第3話 電脳クラブの謎の少女

 目を開けると、頭上で無数のケーブルが蜘蛛の巣のように絡み合っていた。体中が痛む。ゆっくりと上体を起こすと、周りには雑多な機械の部品や使い古されたサイバネティクスが積み重なっていた。


「よかった、目が覚めたのね」


 声のする方を見ると、さっきの長髪の少女がいた。青紫色の髪が、薄暗い照明に照らされてわずかに輝いている。


「君は……」


阿佐蔵あさくらマユ。あなたを助けた」


 マユと名乗った少女は、僕の左腕を指さした。ZNSインプラントが外されている。代わりに、古びたデバイスが取り付けられていた。後でマユに聞いたところ、偽装デバイスらしい。


「追手から逃げるには、これが必要だったの」


 僕は息を呑んだ。ZNSインプラントを外すなんて、知識としては知っていたが、自分で外そうだなんて考えたこともなかった。


「……ここは、どこ?」


「安全な場所よ。でも、長居はできない」


 マユは立ち上がると、僕の手を取った。


「動けるわね?行くわよ、リョータくん」


 僕の名前を知っていることに驚いた。あれだけ大々的に僕の顔と名前が公開されたのだ。彼女はそれを見ていたのだろう。今は確認する暇はない。彼女について行くしかなかった。


 痛む体を引きずるように薄暗い通路を抜けると、突如として騒がしい音楽が耳に飛び込んできた。目の前に広がったのは、想像を絶する世界だった。


「ようこそ、デジタル・ニルヴァーナへ」


 機械的な声とともに、目の前に広がったのは、想像を絶する未来都市の縮図だった。


 天井まで届く巨大なホログラムスクリーンが無数に並び、そこに映し出される情報の洪水が目を惑わせる。ニュース、株価、暗号通貨の相場、違法な情報取引の広告...すべてが目まぐるしく変化し、クラブ全体を青や紫、赤のネオンカラーで彩っていた。


 床からは霧のような蒸気が立ち上り、足元がおぼろげになる。その中を、ホバーボードに乗った給仕が軽やかに滑っていく。彼らの手には、幻想的に光る未知の飲み物が載ったトレイ。


 耳を圧倒する重低音のビートが鳴り響く中、ダンスフロアでは人々が狂ったように踊っている。その動きは人間離れしていて、機械化された体がぎこちなくも独特のリズムを刻んでいた。


「ここなら、しばらくは安全よ。電脳クラブって知ってる?」


 マユの声に我に返り、彼女をあらためて見つめた。


 クラブの喧騒の中、マユの存在だけが異質な輝きを放っていた。


 彼女の青紫色の髪は、まるで夜明け前の空のように神秘的な色合いを帯びている。その長い髪は、彼女の動きに合わせてしなやかに揺れ、ホログラムの光を受けては幻想的な輝きを放つ。髪の毛先は、まるで星屑のようにきらめいていた。


 マユの服装は、この未来的なクラブの中でも特別な存在感を放っていた。彼女は深いネイビーブルーのハイネックセーターを着ており、その生地は光を吸収するかのように深みのある色合いを醸し出していた。セーターの袖口と裾には、かすかに光る繊維が織り込まれており、彼女の動きに合わせてわずかに明滅する。


 セーターの上には、シルバーのチェーンがいくつも層になったネックレスを身につけている。それぞれのチェーンには小さなデジタルディスプレイが付いており、時刻や気温、さらには彼女のバイタルデータまでもが細かな文字で流れている。


 下半身には、黒のスキニージーンズを履いている。その表面には、まるで星座のように微細な光点が散りばめられており、彼女が歩くたびにその光の配置が変化する。足元には、シルバーのアンクルブーツ。そのヒールの部分が淡く発光しており、歩くたびに足跡が一瞬輝くような錯覚を起こす。


 右手首には、薄いシルバーのブレスレットが巻かれている。一見すると普通のアクセサリーだが、よく見ると極小のホログラム投影装置が組み込まれていることがわかる。


 顔立ちは、人工的な完璧さと自然の柔らかさが絶妙に調和している。高く通った鼻筋、優しく弧を描く眉、小さくも艶やかな唇。それらが織りなす表情は、儚さと強さを同時に感じさせる。


 しかし、彼女の魅力の中心は紛れもなく、その大きな瞳だった。深い碧色の瞳は、まるで果てしない海のように深く、見る者を引き込む。その中には、悲しみや痛みの影が垣間見えるものの、それ以上に強い意志と優しさが宿っている。瞳に宿る光は、時に鋭く閃き、時に柔らかく包み込むように揺らめいていた。


 肌は、淡い月光のように滑らかで透き通っている。ネオンの光を受けて様々な色に染まっては消えていくその姿は、まるで生きた万華鏡のようだ。頬には僅かにピンク色が差し、生命の温もりを感じさせる。


 マユの立ち振る舞いには、何か特別なものがあった。腕を上げる仕草、首を傾げる角度、立ち止まった時の佇まい。それらすべてが、どこか人並み外れた優雅さを感じさせる。その姿は、このクラブにいる他の誰とも違っていた。


 彼女が歩くたびに、周囲の空気が変わっていく。喧騒に満ちたクラブの中でさえ、彼女の周りだけは不思議と静寂が広がる。人々は無意識のうちに彼女に道を譲り、彼女が通り過ぎた後もしばらくその残像を追いかけるように見とれている。


 マユの声は、クラブの騒音をかき消すほど澄んでいた。それでいて耳障りではなく、むしろ聞く者の心に直接響くような、不思議な魅力を持っている。笑うたびに、周囲の空気が明るくなるようだった。


 そして何より印象的だったのは、彼女が醸し出す独特のオーラだ。華やかさの中に秘められた孤独感、強さの裏に隠された脆さ、明るい笑顔の奥に垣間見える哀しみ。それらが複雑に絡み合い、見る者の心を掴んで離さない。


 マユは、このデジタル・ニルヴァーナという非現実的な空間の中で、最も生々しい現実として存在していた。彼女の姿は、このクラブに集う人々の願望や憧れ、そして痛みをすべて映し出す鏡のようでもあった。


「どうしたの? そんなに見つめて」


 マユの問いかけに、僕は誤魔化すように軽く首を左右に振った。彼女の存在があまりにも鮮烈で、周囲の喧騒さえ忘れてしまうほどだった。顔が熱くなるのを感じる。


「あ、いや……ここは?」


「デジタル・ニルヴァーナっていう電脳クラブ。ここにいる人たちは、みんな何かから逃げてきた人たち。だから追われる人たちには安全な場所なの」


「それは、僕も?」


「そう。リョータくん、あなたも例外じゃない」


 マユの言葉に、僕は複雑な感情を抱いた。確かに僕は逃げてきた。しかも、親殺しの濡れ衣を着せられて。


「この時代に指名手配犯なんて使われているからね」


「いいえ、その前からあなたのことを知っていたわ」


 クラブの喧騒が一瞬遠のいたかのように感じた。マユは僕の目をじっと見つめ、静かに口を開いた。


「リョータくん、あなたの未来が見えるの」


 その瞬間、彼女の碧眼が虹色に輝いた。そして、僕の目の前の景色が歪み始めた。ホログラムスクリーンが溶け出し、クラブの喧騒が遠のいていく。


 マユの姿だけが、くっきりと浮かび上がっていた。

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