第4話
◇
鋭い包丁だった。そんなもの、どこで買ったんだ。俺はどうでもいいことを脳裏で思いながら、喉をカラカラにさせた。
場所は風呂場。目の前にはレインコートを着た涼が浴槽の中に立っている。手には鋭い包丁を持ち、それを首にピタリと押し当てていた。
実にチグハグな光景だと思った。半透明なポンチョ型のレインコートに身を包んだ涼がご丁寧にフードまで被っていた。すっぽりと収まった彼は、てるてる坊主のようだった。
「それ、捨てろ」
砂漠のように干からびた喉から、なんとか言葉を搾り出す。震える手を差し出し、こちらへ渡せと促す。しかし、涼はぴくりとも動かなかった。薄い唇を固く閉じ、瞬きもしないまま俺を見つめている。
死ぬのだと思った。彼の表情を見て、確信した。だからこそ、俺は早く刃物を奪いたかった。
「静海くん」
「それをこっちに渡せ」
「目を逸らさないでくれ」
「涼、話を聞け」
彼は表情筋を一つも動かさずに、そう言った。恐怖を覚えるほど、涼は冷たい目をしている。その光のない瞳に俺は映っているのだろうか。
妙に心臓が跳ねた。バクバクと脈打ち、呼吸がしづらくなる。頼むから、渡してくれ。震える声が風呂場に反響する。額から汗が垂れ、顎を伝った。俺はこんなにも心情を乱しているのに、涼はなんてことない顔をしている。
なんてことない顔をして、首筋に包丁を突き立てている。
彼の首に、あの刃が突き刺さればどうなってしまうのだろうか。血が吹き出し、水色のタイルと乳白色の浴槽に飛び散るんだろうか。痙攣を起こし前のめりに倒れ、絶命してしまうのだろうか。
脳裏に浮かんだ悲惨な光景が恐ろしくなり、俺は勢いよく涼に突進した。彼は表情を崩さぬまま、後ろへ倒れた。
ゴン。鈍い音が響く。「いたっ」。涼の小さい悲鳴が聞こえ、包丁が床に落ちる音が聞こえた。俺は顔を上げる。涼が後頭部を抑え、目を瞑っていた。
どうやら、俺のせいでタイルに頭をぶつけてしまったらしい。「ごめん」と謝罪をした。涼が目を開ける。
「止めないでくれ」
「いや、止めるだろ」
「君は見てるだけでいいから」
「いや、ダメなんだって」
視界の端に、転がった包丁が入る。深々と息を吐き出し、無意識に彼を抱きしめた。俺の汗ばんだ体と、涼の冷えた体が対照的に思えた。「熱いね」。ひとりごちるように涼が呟く。
「なんで」
なんでこんなことするんだよ。彼の肩をキツく抱きしめた。彼は死ぬ場面を見届けて欲しいと言った。けれど、そんなの、嫌に決まっている。
涼は何も返さなかった。ただ、ゆっくりと体を離し、俺の目を見据えた。静かな森のような、闇に溶ける夜の海のような、そんな瞳をしている。吸い込まれそうなほど美しい。
ぐっと唇を噛み締め、俺は震える喉から声を絞り出す。
「キスするぞ」
「え?」
「次、自殺しようとしたら、キスする」
嫌だろ? そう言う前に、彼が唇を寄せた。冷えた薄い皮膚が触れ、やがて離れる。俺は声も出せないまま固まった。涼は無垢な子供のように首を傾げる。
「キスしたかったんでしょう?」
「違う、そうじゃない……」
キスをしたかったわけじゃない。次に自殺を仄めかしたら罰としてキスをすると言ったのだ。なのに彼には伝わっていない。むしろ、なんの戸惑いもなくキスをした。
俺は無意識に彼に触れられた部分を舌で舐めた。胸が高鳴り、体に汗が滲む。
もう一度、涼がキスをしようと体を寄せる。俺は悲鳴をあげ後ろへ退いた。
「何やってんの、お前!」
「もう一回してほしそうな顔してた」
「そんなワケッ……!」
強く拒絶できない自分が腹立たしい。彼の肩を強く握り、見つめ合う。
「お前……嫌じゃないの?」
「……静海くんのこと好きだから、嫌じゃないよ」
彼の言葉に胸を高鳴らせたが、しかし。相手は斎藤涼だ。宇宙人だ。好きと言う言葉の意味は、道端にできた水溜まりほど浅く、銀河より広い。そこらの草むらにいるカエルさえ、色が美しいから好きだと言う理由でキスするに違いない。
俺は彼の言葉に惑わされぬよう、深呼吸を繰り返す。
そこで、ハッと良い提案を思いつく。彼の手を掴み、握りしめた。
「涼……俺のこと、好きか?」
「うん、好き」
「俺も、お前のこと好きだ」
まるで一世一代の告白をする男のように、彼へ告げる。涼はぼんやりとした顔をしたまま、黙っている。その顔は好きだと告げられた人間の表情ではない。
「あのぅ……えっと……涼、好きだ」
「そう」
さらりとした返答に苦笑いを漏らし、咳払いをする。
「じゃあ、好き同士だな。付き合おう」
「いいよ」
「……じゃあ、もう自殺しようとしないな?」
「どうして、しちゃいけないの?」
何一つ理解していない彼の頬を叩きたくなる。そんな衝動を抑えつつ、唾液を嚥下する。
「好きな相手が死ぬのは悲しいから」
「悲しい?」
「そう、スッゲー悲しい。だから、こう言うのはもう二度とやめてくれ」
「僕が死ぬと、静海くんは悲しいんだ……」
彼は目を伏せ、そうひとりごちる。意外そうな声音に、俺は拍子抜けした。まさか彼は、こんな簡単なこともわからないのだろうか。さすがはエイリアンだ。
「そう、悲しい。高校卒業して、同じ大学に……いや、違う場所に通うとしても一緒に暮らして……会社に勤めても……ずっと一緒に居よう。いや、居たい。俺はお前とずっと一緒に居たい。それこそ死ぬ、その時まで」
涼の手を握る。汗ばんだ俺の手と相反して、彼は冷え切っていた。そんな手をきつく握りしめ、愛の告白を漏らす。まさか、宇宙人相手にこんなことを言う羽目になると思っても見なかった。けれど、言わなければよかったと恥じている自分がいない。そのことに驚いた。言葉通り、彼と共に居たい。共にいて、彼を見守りたい。
「静海くんが悲しいなら、やめる」
抑揚のない声が浴室に響く。感情の籠っていない声音はいつも通りだが、はっきりとした意志を感じる。キッパリと告げられた言葉に、思わず歓喜の雄叫びを上げる。
「言ったな!? 俺は聞いたからな!? やめるんだな!?」
「うん、やめる」
「よし!」
俺はガッツポーズをした。涼は俺の喜び具合に、薄く口を開いたまま固まっている。ポカンとした彼を見て、俺は興奮のまま肉のない体を抱きしめた。何がなんだか分かっていない涼が、間をおいて俺の背中に腕を回す。
「……僕がおじいちゃんになって、先に死んじゃったら、最後の瞬間まで、きちんと僕を見ていて。死体も、ちゃんと食べて」
どうせその頃には両者ともボケていて、何も覚えていないさ。そう言いそうになったが、しかし。彼の消えかかりそうな声に、俺は大きく頷いた。
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