第5話 気になる人
──お父さん。それは桜井という苗字を元々持っていた顔もまだ知らない透君のお父さんのことだ。どんな人なんだろう。
私がそう考えている間にも、隣にいる彼は話を続けていく。
「元々父さんは母さんと職場が一緒で、小さい時から面識があったから俺も結婚に賛成したんだ。苦労した分だけ幸せになって欲しいし、お互いその気持ちがあるなら止めるつもりはなかったし。」
自分のことなのに他人事のように話す姿は、いつもと変わらなく落ち着いていて冷静に思えた。
「でもいざ自分の名前が変わったとき、なんていうか今までの自分が否定された気がして受け入れられなかった。…意味分かんないよね」
短い説明だったが、彼の様々な感情が怒涛の勢いで私の体に入り込んできた。
──彼は、変化を恐れた。たった一人の家族が自分だけのものでは、なくなってしまうことを。
──彼は、嫌悪した。幸せを願っているはずの相手を、心から祝福できないもう一人の自分がいることに。
──そして彼は、傲慢だった。そんなこと誰もが持っている感情なのに、なぜ一人で抱え込もうとしたのか。人は一人でなんて生きていけない、この星の生命の中で最も孤独な生き物なのに。
今まで気づかないふりでもしていたのだろう。とどめなく溢れてくる嗚咽は、痛々しくて見ていられなかった。手は血が出てしまうのではないかと思うほど強く握られていて、私は解すように上からそっとそれを包み込み、感情表現が苦手な彼の視線をこちらへ向けさせる。そして、決して人前では泣けない不器用な性格を受け止めるように、透君の体を抱きしめる。
今は恋愛とか、そんな感情は関係ない。関連付けてはいけない気がする。
じんわりとお互いの体温が溶け合って一つになっていくのを感じる。
「どんな透君でも私にとっては、大切な幼馴染だよ」
私は名前が変わった経験はないから、共感出来ないし下手なことは言えない。けれど透君に好きと言って欲しくて、ずっと笑っていて欲しいと思ったこの気持ちに嘘偽りはない。
──それだけは、どうか忘れないで。
背中に腕をまわされ、耳元で荒い息遣いが聞こえた。
そういえば子供の頃は泣き虫だったっけ、なんて今とは真逆の姿がぼんやりと浮かぶ。幼稚園の頃は私や透君のお母さんから離れなかった小さな手は、今や大切な人を守るために大きく立派に成長した。
私は彼が落ち着くまで、ずっと背中をさすった。
「私、青柳透も好きだけど桜井透も好きだよ」
「なんで?」
耳元が桜色に染まった透君は不思議そうに、首を傾げる。
「だって、桜井と春菜だよ!同じ季節でしょ?」
「あと席も近い」
「そうっ、それも!」
食い気味に言うと、透君は呆れたようにふわりと笑った。
「どんだけ俺のこと好きなんだよ」
無防備に笑うその姿は青々とした葉よりも爽やかで、四方に春を届ける桜よりも鮮やかだった。
え、好き。大好き。
私の願望かもしれないが、心なしか辺りの空気はピンク色だ。
私と彼がこれからどうなるのかは、未来にいる苗字と名前が春色に染まった私がよく知っている。
気になる人の名前が変わった件 天野詩 @amano-uta
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