第五章 弁護

しばらく沈黙が続いた後、天帝のおわす玉座の上からおそろしく低く、ビリビリとした重低音が講堂に鳴り響き、

細やかな振動と共に言葉が直接脳に向かって降り注ぐような、不思議な感覚に陥る。


天帝は御簾みすの向こうの玉座におわすわけではなく、目を凝らせばそこには誰も座っていない。


天帝とは、宇宙そらそのものなのであると、無知である私でも感覚でわかった。


天帝は、紫月様とコノハノサクヤヒメ様の提案に納得しているわけではないようだった。


『一度怨霊化した者を生かすのは、リスクが大きすぎる。

それに、その昔、紫月が堕落した弟子を温情によりしとめ損ねた結果、その者が魔王マーラの手に堕ちたことを忘れてはおるまい?』


紫月様は、傷ついたように眉をひそめ、一瞬うつむいたものの、すぐに強い信念を見せるかのように顔をあげ天帝に向き直した。


「我が弟子、ヴィナーヤカのことを忘れた日などございません。

マーラの手先となり、いまや私の宿敵となった元教え子のことを、どうして忘れられましょう。

そもそも、この抹消というシステムができた発端は彼。悪徳に染まった魂をこれ以上マーラの手駒として奪われないためでございます」


『そこまでわかっているならば、私が、その者を抹消すべきと考える理由がわかるだろう』


天帝への紫月様の交渉に、私の背中はヒヤッとする。


すべてを決められるのは天帝。


紫月様にすべての希望を託している私は、祈るように紫月様のほうを見つめる。


紫月様は少しもひるんでおらず、必ず説得するといった強い信念と自信が、眼光の鋭さにあらわれていた。


秘策があるとばかりに彼は少し前屈みになり、天帝の玉座に少しでも距離をつめるような姿勢で続けた。


「天帝。近年、マーラの勢力が力を増していますが、その理由こそ、この抹消のシステムにあります。

抹消を恐れた神々が、少しのミスでもその対象にされるのではないかと怯え、小さな罪をきっかけにマーラの組織に入信する者があとをたたないのだとか」


『紫月よ、その噂はちんも聞き及んでおる。しかし、それを止める術は我々にない。

産まれたばかりの若い芽をつむのが、いかに残酷かわかっていながらも、結局重い刑罰でしか秩序を保てないのが、今の天界の限界よ』


紫月様は、天帝の不安の揺らぎを身体で感じ、受け入れつつも、誠意と忠誠をしめすように、こうべを垂れて進言するように続ける。


「天帝。これでは、マーラの思うツボ。やがて天界は、マーラに呑みこまれてしまいましょう。……天帝、この現状を私がなんとかいたしましょう。この件については、すべて私にお任せください」


『何か策はあるのか、紫月よ』


「天界は今、皆に持たれている『厳格でおそろしいイメージ』を直ちに払拭せねばなりません。

この度の裁判の内容は、またたく間に噂になりましょう。これに乗じて私の方でも、語り部や瓦版かわらばん、店を出入りする客、商人や遊女の協力をあおぎ、天帝の慈悲深さを伝えます。

この少年を抹消せず、慈悲をかけた、と」


天帝がハッと何かに気づき、理解されたことが、空気の変化により伝わる。


『なるほど、そういうことか、紫月よ。

この少年をそなたの経営する温泉宿の看板にすることで、慈悲が与えられたことを広め、蟲に対する啓蒙を同時に行う。そういうことだな』


「はい、神を癒すための温泉街には多くの八百万の存在が出入りいたします。

そこでこの者が抹消されずに助けられたと知られれば、天界には理不尽な抹消などはなく、やり直すチャンスはいつだって与えられると安堵し、マーラの勢力に流れることも食い止められましょう」


『紫月、これに関してはすべてをそなたの判断に任せよう』


天帝は高らかに、紫月の提案を了承したことを宣言した。


紫月様はそれを見てほっとした顔で振り向き、私にかけより、石の台座から引き寄せ縄や手錠をその紫の長いつめで掻き切り砕く。


ようやく自由になり、紫月様の懐へと倒れ込む私に、彼は嬉しそうな笑顔で名前を聞いた。


「神樂です」


「神樂というのか。今日からおまえは俺の眷属けんぞくだ。よろしくな」


ダンボールに入った子犬を拾う不良少年かのような満面の笑みで引っ張り抱き寄せられて、震えと緊張で冷え切った私の身体に温もりが伝わる。


ほのかで上品な蓮の甘い香りが私を癒す。

本当にこの仏に助けられたという実感がわく。


安堵に目を瞑った瞬間私は眠りへと落ちていった。

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