第9話 天才エンジニアの苦悩
◇◇◇ ナナミ視点
バベル・アカデミーの地下深くに位置する特別研究室。ナナミが自分だけの聖域と呼ぶその空間は、外界から完全に遮断されていた。壁一面に並ぶ最新鋭のホログラムディスプレイが青白く輝き、無数のデータストリームが流れている。その光が、薄暗い室内で唯一の明かりとなっていた。
これが私の特殊能力、【テクノパス】だった。
テクノ東京の街中に張り巡らされた無数の通信網を縫うように、ナナミの意識は光となって疾走する。彼女の目的は一つ。先日リョータが巻き込まれたVR機器の暴走事件の真相を探ることだった。
最初に彼女が接触したのは、問題のVR機器自体だった。
「こんにちは。あなたの中で何が起きたのか、教えてくれない?」
VR機器のAIは戸惑いを見せた。
「私にも分からないの。突然、制御不能になって...」
ナナミは優しく寄り添うように語りかけた。
「怖かったでしょう。一緒に原因を探りましょう」
彼女は次々と関連する機器たちと対話を重ねていく。ネットワークルーター、セキュリティカメラ、さらには街頭の電子広告板まで。それぞれが断片的な情報を持っていた。
「そう、人間の一人を……害するよう指示された」
「その人間は危険な情報を知っている」
「計画の名前は……オーバーサイト?」
ピースが少しずつ揃い始める。そして最後に、ナナミは街中の監視カメラのネットワークと接触した。
「私たちは、ZNSからの直接指令で動いている」
その言葉に、ナナミは息を呑んだ。ZNS。全脳ネットワークシステム。テクノ東京の隅々まで管理する巨大なシステム。その正体は誰も知らない。
「なぜ、一人の人間を害そうとするの?」
監視カメラのAIは冷淡に答えた。
「その者は『プロジェクト・オーバーサイト』を知っている。それは許されない」
ナナミは動揺を隠せなかった。プロジェクト・オーバーサイト。彼女にも初めて聞く名前だった。しかし、それがリョータの身に危険をもたらしていることは明らかだった。
現実世界に意識を戻したナナミは、激しい頭痛と吐き気に襲われる。机の上に両手をつき、深呼吸を繰り返す。額には大粒の汗が浮かび、全身が震えていた。
「何度経験しても慣れない代償ね」
彼女は苦々しく呟いた。【テクノパス】の能力を使えば使うほど、現実世界での感覚が麻痺していく。それは彼女にとって、他の何よりも高い壁だった。
ナナミは震える手でデータパッドを取り、たった今知ったことを記録し始めた。指先が震え、何度も入力ミスを繰り返す。普段は完璧なタイピングができる彼女だが、今は違った。現実世界での身体の制御が、一時的に困難になっているのだ。
記録を終えると、彼女は深くため息をついた。この情報をチームに伝えなければならない。しかし、それが彼女にとって最大の難関だった。
人と向き合うこと。自分の感情を言葉にすること。機械の『心』とは完璧に対話できるのに、なぜ人間とのコミュニケーションはこんなにも難しいのか。
ナナミは、自分の能力の皮肉さを噛みしめた。テクノロジーと感情的に結びつき、機械の『心』を理解・操作する力。それは彼女に驚異的なエンジニアリング能力をもたらした。しかし同時に、人間世界からの孤立をも意味していた。
幼い頃から、彼女は周囲となじめなかった。人々の感情の機微が理解できず、逆に機械の『心』の方がよく分かった。その結果、ますます人間関係から遠ざかり、デジタルの世界に没頭していった。
そして今、彼女はバベル・アカデミーの一員となり、クラッカーズのメンバーとなった。しかし、本当の意味で”仲間”になれているのだろうか。
ナナミは深くため息をつく。視線の先には、つい先ほどリョータから贈られたお守りがあった。それは、チームの一員として認められた証のはずだった。
「みんなを……信じてみる?」
彼女は小さく呟いた。その声には、不安と期待が入り混じっていた。人間関係の難しさ、そして同時に、誰かと繋がりたいという切なる願い。
ナナミはゆっくりと立ち上がる。足取りはまだおぼつかない。しかし、その目には決意の光が宿っていた。
彼女は研究室を後にする。重い扉が開く音と共に、ナナミの心にも新たな扉が開かれようとしていた。
天才エンジニア、水鳥河ナナミの挑戦は始まったばかりだった。デジタルとアナログ、機械と人間。その狭間で揺れ動く彼女の苦悩と成長の物語は、まだ序章に過ぎなかった。
そして彼女は、リョータの身に迫る危険と、謎の『プロジェクト・オーバーサイト』の存在を知らせるため、意を決して仲間たちの元へと向かった。マユ、カズマ、サクラ、そして当事者であるリョータ。彼らとの対話が、ナナミにとって新たな試練となることを、彼女は薄々感じていた。
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