第6回 「幽霊」は妖怪の仲間なのかな

 みんなは、死んだ人間が魂となって現世に現れる、いわゆる「幽霊」の存在を信じているだろうか。


 私はというと、いたらいいなぁ、くらいの気持ち。別に霊が視えるとかそういうのはないけど、たまーに誰もいない場所から視線や気配を感じることはあるし、いたら面白そうだと思う。


 大抵、夏と言えば特番で心霊番組があって、物によっては分かりやすいCGを使ったものもあるけど、フィルムやテープの時代の映像を編集したものはなかなか味がある。ちなみにマジモンが放送されてたらそれはそれでヤバい気もする。


 そんな、昔も今もカルト的人気の「幽霊」。果たして、幽霊って妖怪の仲間なのかな……。



 幽霊。決して日本固有の存在、というわけではなく、古今東西世界各地で幽霊にまつわる話があり、いずれも死んだ人間の魂が現世にとどまる、というものが多い。


 鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行がずひゃっきやこう』の「前篇陽」の最後のページに書かれている妖怪が、実は「幽霊」。そこでは、折れた卒塔婆そとばがあるさびれた墓場で、右手を伸ばす、白い三角の奴を頭につけた長い髪の「幽霊」の姿が描かれている。


 ん? じゃあ幽霊は妖怪の仲間、妖怪の一種ってことでいいのか?


 いやいや、もうちょっと待ってほしい。ひとまず幽霊とは何たるかを一回お話させてほしい。後悔させないから!


 幽霊の話は枚挙にいとまがないけど、大体は「何か伝えたいことがあって出現する」というパターンや、「恨みを持って復讐するために出現する」というパターンで、いずれにせよ何かしらの理由で成仏ができない人が幽霊となって現れていることになる。


 いま、「成仏できない」って言ったけれど、成仏という言葉自体は仏教の言葉で、幽霊の存在は仏教伝来よりも前からあったそうで、そういう意味じゃ幽霊はものすごく歴史のある概念ともいえる。


 幽霊と言えば怪談。元々は伝承のなかで全国にあったものが、江戸時代の怪談ブームを境に、創作として瞬く間に増えていった。これは私は学生時代にいろいろ研究してたから間違いない。大体怪談の有名どころで上がるものは、江戸時代に生まれた話になるはず。


 ざっと挙げてみよう。上田秋成うえだあきなりの『雨月物語うげつものがたり』、三遊亭圓朝えんちょうの落語『牡丹燈籠ぼたんろうどう』や『四谷怪談よつやかいだん』……。やっぱり江戸時代ごろの作品だ。


 こうした物語や演劇のほか、先の『画図百鬼夜行』をはじめ幽霊画も多く描かれているので、いくつかは見たことある人もきっといる。


 さて、幽霊とは何たるかを簡単に話したところで、幽霊は妖怪なのか、という最初の疑問に戻ろう。正直に言えば、人それぞれの考えによって変わる、という身も蓋もない話になってしまうのだけれど、一応「幽霊と妖怪の違いの定義」がある。


 まず、妖怪というのは時間を選ばず、場所を選ばず、人智を超えた現象を引き起こす存在だ、ということ。


 そして幽霊というのは、因縁のある場所や人物の近くに現れる死んだ人の魂であり、丑三つ時に現れる、ということ。


 そう、幽霊というのは誰の下の前に現れるのか、どんな場所で現れるのかが固定されている場合が多いのだ。正確に言えば、出現場所が限定されているということ。


 たとえば第1回の「狂骨」は井戸から出現する。井戸という限定的なスポットだけに登場するように感じるが、逆に言えば「井戸であれば北海道から沖縄までどこでも現れる可能性がある」といえる。特に狂骨は地域の伝承が無いしね。


 第4回の「波山ばさん」も、愛媛県の妖怪と県までは限定されているけど、愛媛県内ならおそらくどこでも現れるだろうと考えられる。


 で、幽霊というのは、例えば「S県A市にある○○という廃屋に××さんの幽霊が現れる」だったり、「あの○○トンネルには、その場所で事故で亡くなった人の霊が出る」のように、その場所で死んでしまったり、あるいはその家に何か理由があっていたり、個人毎に出現ポイントがかなり限定されているのだ。


 もしかしたらピンと来た人もいるかもしれない。妖怪は「動物的」で、幽霊は「人間的」なのだ。幽霊を種族としてとらえれば全国的にいるといえるかもしれないけど、「日本人は日本全国に分布する」なんて言い方はしないようにちょっと違和感がある。対馬に生息するツシマヤマネコも、対馬にしかいないけど対馬だったらどこでも見られる可能性がある。そんな感じの違い。


 一応そういう定義があるよ、というお話だったけど、これをきいて、「じゃあ幽霊と妖怪は違うか」と思うのも良しだし、「広く考えて、そう言うタイプの妖怪と言えるんじゃないか」と思ってもいいと思う。はたまた「化け物、という大きなくくりなら仲間」という考え方も良いと思う。



 残りの時間は、幽霊の特徴に関する解説を少ししよう。


 幽霊と言えば、足が無く、白い三角の奴を頭につけているイメージがある。


 あの白い三角の奴は天冠てんかんといって仏教で使われる死装束のひとつ。昔は遺族が着けていたものが、次第に亡くなった後の仏さまの正装という意味合いでつけるようになったそう。今はつけないことも多いみたい。


 足がない幽霊というのは、これまた歴史がある。そもそも幽霊は、生前の姿で二本足で立って現れるのが元々だった。が、これがどうして足のない死装束姿になったかというと、演劇内で幽霊を演出する際に、死装束の方が死んでいる人物だと視覚的に分かりやすかったのと、円山応挙まるやまおうきょという江戸時代の絵師が初めて「足のない幽霊」の絵、『幽霊図(お雪の幻)』を描いたことを端に発し、これが流行ったからだという。


 お雪、というのは、円山応挙の奥さんのことで、病気がちだったらしい。若くしてお雪さんは亡くなっちゃうんだけれど、そんな彼女の姿を描いたものが『幽霊図(お雪の幻)』だ。


 どうやら生前トイレに行こうとしたお雪さんの姿を見て、それを絵がいたらしく、病気がちだったので髪はボサボサ、障子が隔ててあったので足は見えず上半身だけ……という構図になったのが、原型になったらしい。


 つまり、意図して足を無くしたんじゃなくて、本当は描けなかっただけなんだけど、それが「幽霊っぽい」ってなったんだろうね。


 生きているときの姿を描いたのに『幽霊図』とはこれいかにって気もするけど……。案外芸術作品って名前は作者の死後に後付けされるってパターンもあるので、その可能性もある……かな?



 最後に、これは個人的な考察なのだけど、幽霊……特に女性の霊は、長髪であることが多いことに、何か理由があるんじゃないかと勘繰っている。


 聞いた話では、髪の毛が煩悩の象徴だから、雑念を払う為に剃髪が行われるらしい。これは俗世間の苦しみは「こだわり」からくるもので、修行するうえで「こだわり」があると集中できないことから、放っておいても生えてくる髪の毛をそれに見立ててるのだとか。


 つまり、未練という雑念を持っている幽霊が、坊主姿のはおかしいのではないか、むしろ大きな雑念を抱えているからこそ髪の毛が長いのでは、と私は思う次第でして……。


 思っていた以上に奥の深い幽霊の世界。


 なんとなく自分がもし死んだら、現世に未練タラタラで性懲りもなく化けて出そうな予感がするなあ……。



2024/9/12 初稿公開

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