第4話


 鋭い包丁だった。そんなもの、どこで買ったんだ。俺はどうでもいいことを脳裏で思いながら、喉をカラカラにさせた。

 場所は風呂場。目の前にはレインコートを着た涼が浴槽の中に立っている。手には鋭い包丁を持ち、それを首にピタリと押し当てていた。

 実にチグハグな光景だと思った。半透明なポンチョ型のレインコートに身を包んだ涼がご丁寧にフードまで被っていた。すっぽりと収まった彼は、てるてる坊主のようだった。


「それ、捨てろ」


 砂漠のように干からびた喉から、なんとか言葉を搾り出す。震える手を差し出し、こちらへ渡せと促す。しかし、涼はぴくりとも動かなかった。薄い唇を固く閉じ、瞬きもしないまま俺を見つめている。

 死ぬのだと思った。彼の表情を見て、確信した。だからこそ、俺は早く刃物を奪いたかった。


「静海くん」

「それをこっちに渡せ」

「目を逸らさないでくれ」

「涼、話を聞け」


 彼は表情筋を一つも動かさずに、そう言った。恐怖を覚えるほど、涼は冷たい目をしている。その光のない瞳に俺は映っているのだろうか。

 妙に心臓が跳ねた。バクバクと脈打ち、呼吸がしづらくなる。頼むから、渡してくれ。震える声が風呂場に反響する。額から汗が垂れ、顎を伝った。俺はこんなにも心情を乱しているのに、涼はなんてことない顔をしている。

 なんてことない顔をして、首筋に包丁を突き立てている。

 彼の首に、あの刃が突き刺さればどうなってしまうのだろうか。血が吹き出し、水色のタイルと乳白色の浴槽に飛び散るんだろうか。痙攣を起こし前のめりに倒れ、絶命してしまうのだろうか。

 脳裏に浮かんだ悲惨な光景が恐ろしくなり、俺は勢いよく涼に突進した。彼は表情を崩さぬまま、後ろへ倒れた。

 ゴン。鈍い音が響く。「いたっ」。涼の小さい悲鳴が聞こえ、包丁が床に落ちる音が聞こえた。俺は顔を上げる。涼が後頭部を抑え、目を瞑っていた。

 どうやら、俺のせいでタイルに頭をぶつけてしまったらしい。「ごめん」と謝罪をした。涼が目を開ける。


「止めないでくれ」

「いや、止めるだろ」

「君は見てるだけでいいから」

「いや、ダメなんだって」


 視界の端に、転がった包丁が入る。深々と息を吐き出し、無意識に彼を抱きしめた。俺の汗ばんだ体と、涼の冷えた体が対照的に思えた。「熱いね」。ひとりごちるように涼が呟く。


「なんで」


 なんでこんなことするんだよ。彼の肩をキツく抱きしめた。彼は死ぬ場面を見届けて欲しいと言った。けれど、そんなの、嫌に決まっている。

 涼は何も返さなかった。ただ、ゆっくりと体を離し、俺の目を見据えた。静かな森のような、闇に溶ける夜の海のような、そんな瞳をしている。吸い込まれそうなほど美しい。

 ぐっと唇を噛み締め、俺は震える喉から声を絞り出す。


「キスするぞ」

「え?」

「次、自殺しようとしたら、キスする」


 嫌だろ? そう言う前に、彼が唇を寄せた。冷えた薄い皮膚が触れ、やがて離れる。俺は声も出せないまま固まった。涼は無垢な子供のように首を傾げる。


「キスしたかったんでしょう?」

「違う、そうじゃない……」


 キスをしたかったわけじゃない。次に自殺を仄めかしたら罰としてキスをすると言ったのだ。なのに彼には伝わっていない。むしろ、なんの戸惑いもなくキスをした。

 俺は無意識に彼に触れられた部分を舌で舐めた。胸が高鳴り、体に汗が滲む。

 もう一度、涼がキスをしようと体を寄せる。俺は悲鳴をあげ後ろへ退いた。


「何やってんの、お前!」

「もう一回してほしそうな顔してた」

「そんなワケッ……!」


 強く拒絶できない自分が腹立たしい。彼の肩を強く握り、見つめ合う。


「お前……嫌じゃないの?」

「……静海くんのこと好きだから、嫌じゃないよ」


 彼の言葉に胸を高鳴らせたが、しかし。相手は斎藤涼だ。宇宙人だ。好きと言う言葉の意味は、道端にできた水溜まりほど浅く、銀河より広い。そこらの草むらにいるカエルさえ、色が美しいから好きだと言う理由でキスするに違いない。

 俺は彼の言葉に惑わされぬよう、深呼吸を繰り返す。

 そこで、ハッと良い提案を思いつく。彼の手を掴み、握りしめた。


「涼……俺のこと、好きか?」

「うん、好き」

「俺も、お前のこと好きだ」


 まるで一世一代の告白をする男のように、彼へ告げる。涼はぼんやりとした顔をしたまま、黙っている。その顔は好きだと告げられた人間の表情ではない。


「あのぅ……えっと……涼、好きだ」

「そう」


 さらりとした返答に苦笑いを漏らし、咳払いをする。


「じゃあ、好き同士だな。付き合おう」

「いいよ」

「……じゃあ、もう自殺しようとしないな?」

「どうして、しちゃいけないの?」


 何一つ理解していない彼の頬を叩きたくなる。そんな衝動を抑えつつ、唾液を嚥下する。


「好きな相手が死ぬのは悲しいから」

「悲しい?」

「そう、スッゲー悲しい。だから、こう言うのはもう二度とやめてくれ」

「僕が死ぬと、静海くんは悲しいんだ……」


 彼は目を伏せ、そうひとりごちる。意外そうな声音に、俺は拍子抜けした。まさか彼は、こんな簡単なこともわからないのだろうか。さすがはエイリアンだ。


「そう、悲しい。高校卒業して、同じ大学に……いや、違う場所に通うとしても一緒に暮らして……会社に勤めても……ずっと一緒に居よう。いや、居たい。俺はお前とずっと一緒に居たい。それこそ死ぬ、その時まで」


 涼の手を握る。汗ばんだ俺の手と相反して、彼は冷え切っていた。そんな手をきつく握りしめ、愛の告白を漏らす。まさか、宇宙人相手にこんなことを言う羽目になると思っても見なかった。けれど、言わなければよかったと恥じている自分がいない。そのことに驚いた。言葉通り、彼と共に居たい。共にいて、彼を見守りたい。


「静海くんが悲しいなら、やめる」


 抑揚のない声が浴室に響く。感情の籠っていない声音はいつも通りだが、はっきりとした意志を感じる。キッパリと告げられた言葉に、思わず歓喜の雄叫びを上げる。


「言ったな!? 俺は聞いたからな!? やめるんだな!?」

「うん、やめる」

「よし!」


 俺はガッツポーズをした。涼は俺の喜び具合に、薄く口を開いたまま固まっている。ポカンとした彼を見て、俺は興奮のまま肉のない体を抱きしめた。何がなんだか分かっていない涼が、間をおいて俺の背中に腕を回す。


「……僕がおじいちゃんになって、先に死んじゃったら、最後の瞬間まで、きちんと僕を見ていて。死体も、ちゃんと食べて」


 どうせその頃には両者ともボケていて、何も覚えていないさ。そう言いそうになったが、しかし。彼の消えかかりそうな声に、俺は大きく頷いた。

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