が、旅館の裏門であることを地図で確認する。


ようやく、私は「月宮殿」というこの大型の老舗旅館の裏門に着いた。


そこから表門に回れば江戸の街並みを模した温泉街、そしてその一歩裏を行けば花街が広がっているのが地図上でわかる。


周りを見渡すと、闊歩してる者たちは皆、異形の者だ。

私は本当に幽世かくりよにいるのだと実感させられる。


高台があったので登ってみれば、月宮殿は温泉街の入り口から見て最奥に位置し、その周りに隣接する料理屋、茶屋、寄席よせは、まるでその立派な佇まいに花を添えるように建っているのがよくわかる。


圧倒的な風格と存在感を放つ月宮殿は、昼はただ静かにたたずむものの、夜になればその表情は一変するらしい。


これは高台の看板にあった情報だが、黄昏時たそがれどきになれば、開店を知らせるように鬼灯ほおずき灯篭とうろうが旅館の周辺の空に浮かび、その幻想的な光に誘われるように神や妖怪、八百万の存在が各々の目的のためにやってくるそうだ。


ただ泊りにきたのか、食事にきたのか、温泉を楽しみにきたのか……それとも。


館の主はもちろん紫月様。


地図を見る限り、この街は八百万の存在の癒しと憩いの場というだけではなく、医療、療養、芸や色事も楽しめるようだ。


見渡すと、赤い遊郭のような建物の窓辺で、見目麗しい妖怪たちが髪にくしを通し、着物を選んでいる姿が見える。


裏門に近いここの庭からは、湯屋の裏に隠れた花柳街かりゅうがいの舞台裏が少しだけ垣間見えるようだ。


突然、不思議な感覚に襲われる。

私はここに来るのは初めてなのに、どこか懐かしさを覚える。


すると、白昼夢のように私の隣に紫月様があらわれた。


遠くの地平線を指さしながら何かを言い、楽しそうに歯を見せながら笑っているように見える。


「なあ、いい案だと思わないか、――……」


名前なのか言葉なのか。後ろの方は聞こえない。


これは、紫月様と誰かの記憶だろうか。

この場に残る誰かの想いを、私は拾ったのだろうか。


「……色んな表情をされる方なんだな、紫月様は」


紫月様にこんな顔をさせられる人物がいるのなら、凄く羨ましいな。と、想いを馳せながら、私は足早に高台の階段を降りた。

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