間章4 とある姫君の歓喜②
最初にそれが起こったのは、森に踏み入って五分ほどが経った頃だったでしょうか。
深い森の中、獣道を頼りに進むのは少々心許ないかと思いましたが……ゲッカ様が確かな足取りで先を進んでくださるので、不安はありませんでした。
まだ、周囲に魔物の気配もないようですし……と、思っていたのですけれど。
「っ! 姫様!」
突如、ゲッカ様がわたくしを茂みの中へと押し倒したのです!
「ゲ、ゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲッカ様!?」
まさか、こんなところで!?
もちろんわたくしとしてはいつでも歓迎なのですけれどちょっと心の準備がといいますかいえ決して嫌なわけはなくそれどころか大変な喜びに包まれているのでよろしくお願い致します!?
「シッ! もうすぐ来ます!」
わたくしの唇に指を押し当てたゲッカ様に抱き寄せられて、わたくしは頭が沸騰しそうになり……けれど、ゲッカ様の硬い声に辛うじて理性を保ちました。
伝わってくるゲッカ様の鼓動は速く、緊張状態であることが伺えます。
同時に、わたくしの鼓動がそれ以上に速くなっていることもゲッカ様に伝わってしまっているのでしょうけれど……。
そのままの状態でしばらくじっとしていると、音もなく何かが草むらを移動していくのが見えてきました。
まるで立体感のない真っ黒なそれは、主のいない影が単体で移動しているかのようです。
かと思えば、それがわたくしたちのすぐ傍でピタリと動きを止めました。
次いで影から盛り上がってくるように、黒い兎のようなものが現れます。
鼻(黒一色の身体なのでよくわかりませんが、恐らく)をヒクヒクと動かし、それはせわしなく辺りの様子を伺っているようでした。
しばらくそうした後、それはまた影に潜り込むように平面になって、どこかへ去っていきます。
それが完全に見えなくなってから、更にしばらくして。
「……ふぅ」
ゲッカ様はゆっくりと息を吐き出し、腕の力を緩められました。
「あれ? すみません、ちょっと力入れすぎました?」
そしてわたくしのぐったりした様子を見て、気遣わしげな視線を向けてくださります。
「い、いふぇ……らいじょうぶれすわぁ……」
ゲッカ様に『そのような』意図はなかったこと、重々承知してはおりますが……あのように力強く抱きしめられてはわたくし、腰が砕けてしまいそうですわぁ……。
「あー……その。すみません、余計なことしちゃいましたかね?」
「はひっ!? 余計なことなどと、とんでもない! むしろ、ごちそうさまでした!」
「ごちそうさま……?」
ちょ、わたくしったら何を口走っているのかしら!
「い、いえなんでも……!」
ほほほと笑って誤魔化してみますが、ゲッカ様は怪訝そうな表情のままです。
「そ、それより、余計なこととは何のことですの?」
ここは少し強引にでも、話を進めさせていただきますわ!
「あぁはい。姫様なら、あのくらいの相手とはむしろ戦いくらいだったかなーと思いまして。俺ならともかく」
なるほど、わたくしに経験を積ませてくださろうということですわね。
「お気遣い感謝致しますわ。けれど……」
微笑んで礼を言った後、わたくしは顎に指を当て考えます。
ゲッカ様が相手にするには随分と物足りない魔物であるのは間違いないですが、わたくしなら……。
「カゲウサギを相手にするとなると、少々手こずったことでしょう。負ける相手ではございませんが、容易く勝てる相手でもないと思いますわ」
「姫様からしても結構強い、ってことですか?」
「単純な強さだけなら、それほどでも」
もっとも、このようなことゲッカ様は百も承知でいらっしゃるのでしょうけれど。
恐らく、わたくしの知識を試すと共に間違いがあれば指摘してくださるお心積もりでいらっしゃるのね。
「とにかく索敵能力と隠密力が高いのがカゲウサギの特徴ですので。攻撃力自体はさほどではありませんけれど、影から影へと隠れながら死角を狙われ続ければそれなりに厄介だったと思いますわ」
「なるほど」
わたくしの返答を受け、ゲッカ様は思案顔になられます。
「……なら、隠れて正解だったみたいですね」
そして、そうおっしゃって指を立てられました。
「あの、カゲウサギ? ですか? は、たぶん特殊な個体だったんだと思います。まるで隠れる気がなく気配が丸出しでしたし、俺たちを気にかける風もありませんでした。つまり、逃げも隠れもする必要がないくらい強いってことなんでしょう」
「そうなんですの……?」
わたくしは、言われるまで全くその存在に気付きませんでしたけれど……?
それに……。
「こちらに気付かなかったのは、ゲッカ様の《ハイド》のおかげではありませんの?」
「ご冗談を」
苦笑気味に笑った後、ゲッカ様は表情を真剣なものになさいます。
「姫様、命が懸かってるんです。楽観主義はやめましょう」
「ゲッカ様……」
わたくしの身を、そこまで案じてくださるなんて……!
「ありがとうございます、心得ましたわ!」
きっと先程のカゲウサギも、わたくしなどでは量れぬ力を秘めていたのですわね!
ゲッカ様のおっしゃることをよく聞き、足手まといにならないように努めなければ!
◆ ◆ ◆
とはいえ、ゲッカ様の隠密行動は実にお見事なもので。
獰猛で知られるゴアナの森の魔物たちと結局一切会敵することさえなく、わたくしたちはその日の夕刻を迎えることになったのです。
「今日はこの辺でキャンプにしましょうか」
見晴らしの良い小川のほとりに出たところで、ゲッカ様がそう提案なさいました。
「そうですわね」
わたくしも、それに賛成致します。
ゴアナの森で、ここまで野営に適した場所もそうそうないでしょう。
それにわたくし、今日は戦闘も行っていないのに少々疲れてしまいました……。
なにせゲッカ様は魔物の接近を感知なさる度にわたくしを引き寄せ抱きしめてくださるため、わたくし大変美味しい思いを……コホン。
とても大切にしていただいていることを実感して、終始ドキドキしっぱなしだったんですもの。
「んじゃ……《アボイド》」
ゲッカ様が《ハイド》と同じ闇系統の魔法、《アボイド》を使われます。
またも膨大な魔力が黒い靄のように変化し、今度はわたくしたちの周囲数十メートル四方程に拡散しました。
普通であれば、《アボイド》の効果は弱い魔物を退ける程度のものなのですが……これほどの魔力量であれば、ゴアナの森の魔物程度一切寄せ付けないことでしょう。
っと、いけませんわね。
「一応かけときましたけど……俺の《アボイド》も例によってスライムが余裕で侵入してくるレベルなので、警戒は怠らないでくださいね」
「えぇ、心得ておりますわ」
ゲッカ様がスライムを引き合いに出される時は、わたくしに慢心しないよう注意を促す時。
わたくし、覚えましてよ。
「さて、そんじゃキャンプの準備しますんで……姫様は、座って休んでてくださいね」
「とんでもございません!」
腕まくりしながらそんなことをおっしゃるゲッカ様に、わたくしは首を横に振ります。
「わたくしとて、兵たちの行軍訓練に参加したこともあるのです。野営の準備くらい手伝えましてよ」
「だとしても、お姫様にそれを頼むのは申し訳ないと言いますか……」
「今のわたくしはトライデント王国の姫ではなく、ゲッカ様と旅を共にする一人の戦士です。対等に扱ってくださいまし」
「そうですか……?」
「そうですわ」
まだ戸惑った様子のゲッカ様に、強く頷きます。
ここまでのところ、ゲッカ様に頼りっぱなしですもの。
これ以上ご迷惑をおかけするようなら、何のためについてきたのかわかりませんわ。
「わかりました。それじゃ、テント張りと料理ならどっちの方がいいです?」
ゲッカ様も納得してくださったのか、そう尋ねてくださります。
しかし、この質問……。
「りょ……いえ、テント張りでお願い致しますわ……」
世の女性は、男性を胃袋で掴むと伺っております。
けれどわたくし、料理にはてんで自信がありませんのよね……だって、料理長が「危ない」って厨房に入れてくれないんですもの。
いつも、それよりもっと危ない剣や魔法を扱っているといいますのにね。
一瞬見栄を張って「料理」と言いかけましたけども、ゲッカ様に下手なものを食べさせるわけにも参りません。
ここは素直に、問題なく行えるテント張りを任せていただくことに致しましょう。
「了解です」
特段何か思うところがあったご様子もなく、ゲッカ様は軽く頷かれます。
……けれど、テントなんてどこにあるのかしら?
料理にしても、調理器具の類も見当たりません。
わたくしてっきり、今回の旅は身軽さを重視してそういったものは持ってきていないと思っていたのですけれど。
実際、わたくしもゲッカ様も武器の他には動くのに支障がない程度の背嚢しか持っておりませんわ。
「《ゲート》」
そんなわたくしの疑問に答えるかのように、ゲッカ様が小さく呟くと共に宙を撫でるように指を動かされます。
するとまるでその指が空間を斬り裂いたかのように、そこに黒い『穴』が生まれました。
ゲッカ様は当たり前のように、そこから折り畳まれたテントや調理器具、果ては肉やら野菜やら調味料やらを次々と取り出されます。
《ゲート》……異空間へ繋がる扉を開き、物質を収納する
聞いたことはありましたが、実際に使われるのを見るのは初めてですわ。
空系統の中でも、相当高い練度がなければ扱えないと聞いておりますのに……。
「ゲッカ様、《ゲート》まで扱えたのですね……」
「まー、俺のじゃ多少荷物が減らせる程度のしょっぱい魔法でしかないですけどねー」
とんでもない、《ゲート》が扱える魔法師ともなれば普通どこの国の軍でも引っ張りだこですわ。
なにせ《ゲート》が繋がる先の空間はこことは時間の流れが違うとかで、何日経過しようがほとんど収納時と同じ状態で物を取り出すことが出来ると聞いております。
その使い手が兵站部隊に一人でもいるかどうかで、大きく状況は変わることでしょう。
「それじゃ姫様はこれ、お願いしますね」
けれどゲッカ様は誰誇る事もなく、何でもないことのようにわたくしの足元にテント一式を置かれます。
……いいえ。
実際、ゲッカ様からすれば取るに足らない魔法ということなのでしょう。
「しょ、承知致しましたわ!」
こんなに凄い方の旅に同行出来ることを……そしてこの方を他ならぬわたくしが召喚したのだということを、少しだけ誇らしく思います。
全てはゲッカ様の努力の賜物であり、わたくしが誇れることなど本来何もないはずなのですけれど。
それでも高揚した気分のまま、わたくしは張り切ってテントを組み立て始めました。
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