若い林檎が熟すまで

翠雪

若い林檎が熟すまで

「ビール、回ってますかあ。ノンアルもありますからねぇ」

「ははあ。こりゃまた、大きなお鉢だよ」

「瓶のオレンジジュース! 久しぶりに見たな」

「栓抜きが足りねえぞ。かち割って飲めってか」

「林檎、鞄は後ろに置いちゃいなさい。パパとママは、向こうのお手伝いをしてくるわ」


 藤の間——と冠せられた斎場の一角は、喪服を着た数十人の大人たちで埋め尽くされている。黒いワンピースやパンツスーツ、紋付きの着物を纏った年長者らがひしめく中で、制服姿は私だけ。紺地に青のラインがあしらわれたセーラー服は、黒の群れでは浮いている気がして落ち着かない。読経を待ちくたびれた寿司たちは、どのネタも均等に色褪せている。


 しかめっ面の祖父の遺影は、隣人がいない台の上へと飾られているせいで、生前の印象に輪をかけてそっけなく見えた。箸が突き立てられた冷飯と、雲のようなもやが沈んだ味噌汁は、骨壷の前にしか置かれていない。


「お腹空いたでしょう、『林檎』ちゃん。お経、長かったからね」


 そう言って笑いかけてくるのは、向かいの席にどかりと座った、知らない女性だ。顔立ちは整っているけれど、首のたるみ具合から察するに、おそらく四十歳は越えている。ワンレンの金髪と、血のように真っ赤な口紅。私なんか比ではないほど目立つ彼女は、わざとらしく鋭い周囲の視線を、ちらとも見返してやりはしなかった。


「あたしはね、お腹と背中がくっついちゃいそう。ついでに寿司より肉って気分」


 名前という個人情報の頂点を垂れ流した両親はといえば、席に荷物を置いたきり、忙しなく働き続けている。杖をつく老人の椅子を引いたり、部屋の暑さを訴える更年期のマダムをなだめすかしたり。誰も、彼らを労わない。ぎりぎり観光地に分類される田舎では、有事の時には家族で支え合って当然という信仰が、歪な労働をよしとしていた。私は彼らを嫌悪すると同時に、それでも声を大にして汚らわしいとは言い出せない小心を自覚して、空いている胃がむかむかした。


 苛立ちを持て余しながら、曖昧な相槌を打つ。見知らぬ誰かと始まりそうだった会話を、顎を引いて終わらせる。


——三校時の数学、模試の解説だったのに。


 夏休み後の高校二年生にとっては、一日の休みもおおいに痛手だ。加速度的に難しくなる授業を一つ欠席することは、定期考査におけるマイナス二点に直結する。


——今日が締切だった進路希望は、明日朝イチで提出しなきゃ。忌引きが皆勤に響くかも、ついでに聞こう。


 半年ほど病院に篭りきりだった老人は、昨日の早朝、脈が止まったらしい。第一発見者は、検温の当番だった看護師。心臓の止まった、まだ温かい死体に触れたという。


 疎遠だった祖父の内情は、隣のテーブルに座った老婦人たちの会話で筒抜けだ。おまけに、私の正面に座る女性の名前も、「アンズさんは、今日も綺麗にしてるわね」という皮肉から知ることができた。その悪意ある声かけに、屈託なく笑ってみせた彼女は、無言のうちに陰気な隠居を黙らせた。


——何者なんだろう。この人の周りだけ、空気に張りがある気がする。


 きいいいいいいん。


 空想に耽りかけたところで、ハウリングが室内を駆け抜けた。音の出所を探すと、毛量がやや心もとない中年の男性が、マイクを片手に立っている。


『……エヘン。失礼いたしました。本日は、父のためにお集まりいただき、ありがとうございます』


 口上を務めているのは、家業を継いだ長男だ。彼は、妹である私の母と仲が良いのか、三年に一度くらいの頻度で、我が家を訪ねてくる。他の親族よりは、割合見知った仲である。


 故人の孫娘にあたる私は、本家から枝分かれした、いわゆる分家に属している。十人いる祖父の実子のうち、末娘たる私の母が産んだ一人っ子は、良くも悪くもあまり注目されなかった。生前に顔を合わせる機会がほとんど設けられなかった、他人じみた二等親の葬儀へ参列して、祈れる冥福なぞ何もない。道案内のために斎場の入り口へ掲げられた祖父の名も、読み方がちっとも分からなかった。


『えー、ご挨拶が長くなりましたが、そろそろ、乾杯の音頭を取らせていただきたく存じます。皆様、お手元に飲み物のご用意を』


 伯父の合図に従って、ガラス瓶から王冠を外す音が、四方のテーブルから点々と鳴る。私は、オレンジジュースと一瞬迷った後に、近くにあった烏龍茶の瓶を引き寄せた。正面に座した彼女は、慣れた手つきでノンアルコールビールの蓋を開け、手酌でコップをなみなみ満たす。上座を見遣ると、本家の席に捕まった両親が、きょうだいたちの世話をしていた。こちらの席には、しばらく戻って来られそうにない。


『では、乾杯』


 乾杯。一斉に飲み物を掲げる周りに倣い、少しだけ、液体入りのコップを持ち上げてみる。同調すること、群れること。それが我が身を守るすべだと知ったのは、小学校四年生の頃だったか。


「はい、かんぱーい」


 しかし、今日は適当な真似だけでは済まされなかった。前方からこれ見よがしにグラスを差し出されてしまったら、飲み口を合わせるよりほかはない。縁をぶつけると、カツンと高い音と共に、アルコール分ゼロパーセントの泡が散った。それなり冷えた烏龍茶は、二リットルのペットボトルから注いだものと、同じ味がする。使い捨ての箸でつまんだ寿司は、シャリが機械で握られているらしく、その大きさに対して硬く重い。厚めにスライスされた切り身と、型通りに圧縮された炭水化物を口に放りこめば、閉店間際のスーパーで、「特上」の上に「半額」のシールが貼られたパック寿司を思い出した。


「せっかくの集まりだっつうのに、若いのは、自分から挨拶にも来てくれないのかぁ」


 通夜振る舞いが始まってしばらく、開幕の挨拶を務めた彼は、私の肩へ馴れ馴れしく手をついた。項から駆け上がった鳥肌は、男にはまだ気付かれていない。


「ごめんなさい、イツキおじさん。お忙しそうだったので、つい気後れしちゃいました」

「遠慮なんかするなよぉ。少し見ないうちに、またお母さんに似てきたな」


 本家の家長は、酒が入るといつもこうだ。言わなくてもいいことを、耳目も構わず好きに言う。いつもなら、私を子ども部屋にそっと避難させる両親も、上座を陣取る八人のきょうだいからは手が離せないらしい。近隣の席を囲む一族はといえば、伯父と姪の近すぎる距離に何も言わないばかりか、仲がいいのね、なんて、思ってもいないことばかりを言う。見下すことで得た快感を、薄く頬にたたえて。


 母が旅行先で出会った父と結ばれ、血縁者からさんざんになじられながらも生家を離れた理由が、なんとなく分かってしまう。ぬるくなった烏龍茶で唾液を押し流し、首の痛い会話を続ける。服越しにあてがわれた掌が、じっとり重くて気持ち悪い。


——どうしよう。ここで振りほどいたら、角が立っちゃう。


 助け舟を求めて、もう一度、両親がいる一角へ視線を向ける。めったに実家、および義実家に顔を出さない二人は、ここぞとばかりに囲まれて、姿すら見えなかった。


「この辺りも、アイツに似るといいなあ」


 肩に置かれていた手が下り、人差し指が鎖骨に触れた。セーラー服の内側に滑りこんだ厚い指は、そのまま谷間に潜ろうとする。


 頭が真っ白になって、触れられている指の感覚が遮断されて、何事かを叫んだ気がする。


 はっとした時には、会場が嫌にしんとしていた。私は立ち上がっていて、眼下には、尻もちをついた伯父がいる。食事が進むにつれ、自然とめいめいに散っていた視線が、今は己に集まっている。


「あ……。その、これは、違くて」

「冗談も分からないのか! これだから、ケツの青いガキは!」


 カーペットを叩きながら、彼が怒鳴る。マイクの電源はついていないはずなのに、きいん、というハウリングめいた高い音が聞こえた。それはなかなか途切れずに、ずっと、細く長く、鼓膜の奥で鳴り続けている。耳鳴りだった。


「ちょっと、どうしたの、何の騒ぎ? ……林檎、あなた、顔が真っ青よ」


 駆け寄ってきた母が、こちらの顔を一目見て、すぐに私を背中へ庇った。彼女の身体で遮られ、這いつくばった伯父の姿は、ほとんど視界から消え失せる。驚きと嫌悪と罪悪感とがないまぜになって、気持ちの整理が追いつかない。五十メートル八秒台の両脚は、自ずから部屋の出口へと駆け出していた。


「林檎!」


 背中へ投げられた、父の声を無視する。同じ階の女子トイレは、幸いにして誰もいなかった。


「うっ、ぐ、ぉえっ」


 個室の便座に縋りつき、未消化の寿司を吐き出す。形が残る米と切り身が、張られた水に沈んでいく。吐瀉物に絡んだ胃液が酸っぱくて、舌を洗い流したくて、けれども、まだ食道から迫り上がるものがある。悔し涙で便座が歪む。制服だけは汚さないよう庇いながら、胃袋をひっくり返した。


「林檎ちゃん」


 汚れた口を素手で拭き、肩で呼吸をしていると、勝手にトイレの水が流れていった。軽い酸欠でぼやける頭は、背後から聞こえた声が「アンズ」のものであることを、ややあってから思い出した。


「こっちにいらっしゃい。綺麗にしましょ」


 彼女は、自分が汚れることも構わずに、私の手を引いた。洗面所へと連行された私は、節々に皺が寄る細い指で、手の甲に石鹸を塗りつけられる。水で流して、もう一度。彼女の付け爪が、緑色を泡立てている途中でぽろりと落ちた。


「……おかあさんと、おとうさんは」

「樹のジジイを落ち着けてるわ。ちょっと時間がかかりそうだったから、代わりにあたしがきたの」


 気泡を抱いた水に乗って、ネイルチップが流れていく。


「大丈夫。貴女が悪くないってこと、ちゃんと分かってる。ほら、顔も洗うの」


 おぼつかない両手で器を作り、真水で顔を濡らす。前髪が額にくっついて、洗う時だけ離れていく。咥内を濯ぐために噛んだ水は、都会と違って、ツンとくる塩素の臭いがしない。頬の力で啜って、うがいをして、吐き出す。ようやく、頭が回り始める。アンズは、自分の手をハンドドライヤーで乾かしてから、花の香りがするフェイラーのハンカチを私に握らせた。


「あげる。捨ててもいいよ」


 彼女はそのまま、洗面所の端に転がるポーチに腕を伸ばし、イヴ・サンローランのリップを取り出した。下唇と、上唇の山脈に赤をひき、擦り合わせて色を伸ばす。つぱ、と音を立てて塗り直された原色が眩しい。


「ありがとう、ございます」


 花に顔をうずめる。封切りからまだ日が浅いようで、タオル地のハンカチは、少しだけ水を弾く。


「さっきさ。パパとママが助けてくれるのを、期待したでしょう」


 息が止まる。肺の底へ、瞬く間に氷が溜まっていく。揺れる視線を彼女へ向けると、鏡越しに目が合った。


「愛されていること、守ってもらえることを、当たり前と思える。正に理想ではあるけれど、他人に甘えているだけじゃ、もっと悪いことだって起きるわよ。女の腕で突き飛ばせない輩なんて、この世にごまんといるんだから」


 ねえ? と付け足されたところで、同調も非難もやりにくい。母国の両端にすら行ったことがない、世間知らずな私にできることといえば、たしなめられて生じた羞恥を言葉に乗せることくらいだった。


「で、でも! 怖かったんです、怖くて、動けなくて……普通はみんな、私みたいにっ」

「貴女の言う『普通』が何を指しているのか知らないけど、どうにかされてからじゃ遅い。誰かを頼りにする前に、自分を頼みの綱になさい」


 目頭に、力をこめる。こみあげてきた塩水が、間違っても溢れように。


——どうして、怒られなきゃいけないの。私、悪くないのに。酷い目に、あったばかりなのに。


 十数秒、二人の間に沈黙が横たわる。それを先に破ったのは、彼女の浅い溜息だった。


「他人っていうのはね、受けた傷の手当ならしてやれる。だけど、傷をまるきりなかったことには、絶対できないのよ。致命傷で死なないためには、結局、貴女が自分で助かるほかない。……あたしの言ってること、伝わってる?」


 頷きかけて、やめた。握った両手の内側で、湿ったハンカチが潰れている。優しくしたかと思えば、今度は淡々と正論を突きつけられて、年相応の反抗期が顔を出す。


「そんなのって、悲しいし、おかしいです」

「そうね、おかしい。おかしいけど、ああいう手合いが変わるのを待っていたら、貴女ミイラになっちゃうわ」


 十七年という短い人生の中から、真っ当な彼女の言につけられるだけの難癖は、それ以上見つからなかった。


 拗ねた心を見透かしてか、アンズは、くっきりと濃い目元を和らげる。ところどころにある小皺すら、一種のアクセサリーであるかのようだった。


「まだまだ貴女が青いうち、あいつらが油断している間に、実力っていう幹を天まで伸ばしなさい。そんでもって、雲の上で成った実を甘ぁく赤く、芯まで美味しく熟しなさい。それが、身の程知らずに対する、一番の復讐になるから」


 歯を見せて笑った彼女は、仰々しく腕を組んだ。右の二の腕に添えられた左手は、薬指だけが素の爪だ。


「にしても、あいつってば、コウちゃんと比べりゃスッポンね。親子って、やっぱりコピーじゃないんだわ」

「こう、ちゃん?」


 あいつというのは、先のセクハラ野郎を指しているのだろう。しかし、「コウちゃん」で連想できる知り合いは、心当たりが生憎ない。呟きを拾ったアンズは、頷きがてら、瞼を一秒ほど閉じた。再び視線が交わった刹那、彼女が私を透かして、ずっと後ろにいる誰かを見ているかのように遠い目をしたのは、ただの見間違いだろうか。


「貴女のおじいちゃん、兼、あたしの彼氏。康熙だから、最後のキだけ外して、コウちゃんって呼んでたの」


 今日受けたショックのどれとも違う、新種の衝撃を脳にくらった。遺影ですらしかめっ面の祖父が、幾回りも歳下の女性を、愛人にしていたとは。


「今度の病気も、一緒に治そうって話してたんだけどさぁ。昨日の朝は、まだあったかい掌を握りしめて、呆然としちゃったよね」


 用の済んだ口紅が、化粧ポーチに戻される。悲しい話をしているはずなのに、彼女の顔つきは凛々しくて、その美しさにどきりとした。第一発見者の看護師は、明日もきっと、誰かの命を看取るのだ。


「いいこと? 林檎ちゃん」

「えっ。あ、はいっ」


 ぐるぐる回る頭につられて、返事の声がひっくり返った。分かりやすい失態に、首の裏まで熱くなる。そんな私を、アンズは微笑ましげに見つめていた。


「望まぬ相手に摘まれちゃダメよ。熟れに熟れて、そのまんま腐らせてしまうのも論外。貴女を磨いて、優しく包んで、美味しく食べてくれる人と場を、うんと吟味して探しなさい」


 彼女のまっすぐな視線で、私は何も言えなくなる。緊張しているのに、目を逸らしたくないと思わせるしたたかな華が、アンズの全身から発されていた。


「もちろん、貴女を齧るのが、貴女自身であってもいいわ。おばさんの戯言だけど、楽になるなら覚えておいて」


 見事なウインクを炸裂させたアンズは、颯爽と女子トイレから退場する。彼女の黒いパンプスは、よくよく目を凝らしてみれば、靴底が一面真っ赤に塗られていた。ルブタンの、レッドソール。頭の先から足の先まで、隙のない武装である。


 アンズは、身に纏うものの全てが派手で、場違いなほどに煌びやかだった。しかし、彼女が故人の好い人だったと知った今、あれは、死出の旅路につく恋人を見送るための、最期のデート服なのかもしれないと空想する。数多の人々に焼香を捧げられた「コウちゃん」は、一時間もの業火によって、ほとんど燃えてしまった。焼けた骨は、抱えられる分しか残らなかった。


「一番の、復讐に……」


 誰もいなくなった白い空間で、独りごちる。


——そうか。私、戦おうとすらしていなかったんだ。物分かりのいいふりをして、善良な誰かが、手入れしてくれることを期待していた。


 人任せにしなくても、置かれた場所で、咲かなくても良い。この身体には、どこへだって行くことができる、立派な脚がついているのだから。


「林檎っ!」


 声へ返事をする前に、入り口から駆け寄ってきた母が私を抱きしめた。薄い脂肪がついた、ふくよかな体温。苦しいくらいの抱擁で、心臓がぎゅうと縮こまる。


「離れていて、本当にごめんなさい。怖かったね。嫌だったね。気持ちが落ち着いたら、家に帰りましょう」


 頭を撫でられてから、再び両手を背に回される。同じように、彼女の背中へ手をあてると、その力は一層増した。


「……あのね、ママ」

「うん、なあに?」


 とん、とん、とん。子守唄代わりに、背中を軽く叩かれている。安息が、身体の芯から、四肢の末端へと広がっていく。


「帰ったら、一つ、相談したいことがあるの」


 提出期限まで悩みに悩み、空欄のままにしていた第一志望。夢物語として連ねては、何度も消した憧れを、今度こそ、消えないボールペンで刻みたい。


 焼香の匂いがするジャケットへ、首の力を抜いた顔を預ける。閉じた瞼へ浮かぶのは、青林檎のように冴えた黄緑の口紅を塗る、ちょっぴり大人びた私の姿だった。

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若い林檎が熟すまで 翠雪 @suisetu

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