第5話


 涼が死んだ。交通事故だった。轢かれそうになった子供を庇ったらしい。そんなドラマのような展開ありえるか? と思ったが、あの斎藤涼だ。ありえる話である。その話を聞いた時、頭の片隅で冷静な俺が手を叩いて笑っていた。

 涼が死んだ。俺は泣かなかった。ただ、呆然とした。高校を卒業して、互いに別の大学へ行きながらも同居していた彼。別々の寝具で寝ていても、寂しいからという理由でベッドに潜り込んできた彼。料理だけはいっちょ前に上手い彼。バイト終わりに帰宅した俺に手料理を振る舞い、「美味しい?」と問う彼。

 「じゃあ、行ってくるね。僕、今日は帰りが遅くなるから」。薄いカーディガンと淡いグレーのシャツを着た彼が、トートバッグを肩に掛け靴を履きながらそう言った。涼は宇宙人から、普通の何処にでもいる平凡な大学生に進化した。けれど、中身は昔のまま変わらない。彼が大学でうまくやっていけているのか、心配になる時が多々ある。しかし、彼はどうやら他人に紛れてうまく生活しているそうだ。そんなところも彼らしいなと思う。

 帰りが遅くなるなら、俺が買い出しをして夕食を作ってやるかと意気込み、家から出ていく彼を見送る。「バイバイ」。手を振る彼の背中を見送る。毎日の風景。見飽きた光景。あの会話が最後になるとも知らず、俺たちは別れた。

 涼が死んだ。連絡が来たのは午後四時過ぎだ。俺に直接連絡は来なかった。涼の母親から電話が来た。スピーカー越しの彼女は泣いていた。震えた声は聞き取れないほど乱れていた。支離滅裂な言葉の端々から、涼が死んだということだけ聞き取れた。俺は泣かなかった。ただ、呆然とした。何故か俺の頭の中は、今日の夕食のメニューがぐるぐると回っていた。豚の生姜焼き。ふんわり卵の中華スープ。あと一品、どんなものを追加しようか。今日、涼はなにを食べたいだろうか。涼は、涼は────。

 涼が死んだ。葬式会場で、俺は彼にやっと再会できた。一ミリも微笑んでいない涼の遺影が飾られている。そんな写真も彼らしいなと思った。

 通夜には真っ黒い服に身を包んだ人々が訪れている。悲しげな顔をして目元を拭っていた。見たことのない顔ぶれは、涼と大学で交友がある人物だろうか。それとも親族だろうか。俺は生憎、涼の友人や従兄弟とは面識がない。だから、彼らが誰だか分からない。けれど、誰でもいい。そんなこと、どうでもいい。


「……高橋くん」


 肩を叩かれ、聞き覚えのある声に振り返る。相手は涼の母親だ。やつれたその姿は、幼少期に見ていたものとはかけ離れていた。乾いた唇を必死に上げ、目を細める姿は痛々しい。


「来てくれて、ありがとう。近くで、見てあげて」


 棺桶に導かれる。花に囲まれ横たわる涼は、まるで作品のようだった。美術館に展示されていてもおかしくないほど、美しい。額にできた見慣れない傷跡は、きっと事故で出来たものだろう。子供を庇い、命を救ったスーパーヒーローを見下ろし、俺はなにも言えないまま固まった。

 彼は、人間だった。宇宙人でもなんでもない、ただの人間だった。知っていたはずの、その真実が、ずしりと背中に乗り掛かった。


「何か、言ってあげて?」


 従来の友人であると知っている涼の母親が、穏やかな声で囁いた。俺は何も返せないまま、彼の死体を見つめる。色の引いた彼の頬は、少しも動かない。

 涼が死んだ、涼が死んだ、涼が死んだ、涼が死んだ────。


「死んだ後は、綺麗に食べてほしい」


 耳元で涼の声が聞こえた。幻聴だと分かっている。あの会話も、出来事も、俺たち二人だけの秘密だ。誰にも穢されない、二人だけの。

 俺は唾液を嚥下する。棺桶の縁に手をかける。瞼を硬く瞑り、静かに横たわる涼。背後から、彼の母親が視線を注いでいる。友人との最後の別れを、涙を堪えて見ているに違いない。

 俺は、勢いよく彼に飛びかかった。その首筋めがけて、顔を突っ込む。鋭い悲鳴が会場に響いた。涼へ噛みついた瞬間に、後ろへ引かれる。そのまま尻餅をつき、床へ倒れた。鈍い痛みが全身に広がるが、それより興奮が優っていた。口の中に、涼の皮膚へ触れた感覚が残っている。

 まだ、彼を食べていない。

 俺は立ち上がり、もう一度棺桶へ手を伸ばす。「やめろ」。誰かが怒鳴る。グイと襟首を引っ張られ、首が締まった。振り返ると、涼の父親が立っている。「何してるのよ高橋くん!」。悲鳴が鼓膜に弾いた。涼の母親が叫んでいるのだ。けれど、俺は止まれない。涼が、涼が綺麗に食べてくれと言ったんだ。だから、そうしなければ。彼を、食べなければ。


「いい加減にしろ! 出ていけ!」


 その後の記憶はない。帰路に着いた俺は、ボロボロな格好をしていた。乱れたスーツと、ぐちゃりとした髪。道ゆく人々が俺を見てみぬふりして通り過ぎていく。そんな視線も気にならないほど、俺は放心していた。

 見慣れたマンションがようやく見えてきた。三〇五号室を見上げる。部屋に明かりが灯っていない。まだ涼が帰宅していないのだと思い、しかし彼はこの世にもう居ないのだと思い出した。

 階段を上がり、廊下を歩む。自宅前まで向かい、ポケットに入っていた鍵を取り出す。開錠し、ドアを開けた。

 中は、耳鳴りがするほど静かだった。「おかえり、静海くん」。抑揚のない声が、もう聞こえない。

 靴を脱ぎ、廊下を歩む。部屋に入ると、乱れたベッドが見えた。そこへ腰を下ろし、呆然と床を見つめる。外から車の排出音が聞こえた。遠のいて行く音がこびりつき、リフレインする。

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