はじめてお留守番する娘と夜更かしどもの午前二時

「みっからなかった……」

 約束したよね。うちに入るよ。

「あと、すこしだけ。ねえ、おねがい」

 だめだ。もう何度目だと思ってるの。

 時刻は、うに二十時半すぎ。約束の刻限から、分針が一周余計に回りきっている。

 くだんのアプリの中のスイッチを切り替えて、なおもぐずるレベッカから身体の自由をまるごと取り上げた俺は、玄関を開けると窓という窓からカーテン越しの灯りを零したままの出水邸に足を踏み入れた。

 すぐには開けられないように、引戸の二重錠を両方ともしっかり掛けると、下駄箱から靴を適当に何足か拝借して、三和土たたきの上に手早く並べる。

 知恵さん一人の暮らしらしく、男物は、古びた革靴一足しか見当たらなかった。仕方ないから、これでよしとする。

 小さな女の子が喜びそうな意匠デザイン自分レベッカの靴は脱がないまま、頭の中でEAPにいくつかのオーダーを入れる。身体の方も無為に過ごさせているわけではなく、バカでっかい声を俺は上げた。

「パパあ! 見つからなかったよー! また明日探すからねー!」

「そうか、ありがとう。明日一緒に探すから、早くママとお風呂入っといでー」

 俺のよく知っている四十歳ふわく先生ししょーそっくりの地太なのに不思議と涼やかな人工音声が、廊下の奥へ飛ばしたEAPから玄関に返ってくる。

 その声に、うん、そうするー!ともう一度能天気そうな声で答えつつ、俺は視線を左右に走らせた。

 まずは候補に上がったのは、壁に立てかけられた玄関掃除用の箒。右手でむんずと掴む。

 長さは悪くないけれど、軽くて、少し心許ない。

 ほかで武器になるようなものは――包丁にするか? 間合いが不十分だし、万が一取り上げられたらこっちの身が危うくなる。やめだ、やめ。

 となると、床の間のアレがいいな。振り回せば、ほどよい殺傷能力を発揮するはずだ。この身体には重たすぎるから、明日以降が怖いけれど、そんなもんはアプリを使って痛覚を減衰させてやれば、多少は誤魔化しが利く。

 玄関の向こうにいた相手は、今の父娘・・のやりとりを聞いて少し考え込んでいるようだった。

 諦めてさっさと帰んな。ほら早く帰れ帰れけーれけーれってんだ!

 土足のまま廊下に上りながら、俺はあっかんべえをする心持ちで、黙ったまま後ろ足で思いっきりをぶっ掛けてやった(もちろん心の中でだ)。

 胸の中に閉じ込められてからもずっとぐじぐじ言っていたレベッカだったが、俺がEAP相手に返事をしたあたりから、何かが妙だと気付いたらしい。

 借りてきた猫みたいにしいんと静かになった彼女と一緒に、くだんのアプリで底上げした聴力が宿った耳をそばだてる。

 玄関の開き戸から、おかしな音はしない。

 どうやら、今の先生の声で、相手は諦めてくれたみたいだ。

 足早にたどり着いた床の間の前で、俺は模造刀の柄に指をかけたまま、大きく息を吐き出した。

(ねえ、いまのって、もしかして、ふしんしゃ?)

「だろうな。ベッカちゃんが庭で一人でいるのを見かけて、来たんだと思うよ。危ないってこういうことなの。分かった?」

(うん)

 ほんとに分かってんのかな……。

 すぐさま戻ってきた短い返事に、不安になる。とはいえ、危ない理由を詳しく説明する気にもなれなかった。

 念のためにだけど、今夜は俺が見張るから、ベッカちゃんは普通にしてなよ。とりあえず、ご飯にしよっか? なに食べたい? 冷蔵庫に知恵さんがいろいろ用意してくれてたのがあるから、そこから選びなよ。

 廊下を斜めに横切りながら、玄関扉のすりガラスの向こうに何の影もないのをちらりと確認した俺は、身体のコントロールをレベッカとシェアする状態に戻し、彼女に語りかけた。

 もちろん、《人工音声ローレライ》に、それらしいおしゃべりを垂れ流させるのも忘れない。

「そだね、おなかすいちゃった。めだまやきがいいな」

 目玉焼きかあ。あったかなあ。まあ、なければそれくらい自分で焼けばいっか。

 冷蔵庫を覗くと、さすがに完成品の目玉焼きは見当たらなかった。料理のうちにも入らないから、そりゃあそっかと勝手に納得する。

 卵、いくつ?

「にこがいい。ママはいつもそうしてたわ」

「ベーコンとかは?」

「たまごだけがいいな」

 分かったよ。俺、カリカリに焼いたベーコンが好きだから、明日の朝は入れさせてね。

「いいよ。たまご、ベッカがわってもいい?」

「いいよ。殻入れないで割れる?」

「まかせて!」

 いいよが二回も重なって、ほんとにお化けと話しているみたいな会話。知恵さんの言う通り、レベッカのためにこれは他人ひとには聞かせられないと改めて思う。

 俺が冷蔵庫を肘で閉め、踏み台から降りたレベッカが、きょろきょろする。

 ボウルは水道の下の引き出しだよ。

 声には出さずに教えてやって、レベッカが腕に抱えた卵を背伸びして調理台においた。

 出来上がった目玉焼きは、ちょっとどころでなく殻入りで、明日は俺が卵を割ろうと心に決めた。


 午前二時。ひゅうひゅう鳴ってる風の音で目が覚めた。

 ヒトの姿でいるせいか、昨日みたいな金縛りはない。

 なんだよ、まだ眠いのに。

 そう思って、眠りに落ち直そうとした俺とチル魔法で繋がっている耳朶が、遠くで床を踏む微かなぎしりという音を捕まえた。今夜は俺が見張ると言ったことを思い出す。

 そうだ、だから聴覚だけはアプリ上の上限値リミットに張り付けていたんだっけ。

 自主練で疲れて眠っているレベッカを起こさないよう、彼女に繋がる下りも上りもまとめて全部切って、俺は身を起こした。

 寝台から降りて裸足の足を靴に突っ込む。

 ベッカちゃんが練習を頑張ったから、ご褒美。好きなだけ眺めていいよ。

 そんな口実で、昨夜のうちに床の間から持ち出していた太刀の柄に手を添える。

 鞘から抜いた偽物の刃を持つ刀身は、五歳の女の子の腕で存分に振るうにはやはりズシリとして重い。

 かわいそうに。明日はひどい筋肉痛になるかもしれないぞ、この子。

 とはいえ、なんの対処もなしでいたら、レベッカを待っているのは、かわいそうどころの話ではない。

 先生からは、この旧甲南湖かなごで一軒しかない「明かし」の魔女の家に来たお客様は必ず、インターホンを押して玄関から上がるのだと、すでにレクを受けている。

 家人がいると分かっていながら、玄関まで来たにも関わらず呼び鈴を押さないで帰った野郎に、夜半過ぎに他所様の家の勝手口から鍵を突破して上がってくるような輩。

 耳に届く足音は一人分だったので、偶然この家に強盗が押し入ったのでもない限り、二人の不届者は客として来たわけではない同じ人間なのだろうと俺は踏んだ。

 親子・・が寝静まっているであろう時間にわざわざ出直してくるなんて、この子もたちの悪いのに目をつけられたな、と思う。

 しつこい奴。そんなにこの子のことが気に入ったのかよ。

 だったらさ、お望み通り魔女の孫弟子が相手にしてやるよ。上等じゃん。

 眠りに戻ることを妨げられて、いつもよりハイになっていることを自覚しつつも、模造刀を握りしめた俺は、階段室から死角になっている腰壁の陰に身を潜めた。

 星明りの下で把握していた体格差から、火事場の馬鹿力込みでもレベッカの身体で相手を制圧できる絵は浮かばなかったので、狙うのは足だけに絞る。

 捕まらなければ構わない。最悪でも狼の姿で逃げおおせればいい。

 ほんとはこういうのが得意なのは――は? 寝ぼけてるのか。今何を考えた? いけねえ、集中集中。思索に急に浮上してきたスラッジを再び沈めようと、俺は小さく首をすくめた。

 ゆっくりと登ってくる足音。ベタつくような呼吸がセット。気色が悪いんだよ、このクソ変質者め。

 EAPで無理やり抑え込んだままのレベッカの《二つ身デュプレックス》を自由フリーにするタイミングは、いつがいいだろう。

 前脚ではすぐには扉を開けられないから、庭に飛び出してからしかないか。脱ぎ捨てた夜着と肌着はくれてやることになるかもしれない。嫌だな。そんな気が残らないくらいにお前のすねにきっつい一撃をお見舞いしてやる。

 さあ来い。

 ぱしゃがりんと、ガラスの割れる乾いた音がした。

 ベランダの方?

 階段を上りきろうとしていた相手がびくりと縮こまったのが分かった。

 もちろん俺だってびっくりだ。意表を突かれたと言ってもいい。

 反射的に「お」と「わ」の中間のような叫びを上げそうになった口を、背後から誰かにものすごい力で、抑えつけられた。

「あいたた……それ以上噛んだらね、承知しないわよ」

「おまわりさーん! 怪しい人が入っていった家はこっちでーす!! はやくう、早く!!」

 思い切り歯を食い込ませてやったにも関わらず、押し付けられた手のひらと変わらぬくらい、熱量を感じさせない囁きと、物心つく前から一番たくさん聞かされたのよりかは、幾らか甲高いけれど、よく馴染んだ元気いっぱいの喚き声。

 耳にした数こそ全然違うものの、ともに聞き覚えのある二人分の少女の声が、レベッカの鼓膜を通じて、俺に届く。

 ミフネと、母さんだった。

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